まるで何も知らない子がどこか知らない場所に放り出されたかのような。絶望に今にも泣きだしそうで、けれど我慢しているようなその表情に今度は私がぐっと息を詰まらせる。

「……あの、事情はわからないけど。大阪には領事館があるし、東京には大使館がある。交通費くらいなら出してあげてもいいし、何もそんな、あなたの国名さえ分かれば、」

 帰れるから。そう慰めようとしたら、彼は緩く頭を振る。違うのだと。

「おれたちのいた“偉大なる航路”は、何があっても不思議じゃないと聞く。だが、……どっか別の世界に来ちまうとはなァ……」
「は?」

 条件反射に聞き返すと彼は笑いだした。けれどそれは何かを諦めたような、困ったような。とにかく悲痛げで、別の世界だなんて頓珍漢なことを聞いてしまったのにこれ以上掘り下げても良い内容なのか決め兼ねるほどの表情である。
 なにも紡げずじっと黙っていると彼は自身の髪をやや乱暴にかきあげ、一際大きな溜息を吐き出したあと。

「イカれたわけでも騙そうってわけでもねェ。おれァ正常だよい」

 ──── そう最初に前置きしたまま男が話したのは、正直受け入れるには難しい話だった。


 彼のいたところは、世界がまず“赤い土の大陸”に分断されている。そこから垂直に世界を一周する航路が“偉大なる航路”。“赤い土の大陸”に二分された“偉大なる航路”は“前半”と“後半”に別れ、後者は“新世界”と称されている。

 そんな“偉大なる航路”と“赤い土の大陸”によって東西南北に区切られた海が、さっき彼の言っていた四つの海である。言ってしまえばそれが彼の世界の全てであり、“偉大なる航路”も“四つの海”も知らないというのはありえないということ。

 そんな彼の世界は今や大海賊時代と言わしめるほどの時代で、その名の通り海の至る所には海賊が跋扈している。そしてその全員が秘宝を求めて海に出ているのだと。目の前の彼もまた同じく海賊であり、そんな彼を率いる船長は“悪魔の実”という、食べれば絶大な能力を得られるという果実を食した能力者であり、秘宝に一番近い男と名高い世界屈指の海賊なのだという。

 正直彼の空想か、もしくは映画のような話しだと思わざるを得ない。

「窓を……窓をさっき、少し見させてもらったよい。
……なァ嬢ちゃん。この世界ここに海賊はいるか?」
「いいえ。大昔にはいたけど、現代は技術も発展しているし、私の──── ……いえ、貴方もいるこの国もそうだけど、大抵の国は軍事力の高い法治国家だから。……でもそうね、たしか、」

 そう指でトン、と指し示した場所は日本列島からかなり離れた場所にある、インド洋とアデン湾に面した国だった。そこから指を僅かに移動させ、すぐそばの海域でくるりと一回りさせる。

「地図でいうとこの辺りならまだ存在は確認されていたはず。けれど、貴方のいう……自由を求めて、だとか。何かを求めていろんな海を旅する、だとか。そんな海賊はいない。法治国家である以上できないから」

 そんな犯罪行為を犯さねば生活ができないほどここは厳しくはない。まあ、軍事力が高く先進国家と言われる国で、何不自由なく育った人間が暮らす中での話ではあるが。
 そもそも前提として、自由を求めて海賊になるということがありえないのである。自由を求めるだけならば他に職業はいくらでもある。
 それに悪魔の実を食べて、非人間的な力を得るだなんて。そんな人がいれば即刻国の研究材料となるだろう。そんな実ひとつで人間の体を作り替えられるものがあったとしたら、発見次第公開されていい内容のはずだ。

「だろうな。ここはお前の部屋かい? 物も、見たことねェもんばっかだよい。それとかな」

 その目線を辿り行き着いたのは鞄から飛び出たスマホだった。今や身につけていないと何も出来ない代物である。現代においてもまだ海賊行為が認められるあの集団でさえ昔ながらに剣で戦うわけじゃあない。小銃に小型のロケットランチャーなど、現代人らしく現代の武器をフル活用しているのである。それにテレビで見るようなどこぞの国の、さらに奥の奥にひっそりと存在している、地図にさえも書かれていないような限界集落ですら古い型の携帯くらいはあるのだ。

 少なくとも上等だとわかる質の服を纏っておきながら、携帯自体を見たことがないというのは。もし彼の言っていることが全て本当なのだとすれば。

「……別世界……」
「とんだ航海だねィ」

 手で隠したその顔は、どんな表情をしているのかわからない。──── たいがい、私も疲れていたのだろうか。頭がおかしくなったのは確実だった。だって、


 部屋を見渡した。1人には寂しい一軒家だ。埃かぶった空き部屋がある。
 携帯を開いた。使っている銀行のアプリを取り出し、指紋認証で開いて残高を見る。蓄えは充分すぎるほどにある。
 そのままスケジュール帳を開いた。重大な取引はない。ここでずっと消費しろと上司に泣きつかれるくらいには使えてなかった有給を使えば十三連休くらいならもぎ取れるだろう。後輩が気がかりではあるけれど、優秀な同僚がフォローしてくれる。


 ──── だって、ここに住めばいいなんて言い出そうとしているのだから。頭がおかしくなっていると考えて違いない。自覚はしていても口から出る言葉を止めることはできなかった。

「……私、見ての通り一人暮らしなの。一人増えたところで何も変わらないのよ。だから、……その、帰れるまでなら、……居てもいいけれど」

 グランドラインってなに? そう聞いた時よりも目を見開いたまま微動だにしなくなった。普通に考えれば病院と警察に連絡すべきだとわかっていたけれど。
 患者だろうが異常者だろうが、それこそ本当に異世界人だろうが、なんにせよ危害を加えられなかったから。それが彼を信じようと決めた理由となった。
 まあ、今日の私は一段と疲れきっていて、頭が回らず、素面ではなかったことも加味されるのだが。
 彼という存在が刺激になればこの摩耗した、退屈な日々でも楽しく生きられる気がして。

 私を見たまま動かない彼に思わず吹き出すように笑えば弾けたように動き出す。響く笑い声に釣られてかおずおずと見上げてくる彼がなんだか子供に見えてしまって、更に笑ってしまった。

「……本気で言ってんのか、おれァ海賊だよい」
「なあに? 私に何か危害でも加える?」
「加えねェ!」
「じゃあいいじゃない。第一、日本通貨持ってないでしょう。戸籍もなにもない人が働けるほど、家を持てるほど、日本は甘くないわ」

 ケラケラと笑い飛ばす私に、どうにも彼は苦虫を噛み潰したかのような顔をしたのだった。



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