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人生初めての手錠が、なにも悪いことはしていないはずなのにずっしりとした重さがあるように感じたのは、私が今まで培ってきた常識が、手錠の用途を知っているからである。気分は極悪な犯罪者。
部屋の中が無言というのもあいまって、居心地の悪さに無意味に金属音を鳴らしてみたり手首を振ったりしてみる。それでわかったことは意外と手錠がしっかりしていて重たいということと、その重さゆえか手錠が手首にこすれてひりつくということだけだった。できれば知りたくなかった事実である。
マルコさんの顔が不機嫌に顰められたまま、白ひげ様の顔から笑みが消えたまま、私の動向を上から下までじっくり監視すること数秒。視線に耐えかねて私がマルコさんを見上げたことによってようやく二人の視線は外れることとなった。ついでに手錠もあっさりと外してもらった。
ほんのり赤く色付いた手首をさすりながら尋ねる。
「もういいんですか……? こんなので能力者かどうかってわかるの……?」
「……いや、まァ絶対ではねェよい。ねェが……なまえだからな」
「うん?」
「そりゃ言わば海だからなァ。おめェさんが無事に立っていられてる時点で能力者じゃねェよ」
「……無事に?」
もしや私、危ない所だったのだろうか。能力者にとってこの手錠がどれほどの脅威なのかわからない私にとって、その効果の如何はわからない。思わず冷や汗が垂れた。手首はもちろん、体の至るところを慌ててチェックするが変わった様子はなく、安堵の息を漏らした。自分の知らないものを自分で試すのはやめておいた方がいいかもしれないなんて、今回のことは不可抗力とはいえ至極当然のことを思い直す。
「なまえ」
そんな私の行動を見守っていた白ひげ様だったが、私の身体調査が終わったことを見ると改まったような声で名前を呼んだ。今度こそ背を伸ばして白ひげ様と視線を合わせる。
そうして私と白ひげ様の視線が交わったとき、白ひげ様が動いたことによる振動で床が大きく揺れて、それに合わせて点滴スタンドがカラカラと音を立てた。
「え?」
白ひげ様は胡座を組み直すと、その大きな頭を私に向けて下げたのだった。
「……オヤジ?」
訝しげな表情でマルコさんが呼ぶ。それに答えぬまま、頭を下げた状態で白ひげ様は言った。
──── ありがとう、と。
「おれァ、エドワード・ニューゲートという。この船の者はみなおれの息子だ。なまえよ。マルコを、息子を助けてくれたこと礼を言う。知らねェこととはいえ、大恩あるおめェさんに刃を向けたことも悪かった」
「い、いいえ、そんな」
「息子の命を救ってもらったんだ。大きな借りがある。──── が」
穏やかな会話はしかしすぐさま消え失せて、白ひげ様はまた鋭い目付きをマルコさんに放つ。どことなく肌がぴりぴりする気がした。
「マルコ。おめェ、なまえを船に乗せる意味わかって頼んでんのか」
「……あぁ。わかって、頼んでる。なまえを船に置いてくれねェか」
「マルコさん!?」
思わず声を上げてマルコさんを見つめた。返されない視線に、今度は白ひげ様を見やる。けれどふたりとも私には何も言わないし、私を見ない。
もちろん船に乗せてもらうこと自体はありがたいし、なにより助かることではある。けれど私がいない間にマルコさんがそこまで頼み込んでいるのは思っていなかった。
「……もう一度聞くぞ。
「あぁ、そうだ」
「……そうか。わかった」
わかるようで、けれどよくわからない二人の会話は蚊帳の外を加速させた。海賊同士のルールか、暗黙の了解か、はたまたもっと別の意味があるのか。ただ聞いても明確に答えが返ってこないだろうことだけは理解できた。
「なまえ、お前がこの船にいたいってんなら歓迎するぜ。帰れるまでの安全もこの“白ひげ”にかけて保障する」
「──── え……ほんとう、に?」
