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あれほど買っていた酒の残りも少なくなり、これまでまったくと言っていいほどに顔色の変わらなかったマルコさんの頬にほんのわずかに赤みが差しだした。
お猪口に注いだばかりのそれを一口で飲みきって、マルコさんは「もし」なんて例え話を口にする。
「もし、お前が。お前が、おれの世界に来たとしたら、何をしたい」
「──── ……」
同じように、注いでいたほろ酔いを飲もうとグラスの縁に口を付けていた私は、その質問に思わず固まった。どう答えるのが正解か、その質問の真意を読み取ろうとマルコさんの瞳をじっと見据えるが、それは不自然なく逸らされる。
「……お前だってゾンビがおれの世界に来たら、なんて話したろい。それと一緒だと思えばいい」
「……そう、そうね。うーん、マルコさんの世界に私が行ったら、かぁ……」
互いに、ほんの冗談であることを前提にして、考えてみる。
例えば空島だとか。魚人島だとか。シャボンディ諸島の遊園地だとか。面白そうで行ったみたいところはいっぱいある。
マルコさんの仲間にも会ってみたいし、白ひげ様にも会ってみたい。シャボン玉に乗ってどこまで行けるか試してみたいし、雲に寝そべってみたいし、雪は降っても積もることのないこの県だから、冬島でマルコさんと雪遊びだってしたいし、まん丸で鮮明な虹だって見てみたい。その世界独特の食べ物だって食べてみたいし、許されるなら悪魔の実の能力者にもなってみたい。
冗談であればこそ、少し考えるだけで山のように出てくる願い事。
それを聞くたびにマルコさんは小さく吹き出していた。さすがに私だって子どもすぎていたと分かっているけれど、この世界にないものを見てみたいと思うのは仕方ない。
「能力者になるのだけは許せねェが、あとはずいぶんと可愛いもんだねィ」
「マルコさんにとってはあたりまえだもの……」
こうして考えてみるとこの世界はずいぶん夢のない世界である。科学は著しく発達していて、私というただの一般人はその恩恵を受けているだけの存在だけれど、科学の代償と言うべきか。この世界で起きるあれこれはどれもこれも科学的に説明できるもので溢れている。もちろん幽霊系の云々に関しては否定の材料になるのだから嬉しいことばかりだが、別世界のことを聞いてしまうとつまらないな、とも思ってしまうのだ。
しかしそれでも。けれども、こんな世界だから。
夢のない、こんな世界だからこそ。
「……この世界だから生きていられるのよね、私。マルコさんの世界に行ったら、私なんかすぐに死んでしまいそう」
国によってある程度の安全が確保されていて、たとえ犯罪者であっても人権が保持される。法が敷き詰められているそんな世界の、そんな日本だからこそ、私はこれまでなんの不自由もなく生きてこられた。
海賊だから。だから、世界は、人々は、政府は、海賊たる彼らを殺してもいい。
“海賊だから”、そんな理由ひとつで殺人が合法化される世界の、なんと恐ろしいことか。
「……そうだな。お前の生きてる世界がここでよかったよい」
──── こんな世界があるってェのもいいもんだ。
彼には物足りないはずの平和な世界で、彼の家族が誰ひとりとしていないこの世界で、それでも彼なりに共感して、良い所を見つけてくれて、褒めてくれることがどれだけ嬉しいか。
その些細な一言が彼の強さを物語っていた。
アルコールでグラグラと揺れる視界の中、祈ることくらいしかできない私は、マルコさんの背景にぽっかりと浮かぶ月に、元の世界でもどうか死にませんようにとひっそり彼の安全を祈願した。そして今度はアルコール度数の高いお酒に手を出すマルコさんに視線を移す。少し赤いその横顔を見つめていると、ふと。ぽかぽかと暖かくて、“色”のない感情が浮かんでくる。それは、
「……すき、だなぁ」
「…………あ?」
◇
アルコールに弱いくせにマルコさんに感化されて飲みすぎたのがいけなかった。ガンガンと割れるような頭の痛みと、鼻腔の奥に留まる酒の匂いに吐き気を催す体を受け止めたのはしかし、ブルーシートの床ではなく見慣れたベッドである。
いつもは締められているカーテンは開け放たれており、そこから容赦なく零れる柔らかな陽の光が完全に次の日であることを告げていて、痛む頭をどれだけ酷使しても自力でベッドまで辿り着けた記憶はない。つまるところ、そばにいた人──── マルコさんに労働を課してしまったらしい、と把握すれば、サア、と血の気が薄らいだ。時刻はとっくにお昼時を過ぎている。部屋のドアをやや乱暴に開けると途端に階下から漂う香ばしい食事の匂いに躓きながら落ちない程度に階段を駆け降りた。
そんな慌ただしい音に反して落ち着き払っているマルコさんは珍しく眼鏡をかけているようで、テーブルに並べられたひとり分の食事を片手に新聞から目を上げた。さながら休日の父親像そのままのマルコさんの顔からは疲れも不調も一切感じ取れず、いつもの表情で「よく眠れたか」なんて、いつかの私の言葉を真似たのだった。
「……だ……ッ、う、」
「落ち着け。言葉になってねェ」
「き、きの、昨日! わたし! あの、部屋……というか記憶! なくて! わた、私……っ、迷惑……!」
自分の発した言葉の意味も理解できてないようじゃ、そんなのマルコさんも理解できるわけがないだろうに。ちゃんとした意味になるように訂正する頭もなく、ひたすらわたわたと忙しなく動く私にマルコさんは溜息をひとつ零して、私の前に立つとその大きな手のひらを私の頭に乗せた。動かすことはしなかったけれど、たぶん、撫でられてる……?
「落ち着け。あれだけ飲んだら記憶がねェのも仕方ねェよい。気にするな」
「でもわざわざ部屋に運んで……」
「そりゃあんな所に一晩中転がしとくわけにもいかねェだろい。その弱っけェ体なんざ、冷えて風邪でも引くのが落ちだ」
うう。それでも意識のない人を抱えて階段を登るなんて、さぞ面倒だったに違いない。そう申し訳なさに再度謝ると、「しつけェ」という言葉と共に軽く額を小突かれた。
「空樽より軽いお前を運んだくらいで疲れてちゃ、海賊なんざやってけねェよい」
空樽よりも軽いというのは言いすぎだが、水と飲料ゼリー、それから鎮痛剤を渡されればもうなにも言うことはできず、大人しく口に含む。今度からはちゃんとセーブしようと心に決めながら、そう言えば、と渡されたそれら全てを飲み込んでから気になっていたことを尋ねた。
「私、昨日やらかさなかった? なにも覚えてないから不安で」
「……ああ。べつに何も言ってねェよい」
「そう……? それならよかった」
今日はとにかく、家で過ごそう。霞がかった昨夜の記憶をそのままに、なにも言っていないというマルコさんの言葉を信じて、ズキズキと痛む頭に手を当てながらソファに寝転がった。