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「──── なまえ?」
私の姿を見るなりマルコさんは長いその足を縺れさせて駆け寄ってくれた。それまで私の目の前にいた男性をはねとばすかの如く押しのけて、ひっくり返るお仲間には目もくれず。辺りは水を打ったように静かになる中、片膝を立てて私に視線を合わせたマルコさんは泣きそうな顔で、それでもくしゃりと笑った。口の動きだけで私が名前を象ると、大きくて暖かな手を私に伸ばそうとするけれど、直前でなにを躊躇ったのか、触れることなくその手は引かれていった。
それにへにゃりと眉を下げれば慌てて、しかし壊れ物を扱うかのように、ようやくそっと頬に触れてくれた。
そんな優しすぎる手つきが、この穏やかじゃなかった空間に身を置いていた私には心地よくて、おもわず擦り寄った。引き締めていた口が、強ばっていた体が弛緩していく。
「なまえ……」
小さく震えた唇から微かな息を吐いて、今度はマルコさんの口が一文字に引き結ばれると強い力で抱き寄せられた。私の首と腰にその大きな手を回して、まるで離さないとでも伝えているかのような強い抱擁。温かな人肌に、つい私も震える手を伸ばす。
「なまえ……ッ、なまえ、
「──── ……あ、」
苦しいとすら思える力加減で抱きしめられることが、マルコさんの少し速い心音が、そしてなにより、私を安心させようとして放ったその一言が、これは夢じゃないと明確に告げていた。夢ではないのだと。ゆえに『大丈夫』だと。これは現実だ。私はたしかにここにいる。足をつけて、ここにいる。
「……マル、コさ……」
「なまえ、」
一際大きく立った波が欄干を越えて、いくつかの水滴が私の髪にかかる。前髪から滴った雫がぽたりと睫毛に落ちて、震えた睫毛から頬に落ちた。
冷たかった。潮くさかった。木目の通る甲板に、ずっと座っている足首が擦れて痛かった。首元がひりひりと傷んだ。
──── マルコさんが、温かった。
それを認識すると同時に視界はどんどんと曇りはじめて、水の膜が張られていく。
「……っ、マルコ、さん……!」
どうして私はここにいるの──── !
私の、そんな掠れた悲鳴にマルコさんは抱きしめる力を強くして、ただ一言、「大丈夫」とだけ口にした。何度も何度も。「大丈夫」だと。マルコさんの肩を濡らし、嗚咽を堪えてうまく息を吸えない私の背中をとんとんと優しく叩きながら、ずっとマルコさんは「大丈夫」だと言い続けた。
◇
ぐずぐずと鼻を鳴らして、いつのまにか自分からマルコさんに寄りかかっていた。全体重を預けて、その肩を枕代わりに重たい瞼を下げる。騒がしくなっていた甲板の喧騒から背くように。そんな姿はまるで愚図る子供だ。それでも閉じた目をマルコさんに押し付ける。暗くなる視界に安心すら覚えた。なにも見たくないし、なにも聞きたくない。
そんな私の頭を撫でたりはするものの、何も言わないマルコさんが救いだった。
それが何分か続いた頃、おずおずと男の声が闖入してくる。聞き覚えのあるそれは多分、リーゼントのあのひとだろう。
「あのぉ……邪魔して申し訳ねえけどさ……もしやその子、生き別れの妹だったりすんの……?」
「馬鹿言え。……いまは紹介できねェが、落ち着いたらオヤジにも報告する。それまでは休ませてやりてえんだ。悪ィが部屋に戻るよい」
男に飛ばした声とは打って変わって、優しい声色で私の名前を呼んだ。微かな身動ぎで返事をすると私の髪を梳きながら耳にかけて、そして静かな声で「歩けるか」と尋ねた。
怪我をしているわけじゃないし、それはマルコさんもわかっている。だからこの「歩けるか」は、「顔を上げて歩けるか」という意だろう。それにイヤイヤと小さく首を振る。泣き腫らした顔を見せたくないのはもちろんのこと、今は船から見えるだろう海も、見知らぬ人々も、……海賊旗も、現実を直視するそれらすべてを見たくない。
マルコさんは分かっていたかのように「だろうな」とだけ答えると私の膝裏に手を回して、そのまま軽く持ち上げた。ぐん、と浮き上がる感覚に細く目を開けると視界がずいぶんと高い。その際にちらりと入るマルコさんの仲間の顔にまた見たくないと目を逸らして、再びその肩に顔を埋めた。
「置きたきゃだれか一人くれェなら置いてもいい。ただし最初に寄越した新人はやめろい。それとサッチ、あとで昼飯を取りに行くから作っとけよい。数はひとつでいい。一番隊は何かあればラクヨウ、もしくはイゾウに報告しろ」
早口にそう言い放つマルコさんは誰からの返答も待たずに歩き出した。鋭かった視線は困惑に変わりなお私に突き刺さっている。視線に殺されそうだ、なんてことは初めて思った。悪意に満ちた視線に晒されるのがこんなに疲れることも、初めて知った。
そうして明るい船外からどこかほの暗い船内に変わり、部屋のドアが開いて、閉まるその音を聞いてようやく私は顔を上げた。
まず目に飛び込んでくる中央に置かれたデスクと、その上に散らばるように積み上がる書類、航海術やら地図やらで埋まる様々な本がしまわれた大きな本棚。どうやらそれら以外に物は置かれていないようで、人が住んでいることを示す物はあるのに質素と感じるその部屋はどことなくマルコさんらしい。
私物といえる類が見る限り置かれていないからだろうか。寝室兼仕事部屋、というよりは、書斎に仮眠用のベッドが置かれていると思ってしまうような。しかし壁に掛けられている見慣れた洋服が間違いなくマルコさんの部屋だと示していた。
「……あの服」
「あ? あァ、お前がくれたもんだよい。捨てちまうのももったいねェからな。さ、降ろすよい」
スプリングが軋んで静かにベッドの上に降ろされる。薄いタオルケットを上からかけてくれて、潮水で濡れていた前髪を払うとマルコさんは同じく少し隙間の空いているベッドに腰かけた。
真剣さを宿したマルコさんの視線が一心に降り注ぐ。
「なまえ、お前がここにいるのは間違いなく本当だよい。海賊もいるし、おれも、オヤジも、おれの家族もいる。能力者がいて、海にゃ海王類がいる、おれの世界だ。お前のところみてェに平和な世界じゃねェよい」
「っ……」
「それを認めねェと、やってけねェよい。帰る方法を見つけるにしても、なんにしても。それまではお前はこの世界で過ごすしかねェ」
話す内容は物騒だというのに、まるで幼子を相手するかのようにマルコさんの声色は優しく穏やかである。自分で擦りすぎてヒリヒリと痛む目の縁を優しい指が、真新しい水滴を攫っていく。
「なまえ──── 認めろ」
お前はここにいるのだと。
Take care not to step into the pool.
──── 水たまりに踏み込まないよう気をつけなさい
──── 水たまりに踏み込まないよう気をつけなさい