張り詰めていた空気から一転、白ひげ様は穏やかな表情で告げた。なんだか反対されそうな会話だったぶん、その申し出に目が見開いていく。近隣の島まで送ってもらうだけだろうと思っていた私にとって、その提案はとても魅力的である。一度目は遠慮しなければ、なんて思考も抜け落ちるくらいには。
なんせ私の中の常識はここじゃきっとまるで通用しない。身分証明もない。そんな中でひとり仕事を探して、家を見つけて、平穏無事に過ごすだなんて夢物語だ。
「そりゃあ、それが大恩人の願いとあらば」
グラララ、と狭くはない部屋に哄笑が響く。
「お前の扱いについてはマルコに一任する。客人とするか、なんにするか。おれとしては捕虜にしてェところだが……」
「オヤジ」
「アァ? ……ったく、わかってらァ。だが捕虜にしねェってんならテメェが死ぬ気で守れよ、マルコ。おめェのケツをおれに拭かせるような真似はすんじゃねェぞ」
「わかってる。感謝するよい、オヤジ」
“捕虜”という言葉に、けっして忘れていたわけではないけれど、ここが海賊船であることを思い出してしまった。マルコさんを盗み見ると顔に寄る皺を色濃く残している。
結局、話の顛末を聞いても二人が言わんとしていることはわからないままである。どこに行き着いたのかわからない会話は終わったようで、二人は釈然としない表情の私を置いてどこか緊張の解れたような顔をして私を見下ろした。
「なまえ。なにかありゃそこにいる倅にでも、ここにゃナースもいるからなァ、遠慮せずそいつらにも聞けばいい」
「……わかりました。えっと、……白ひげ様?」
ここで初めて私がその名を呼ぶと、どうしてか盛大にその顔を歪めさせる。
「せめて“様”はやめろ。むず痒くて仕方ねェ。他人行儀にも程があらァ」
「……し、白ひげさん?」
「……まァ、マシだな」
エドワードさん。ニューゲートさん。そのどちらも、出会って間もないただの一般人である私が呼ぶには少々、生意気がすぎる気がして、疲れきった頭をフル回転させて出てきたものは様からさん付けに変えただけのなんの変哲もない普通の呼び名だった。
「なまえ、船を案内するよい」
「え、ええ。それじゃあ白ひげさん。失礼しますね」
深々とお辞儀すると白ひげさんはひらりと手を一度振ってから、すぐに液体が並々と入った(たぶん中身はお酒だ)大きな盃を傾け始める。聞いたことはあったけれどお酒が本当に好きらしい。一応真昼間なんだけどな……なんて常識はきっと海賊には通用しないんだろう。マルコさんの「飲みすぎるなよい」という忠告にも、白ひげさんはやっぱり手を一度振るだけだった。
◇
凡そ船員数千六百を超える巨大な大型船なだけあって、その船内はだだっ広かった。あまりにもだだっ広かった。私が行くことになるだろう部屋数は両の指で数えられる程度であるにも関わらず、その部屋に行くまでの道筋はあまりに曲がりくねっていた。上下左右、どこを見ても同じような景色と同じようなドアばかりである。
薄暗かった下層を見て回り、錆止めが塗りたくられているだろうに、それでも鉄臭い固定梯子を登ってようやく案内が終わった頃にはとうに数時間は過ぎていて、休憩がてらにと食堂に寄ってもらったのだ。
「足が……棒だ……」
「あれっぽっちでかい? そりゃヤベェな」
「うう……」
現代人、しかも社会人。運動とは学生という身分を晴れて卒業したと同時にめっきりと縁を切ってしまったし、車の免許を取ってからは特に運動不足が著しい。そんな女が梯子やら階段やらを何度も昇り降りしていたらそりゃあこうもなる。誰かと出会うたびに自己紹介を、そしてしばらくお世話になることなどをもろもろ伝えていたからそれなりに休憩は取れていたのだが、私の足はじんじんと痛み出して、すっかり棒切れになっていた。
机に突っ伏す私の横にコトリと質量のある物が置かれた音がして顔を上げると、そこには特徴的な髪型の──── サッチさんがにこやかな笑みを浮かべて立っていた。
「よ、なまえちゃん。案内は終わったのか?」
そう、甲板でひたすら私を見つめていた彼こそが、あのオシャレな昼食を作ってくれて、マルコさんがよく(じゃっかん嫌な顔をしながらも)私の世界で話してくれた相棒でコックというサッチさんだったのである。