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「グラララッ! ようやく顔を見せやがったなァ」

 そして、その体躯に見合った声量は床と私の頭を揺らすには十分だった。一瞬体が浮いたようにすら思える。ぐわりと響いた声にまともに顔すら上げられなかった。服の裾を握りしめることで震える手を隠すくらいが今できる精一杯のことだ。

「オヤジ、こいつが例のおれの恩人だ」
「聞いてたよりずいぶん小せェな。見ろ、おれの靴くらいしかねェ」
「そりゃオヤジがデケェだけだよい」

 頭上でぽんぽんと交わされる会話に入ることができずただじっと耳を傾けていたけれど、それが途切れたとき、マルコさんに向けられていた目が今度は私に向けばそうもしていられず。その大きな目に見据えられると自然と背中に力が入った。さて自己紹介──── なんて思ったけれど、名前を告げるはずだったその口からはまったく不思議なことに、「ぁ」やら「ぅ」やら、言葉にならない声しか出ないのだ。まるで柔らかな何かでじわじわと首を絞められているかのような。

 ──── もちろん、本当に首を締められているわけではない。だれも私には触れていない。
 この感覚は外側から加えられる物理的な要因によって言葉を遮られているというわけではなくて、なんと説明したらいいのか。外側というよりは内側。内側からじわじわと圧が昇ってくるかのような。とにかく凄まじい圧迫感で言葉にならない。浅い呼吸しかできない。白ひげ様から目が離せない。そんな状態が数秒間続いたあと、動いたのは私でも、白ひげ様でもなく。意外にもマルコさんだった。

 白ひげ様からの視線を遮るように私を背中に隠したマルコさんは穏やかな声で話しかける。

「……オヤジ。なまえに吹っかけて・・・・・どうしようってんだい。それは必要のねェもんだ。しまっちゃくれねェか」
「おめェが決めることか? そこはずいぶん生ぬるい場所みてェだなァ小娘。おれの小僧が少し見なくなったうちに甘ったれになってやがる」
──── ッ、は──── ぁっ、は……、マル、コさ……」

 ふと、急に威圧感が霧散した。それと同時に勢いよく入り込んでくる酸素に激しく咳き込む。目の前の存在の名前を呼ぶと、彼はしゃがみこんで背をさすってくれた。──── なんだったんだろう、いまの。甲板で経験したような視線じゃない。ピリピリと肌を刺すような痛みは無かった。けれども、動いたら死ぬと思わせるような威圧感。首元に手を宛てていると、それを放ってきたと思しき白ひげ様はニンマリと笑って見せた。

「悪かったな、娘。おめェさんが空から降ってきたっつーもんでなァ。ちィとばかり試させてもらった」
「……空?」
「覚えてねェのか。ガキどもの話からすりゃ、突然空から降ってきやがったんだと。で、面白ェのはな、そのまま墜落死するかと思えば衝突寸前に降下が止まったってェところだ。おかげでお前は五体満足、怪我もなく無事に落下してきやがった」

 親方ァ! 空から!
 なんてふざける余裕は一切ない。飛行石も手に入れてない。案の定ではあるが、白ひげ様は五秒で受け止めろとは言ってくれなかったらしい。そのまま降下が止まらなければ墜落死するまで見守られていたようだ。世知辛い世の中である。

「……覚えていません。気が付いたら、もうこの船にいたので」
「そうか。マルコと同じか」

 その問いに小さく頷いた。マルコさんもそうだが、どうやら異世界に行くときは記憶障害でも引き起こすらしい。まったくもって経験したくなかったが。

「だがなァ。おれが聞きたいのはそうじゃねェ。なまえと言ったか。てめェはどこまでマルコと一緒だ?」

 白ひげ様の視線が私に突き刺さった。にんまりと弧を描く表情のまま、けれどその目は剣呑さを宿している。言われていることが理解できずに、小さく首を傾げた。

──── どこまで?」
「おれァグラグラの実を、マルコはトリトリの実を食べた。空から降って無事だったおめェはなんだ」
「……悪魔の実を食べているのかということなら、食べていません。普通の、なんて言ったら語弊がありますが、お許しを。でも、私は普通の人間です」
「普通、だァ? 自分が把握してねェだけかもしれねェぞ。ここに来るまでの記憶はねェんだろう」

 そう言われたらなにも返す言葉はなくて、目線を床に降ろした。この世界に来たことによってなにかしら能力を得た可能性は十分にある。それはそうだ。現に私は海の藻屑となることなく、こうして立っていられているのだから。自分の頼りない手のひらを見つめてそう考えても、やっぱり傷一つ付いていない、ただの女の手なのだ。体だって弱々しいまま。はたしてそんな得体の知れない能力が私にあるのかどうかはわからなかった。

 そんなとき、風を切るような音がして目線を上げるとちょうどマルコさんが空中で何かを受け取っていた。白ひげ様から投げられたそれは手錠である。

「海楼石は知ってるか」
「かい、ろうせき?」
「偉大なる航路の一部で産出される鉱石だ。そいつは海と同じ効果を持つ。わかりやすく言うなら海が固形化したもんだ」

 海が固形化したもの。正直そう言われてもわからない。地質学的なあれこれなんて高校授業の触り程度でサッパリ覚えていないが、なんにしたって私の知っている海が鉱石になっただなんて、と感心して思わずじろじろ見ていると、そんな私を気にするでもなく彼は更に言葉を進めた。

「その手錠は海楼石製だ。嵌めりゃ悪魔の実の能力は封じられるって寸法よ。付けてみるか」

 そう尋ねられた途端、今まで黙っていたマルコさんが声を荒らげる。

「オヤジ! なまえは能力者じゃねェよい!」
「そりゃ前の話だろうよ。今は違うと言えんのか」
──── ッ、けど!」
「マルコ、──── なまえ。おれァなまえを疑っちゃいねェよ、端からな。ただ異例の事態なのはわかってんだろう。もしなまえに能力があったらどうする。てめェ自身も知らずに、周りも知らずに、もし何かあって海に落ちりゃどうするよ」

 そこまで言われたら反対することなんでできないし、拒否する理由なんてものもない。マルコさんは渋々といった様子で手錠を開き、私の方に向き直った。そんな私はというと一切の躊躇なく手を差し出した。もちろん恐怖心はある。見知らぬうちに能力者になっているかもしれないだなんて。

 そりゃあ以前は能力者になりたいかも、なんて思っていたし、夢物語でマルコさんに話したこともあったけれど、能力のおかげで自分のいるべき世界に帰って来れたマルコさんを見てしまえばそんな恐ろしい願いは遥か彼方に投げ捨てた。能力のせいで日本に帰れなければ恨みさえもするだろう。
 だからこそ早く知りたかった。自分は人間なのか。それとも。

 そんな重い感情とは裏腹に、カチャリとした軽い金属音が辺りに響いて、人生初めての手錠が手首に回されたのである。



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