一悶着はあったにしろとりあえず私もある程度の冷静さを取り戻し、完全に溶けきったアイスを冷凍庫にしまい直したその足で粗茶を入れて、棚にあったお菓子と共に目の前に座る男に差し出した。

 その際に拳銃といったものを隠し持たれても困るため身体検査の意を含んで私の用意した服に着替えてもらい、ソファなんかを動かして簡単な境界線を作っている。これだけ警戒しているのに二人してお茶を飲んでいるんだから自分でも何をしているんだって思うけれど。

 足元に置いた包丁からそっと目を離して溜息を吐き出しながら途切れさせた話の続きを催促した。

「……で、なんだっけ? ここはどこの海か、だっけ?」
「あァ。ここは前半の海かい? おれら──── おれは“偉大なる航路”を……」
「待……っ、ストップ!」

 グラン……なに? その前についた“前半”も意味がわからないが、男の口から飛び出る聞いたことの無い言葉に慌てて待ったをかけた。すると彼は訝しげに目を細めて、まるで“この程度で遮るな”と言わんばかりのその表情に、私が首を傾げてしまった。

「まずそのグラン……グランド? グラウンド? とかっていうのは海にあるものなの? 島? 沖? それともプレート? ……聞いたことないけれど」

 島や海域は習えどもプレートは大まかなものしかほとんど習わないし、覚えていない。全プレートを習ったわけでもないから小規模のプレートの中にそのグラン……なんとかというものがあったら無知で大変申し訳ないけれど、それにしたって微塵も脳の記憶に掠りもしない。更なる説明を求めて男を見遣るとどうしてか相手は目をまん丸に見開かせて、驚いていた。

「…………あー、」

 何度も口を開閉させて意味を成さない声を上げる。ほんの微かに唸るような声が聞こえてくることから何か自分の中で考えているらしいけれど、まるで“なぜ知らないのか”という表情に私も不安になる。実は常識だっただろうかと記憶を掘り起こしていくがやっぱり聞いたことがない。

 これでも雑談がメインとなる職に就いている。取引相手とは世界のこと、政治のこと、国際問題、時事ネタ、とにかく日々のニュースで互いの意見を交わしながら親交を深めるのだ。
 雑談で好印象を取り付ける営業職の私が勉強不足の意を謙遜の言葉として出すことはあっても、本当に勉強不足かと自身に問いかけるなら答えは否。
 世間一般から見ても常識知らずとは程遠いはずなのだ。それに主要国の常識なら頭に叩き込んでいるのに、そんな私がどうしてそんな目で見られるのかわからずぎゅっと袖を握りしめる。

「あー……聞いていいかい?」
「な、なに?」
「ここは、四つの海のどこに位置してる? “東の海”の外れか」
「……なに? イースト……東? ブルー?」

 果たしてイーストブルー、なんて海あっただろうか。四つの海ってなんのことだろう。三大洋のことか、もしくは附属海のことを言っているのだろうけれど、もちろんそのどれにも“イーストブルー”なんて呼ばれる海はない。それに「七つの海を行く」という言葉はあるが四つとはそう聞かない。
 私の困惑顔を見てか男の表情はどんどん苦くなるばかりである。

「……“東の海”、“西の海”、“南の海”、“北の海”、聞き覚えは?」
「……ごめんなさい。東西南北ほうがくを表している何か……とだけはわかるんだけど」

 そこまで言うと完全に彼は口を閉ざしてしまった。どうにも噛み合わない会話に「少し待っていて」と声をかけてから壁際に作られた本棚の前に立つ。
 様々な分野の本が収められた棚の一番下。カゴいっぱいに仕舞われたそれはどうにも捨てきれなかった、小学校時代からお世話になった教科書たちをまとめている。そこから古ぼけた地図を取り出して小脇に抱えた。

「あの……これ、世界地図なんだけど」

 俯いている彼にそう声を掛けると顔を勢いよく上げ目に光が宿ったような気がした。中学生時代のものとはいえ世界地図であれば問題ないだろうとテーブルに広げる。

「あ、あァ。助かる」
「……四つ……四つの海……あー、日本周辺の海のことを言っているのならたしかに、この四つの海ね。けれど世界の海という意味なら、それは四つではなく七つだし、大洋は五つよ」

 一つ一つ指で指し示しながら教えていく。海が終われば今度は陸へ。日本列島を指したあとそこから左にずらし、韓国、中国、ロシア、アメリカと、ある程度常識たるほかの国を教える。それまで黙って聞いていた彼だがふと抑揚ない声で尋ねた。

「……これは、本当に世界地図か」
「……数年前のものではあるけれど、間違いなく世界地図よ」

 はっきりそう答えると彼の口から漏れるのはついぞ吐息だけで、しまいにはキツく一文字に結んだままになってしまった。
 見た目だけで言えば西洋のそれ。流暢すぎる日本語から高度な教育を受けただろうに齟齬のある会話。一心に地図を見続ける彼に今度は私が口を開いた。

「……あなた、どこから来たの」

 顔を上げた彼の顔は、その目は、暗く陰り絶望に染まっているように見えた。



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