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ノックが聞こえてから数秒後、中にいる人の返答を待たぬまま開けられたドアから顔を出したのはマルコさんである。片手に昼食の乗ったトレイを持って入ってきた。
「おかえりなさい」
「あぁ。……それ見てなんとなく、この世界のことはわかったかい?」
ちらりとマルコさんの目が向けられたのは今しがた私が読んでいた本である。やはりこれは子供向けに簡約された歴史書らしく、ベッドに腰掛けたマルコさんが同じように本を覗いた。
当の問いにひとつ頷きはしたものの、果たしてきちんと翻訳できていたかは定かはではない。理解に齟齬がないか、確認を兼ねて読めた内容を話し始める。
「えっと……ゴールドロジャーっていうひとが処刑される前に言った言葉で大海賊時代の幕開けになって、海賊王という称号を作り上げたってことは……。海軍基地の大まかな見取り図とかも見たよ。歴代の……たぶん、元帥的な人とかの顔も」
「合ってる。ま、子ども向けのもんだからな。真実っつー真実は書かれちゃいねェが、“海賊が悪”っつーことだけはでかでかと書いてたろい」
マルコさんの浮かべる苦い笑みに私も似たような表情で返答する。覚えている限りの文章を頭に浮かべるが、“海賊は悪”というより、“海賊が存在することによって海軍がいかに大変か”という訴えだった。
「……まあ、海軍がいかに大変かっていうのは、少しわかった気はするかな」
これを書いた人物は退役した元海軍兵士なのか、もしくは海軍に金を支払われて書いた案件か、海賊に恨みを持ち海軍を敬うただの一般人か。なんにせよ、この本をみた子どもが将来、海軍とまでは言わずともせめて海賊にはならないようにという想いが多大なまでに組み込まれている内容だった。
そんな感想を聞いたマルコさんは笑みを浮かべただけで、「ほら」という声と共に持っていた昼食を差し出される。握っていた本をベッド置いて受け取ると、まだ湯気立つお茶がふわりと香ってきた。
真っ白なトレイの中央に、可愛いレースが敷かれていて、その上には同じ真っ白な丸いお皿。そのお皿の上には色とりどりの具材が入った一口大サイズのサンドイッチが綺麗に並べられていて、また別皿にはフルーツが盛られている、なんともオシャレな昼食だった。女の子が喜びそうな盛り付けはそりゃあ私も喜ぶもので、感嘆の声を洩らしてしまってつい見入ってしまう。そこで気付いたのは一枚のメモ用紙だ。風で飛ばされないようにマグカップの下に挟まれている。少し字が斜めで、ほんの一言だけ書いたもの。
“食べきれなかったら残していいからな サッチ”
「サッチ、さん」
「……覚えなくてもいいよい」
「えぇー? こんな素敵なものを作ってくれたのに?」
ついメモを見ながら呟いたことによって興味を持ったマルコさんが同じように覗いた途端に眉を顰めてしまって、名前なんて覚えなくてもいい、なんて言われてしまった。名前の主に心当たりはないけれど、こんなに素敵な昼食を作ってくれたひとにお礼を言いたいと思ってしまうのは無理もない。今の私はただの不審者なのに。その気持ちが伝わったのか、溜息を吐き出したマルコさんは「あとでな」と言ってくれた。
「……うん? あとで?」
「──── なまえ、それを食ったらオヤジに面通りいけるか?」
まだ先だと思っていた申し出に目が見開いて、今まさに食べようと口元にあったサンドイッチはぽろりとお皿に逆戻りしてしまった。鳩に豆鉄砲とはこういう表情をするんだろうな、なんて我ながら思ってしまうくらいにはびっくりした顔付きになっていると思う。マルコさんは眉を下げて酷く申し訳なさげな顔をしている。
「……もう少し、あとかなって思ってた。その、なんとなくだけど」
「そのつもりだったが、なんせお前は“オヤジの知らねえモン”だよい。そろそろ暴れ出す奴が出る頃でな」
なるほど、匿うのも限度が来たということらしい。たしかに
とりあえず一旦、落ちたサンドイッチをまた拾い直して、今度こそ口に含んだ。新鮮なレタスは噛み心地がよく、パン生地は柔らかい。薄い味付けは実に私好みで美味しい。それをいくつか食べて、いい感じにお腹に溜まると今度は盛り付けられたフルーツに手を出した。
なんの果実かはわからないけれど、見た目通りならば小さくカットされたリンゴだ。爪楊枝にささった瑞々しい、味もリンゴの果物を咀嚼し終われば、最後に温かいお茶で流し込む。残念ながら残ってしまった分はあとでお腹が空いたら食べることにして、さて、と言葉を発する。
「……うん、食べたしいいよ。ぜひ白ひげ様にお会いしたいわ」
「──── は。いいのか」
「いつまでも家主に挨拶なしだなんて、だめでしょう?」
◇
よく父親の背中は山より大きいと言う。もちろんそれは比喩表現であり、実際山よりも大きい背中を持つ父親はいない。ただそう思ってしまうほど父親は偉大であり、頼りになる存在という意味なのだ。もちろんそれは母親も然り。親という存在はいつまで経っても大きいものだし、親からしたら、子どもはいつまでも子どもなのである。
さて。どうしてこの言葉を思い出したかと言うと。
目の前に鎮座する御方が、さながら“山のようにでかい”と言われても納得してしまいそうなほどに巨漢だからである。否、それはもはや巨漢という括りではないほどに。
北欧は言わずもがな、近隣諸国と比べても比較的低身長が目立つであろう日本で、なおかつ国内での女性の平均身長を少し下回っている私の身長を加味したとしても、目の前の体躯は正直言って見たことがない。
二メートル超えの人とは一度会ったことがあるが、そんな経験なんて今この場においてなんの助けにもならなかった。自分が親指姫、もしくは小人、妖精、とにかくそんな物になった気分である。蛇に睨まれた蛙。人間に出会った子猫。いや、この場合は大蛇に睨まれた子ネズミか? とにかく、圧倒的な存在感を放つこのひとは間違いなく白ひげ様であり、マルコさんたちのオヤジであるらしい。
世の子どもたちよ。オヤジの背中はでかかった(物理的に)