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 泣いて、絶望して、また泣いて、そんな姿をマルコさんはずっと何も言わずに、私が現実を受け止めるのを待ってくれていた。どれだけ時間が経っても、私の取り乱し様を見守ってくれていた。

 そうやってすべて吐き出して、どうしてとシーツの波を蹴っても、皮膚に爪を立てても、その痛みは本物で、それでも私がここにいるのは変わらなかった。本当に夢じゃないのなら、私がここにいることが、現状が変わらないのなら、私が変わるしかなかった。



episode3
Never tell a lie; always tell the truth.





「…………は、」
「落ち着いたかよい」

 深呼吸をひとつして。また込み上げそうになる悲しさも、絶望も、しゃくりも、息を止めることで奥底にしまい込んだ。


 ──── しっかりしてよ。いつまで学生気分なの? 貴方はもう社会人なんだから。
 ──── いい歳こいて、あんなこと。恥ずかしくないのかな。


 『いい大人が』『大人のくせに』『許されるのは学生だけよね』
 生きていれば幾度となく聞くこの言葉たちは、大学を卒業したてで、大人と子どもの境界線がわからなかった私に深く突き刺さった。

 学校を卒業したら。社会人になったら。二十代後半になったら。三十を越えたら。だれかの個人的な采配によって決められた境界線によって、私はいつの間にか“大人”であったし、“いい歳した”大人であった。

 “大人”は癇癪を起こさない。“大人”は非常時でも“大人らしく”振る舞わねばならない。“大人”は泣き喚かない。そんな、ともすれば呪いのような常識という鎖が巻きついてる私に、これ以上醜態を晒すことなんてできなかった。

 しっかりしろ。私はもう、いい歳した大人だ。
 しっかりしろ。私はもう、親の庇護下にあるべき子どもじゃない。
 しっかりしろ。私はもう、独りでも生きてゆかねばならない大人なのだ。
 そうずっと繰り返し唱えて、やっと感情を封じ込められたころ、そっと目を開けてマルコさんを見つめた。

「……ねえ、マルコさん」
「ん?」
「私、お腹がすいた」
「……あ?」

 タイミングが良いのか悪いのか。お腹からぐう、と腹の虫が鳴いた。それを聞いたマルコさんはさっきまでの心配そうな目から一気に白けた目になったけれど、私の頭を少し乱暴に撫でると「ほら」と分厚い手のひらを差し出される。それに私の頼りない手を乗せて寝ていた上体を起こしてもらうと途端にふたりの距離がぐっと近まった。

 いつもと同じような眠たげな目だが、少し皺の寄る眉間がどうやらまだ心配しているらしい。もう大丈夫だと告げる笑みを浮かべるとようやくマルコさんも口角を上げてくれた。

「もう食えるほどに回復したのかよい?」
「ん。食堂とかあるのよね、私も行こうか?」
「……いや。用意はさせてあるからそれを持ってくるよい。悪ィがここで待っててくれねェか」

 自分のご飯だし、と思って伝えた提案は暫しの思案のあと、ゆるりと頭を振られて却下をくだされた。どこか申し訳なさげなマルコさんの表情に、この部屋に来る前の彼の発言が脳裏を過ぎった。


 ──── 置きたきゃだれか一人くれェなら置いてもいい。ただし最初に寄越した新人はやめろい。


 平穏な日々で生きている私にとって、あの発言の真意を正確に測ることはできない。けれど言わんとしていることはさすがにわかった。“置きたければ”は、おそらく“誰か”を置きたければ、ということ。“最初に寄越した新人”は間違ってなければ、甲板でマルコさんに会いたいと言ったときにリーゼントのひとに噛み付いていた人のことだろう。
 つまり、“監視役としてマルコさんの部屋の外に誰かを置いてもいいが、あの新人を配置させるのはやめろ”という発言になる。監視対象が誰なのかはわざわざ考えるまでもない。

 突然船に舞い込んできた不審人物を、マルコさんの知り合いだからと言って信頼するほど甘くはない。そんなことくらいはわかる。もちろんそれに対して“悲しい”だとか、“気まずい”とかの感情はないけれど、考え無しな私の発言のせいで、変にマルコさんに気遣わせてしまったことに関しては、少し反省した。おとなしくマルコさんの言うことを聞くしかできない。

「もちろん。じゃあ……申し訳ないけど、持ってきてくれる?」
「……あァ。少し待ってろい」
「お仲間さんにも少し話したりしなきゃいけないでしょう? その間、この部屋の本とか見ててもいい?」
「好きに過ごしてくれて構わねェよい」

 それであるならばと渡されたものは海図と数冊の本だ。試しに中身を適当に捲ってみれば見慣れた、けれど生粋の日本人としては読むのに苦労する言語で書かれてあるものだったけれど、比較的私の拙い英語力でも読解できそうなレベルのものが選ばれているようだった。
 この世界に来てからなんとなく察してはいたけれど、私もマルコさん同様、話す言葉自体は通じているものの、流通している言語は英語が主らしい。

 うーん、ネコ型ロボットから翻訳コンニャクをもらった覚えはないけれど、なんて内心おちゃらけてみる。まああれは食べるだけで会話だけじゃなく文も読めるようになるのだから、やっぱり翻訳コンニャクは食べていないわけで。日本の英語教育の低さを今になって痛感するはめになろうとは。
 ちなみに自分の勉強のし足りなさについては高い高い、自分でも取れない高さの棚に上げておくとする。

 私の頭を軽く撫でて部屋から出ていくマルコさんの背を見送り、ドアが閉じられると溜め込んでいた溜息をゆっくりと吐き出した。

(……海賊船)

 差し出された本はベッドに置いたまま、向かいに設置されてある丸窓に移動すれば、途端に眼前に広がるのは見知らぬ男たちが忙しなく歩き回る甲板である。
 みな一様にどこか肌を露出し、そして箇所は違えども同じマークが刻まれていた。マルコさんの胸にあるのと同じものが。いったいなんの刺青かと思っていたがようやくわかった。海賊旗と同じなのだ。それらが意味するのは船長“白ひげ”。偉大な海の男。マルコさんたちの、オヤジ。

 既に私の存在は耳に入っているだろう。マルコさんも昼食を取りに行く前に白ひげ様に報告のひとつはしなければならないはずだ。甲板でも落ち着いたら報告すると言っていたような気がするし。

(……報告したら、どうなるんだろう)

 白ひげ様本人が私の乗船を許可しなければ、いくらマルコさんとて私を置いてはおけない。たしかに白ひげ様は皆の父ではあるし、間違いなく家族なのだろうけれど、上下関係が消えているわけではないだろうから。船長たる彼が認めなければ私はここにはいられないのだ。
 とはいっても、さすがに非力な小娘ひとりを海に放り出すような非道な人とは思いたくないけれど。

(航海術なんて一切持ってないからなぁ……)

 地に足つけていても携帯がないと移動すらできない現代人に、方角どころか目印になるものすらない海なんて。 船の漕ぎ方すら、オールの動かし方すらまともに知りえないというのに。
 万一にも大海原に放り出されるなんてことになってしまったら、船医に「低体温症、熱中症、餓死、脱水症状、いちばん楽に死ねるのはどれですか」って聞いてやる。まあきっと海王類に食われるというのがいちばん楽な死に方なのだろうが。

「……って、ナイナイ……。さすがにマルコさんが便宜くらい図ってくれるはず……よね」

 せめて近場の島まで送り届けてくれるだとか。むしろ私が考えなければならないのは楽な死に方なんかじゃなく、船を降ろされたあと、今後どう生きていくかという方法である。
 戸籍もなにもない状態で働き口があるのか。家は借りられるのか。

 いっそのこと海軍基地の前に“拾ってやってください”と書かれたダンボールに詰めて置き去りにしてくれたほうがよほど親切である。中身は赤ん坊ではないが、前髪を揃えてパッツンにして、ぶかぶかの洋服でも着て身長を誤魔化して、仕上げに泣き喚いておけば未成年くらいには見られ……いや無理かなあ……無理だろうなあ……。いくらアジア圏が幼い顔つきが多いといってもさすがに無理だろうなあ……。

 そもそも、文字も読めねぇ書けねぇ知識もねぇ三拍子女を雇ってくれる所があるなんて思えない。
 さきほどから頭は“人身売買・強姦殺害・娼婦”の文字でいっぱいなのだ。
 心配事でいっぱいいっぱいの胸を抑えながらひとまずはベッドに座り直して、本を開く。なんにせよ知識がないことには始まらない。知識がなければ覚えればいい。文字が読めないなら読めるようになるしかない。書けないなら書けるようになるしかない。死ぬ気で。

「さて、なになに? the king of the pirates……海賊、の王? GOL.D.ROGER……ごる、ど……? ゴールド? ロジャー、かな」

 “ My treasure? Why, It's right where I left it ────


 時間を忘れて読みふけっていたことに気付いたのは、ドアをノックする小さな音が聞こえて顔をあげれば、なんと既に一時間という時間が流れていたからである。



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