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湯気立つマグカップに注がれているものは甘い香りを放つココアだった。さすがはサッチさんである。疲れたときには糖分補給にかぎると、さっそく一口飲めば、途端に甘い味が口内に広がって一息つくことができた。
船内を案内されているときにサッチさんを含め、ほぼほぼの人数と対面を果たした私は最初の針のような視線に晒されることなく、むしろマルコさんの恩人ということで真逆の温かな目線を頂いていた。サッチさんからは最初のことで謝罪までもらってしまっている。
そんな彼は私の横に腰を下ろし、テーブルに頬杖を付くと眉を下げて話しかけてきた。
「疲れてるところ悪ィんだけど、なまえちゃんに挨拶してェって奴がいるのよ。会ってくんない?」
「まだ挨拶してないひとが……? ええ、もちろん大丈夫ですよ」
ぽろりと漏れた疑問はしかし、そりゃこれだけ人数がいればなあ、とすぐに納得する。けれどわざわざ会いたいと希望するひとがいるとは思わなくて無意識に背筋が伸びた。するとサッチさんは声を張り上げて、どなたか知らない名前を呼び上げた。どんなひとだろう、とココアを片手にまつことしばし。
例に漏れず、やっぱりガタイのいい男の人が首をがしがしと掻きながら出てきた。そのひと
「──── ッ、げほ、げほっ」
「わ、悪ィ! 驚かせるつもりは……っ」
「あーあ、なにしてんだよい。大丈夫か」
呆れた顔を隠しもせずに激しく咳き込む私の背中をさするマルコさんと、見るからに苦い笑みを浮かべているサッチさんが、涙で歪んだ視界で見える。あとオロオロしている男の人がふたり。そう、並び立つ男の人はふたりいる。
片方は日に焼けた健康的な肌をこれでもかと露出していて、見るからに寡黙そうな男だ。眉を下げて咳き込む私を心配そうに見つめているが、その口から言葉が飛び出すことはない。
もう片方はおろおろと手を右往左往させていて、こちらも健康的な肌色をしている。髪は日光で焼けたのか明るい茶色の、もうひとりに比べればそう露出はしていないが、いかんせん二の腕の筋肉がとても発達している男性。あれに殴られたら軽く死にそうだな、なんてすら思う。
そんな二人とは実は面識があった。……面識、と言っていいのかはわからないけれど。
「なまえを怖がらせた野郎がなんだってんだい」
懸命に背を摩ってくれていたマルコさんがとつとつと二人に投げかける。
ぼんやりと歪む視界のなか、発言に棘を感じてマルコさんの表情を窺うけれど、そこにはいつもと同じような顔をしたマルコさんがいるだけだった。表情を見る限りだと怒ってはいないと思う。なのにマルコさんに話しかけられた二人が可哀想になるくらいに怯えきっていて、思わずついサッチさんに目線をやるけれど、それに気付いたサッチさんは軽く笑って首を振るだけだった。
「あの、おれたち謝りたくて……っ」
「謝る? なにに対して」
「ま、マルコ隊長の恩人にえれェことしちまったみたいで……」
「“みたいで”?」
「しちまって……!」
撤回した方がいいかもしれない。怒ってないんじゃない。怒ってないふうに見せているだけで、これマルコさんたぶん怒ってる。いや、たぶんじゃなくてキレてる。どうしてかはわからないけれど、話の内容を聞くにどうやら私が関係あるらしい。
内心で捻っていただけの首を現実でも捻りだす。たしかにこの二人とは良いファーストコンタクトとはとても言えたものではなかったが、こう怒られるものじゃない。仕事をして怒られるなんてちょっと可哀想である。もはや手と手を合わせてマルコさんに震えがっている二人に憐憫の眼差しを向けてしまった。海賊業はそこらの会社よりよほどブラックそうである。そっとマルコさんの二の腕に手を置いて、落ち着くように諭した。
「マルコさん、あの、その辺で……ね?」
「……おれァ別に怒ってねェよい」
嘘つけ──── マルコさん以外の全員が思ったことである。それを感じ取ったのか、居心地悪そうにマルコさんは身じろいだ。そして咳払いをひとつ。
「謝るようなことはしてねェだろい。侵入者を捕まえる、侵入者を警戒する。それのどこに謝る必要があるってんだ」
そう、この二人は甲板で私の首に刀を据えて捕らえていたひとと、私……と、ついでにサッチさんにも噛み付いていたマルコさんいわく“監視役として寄越すな”と言われていた新人くんなのである。
その時の光景を思い出してしまうと首の傷が痛んだ気がして、無意識に傷口に指を這わせた。触るとほんの少しだけ鋭い痛みが走る。本当に軽い切り傷だから絆創膏も何も貼っていない。むしろ今の今まで忘れていたような軽い傷なのに、私がつい触ってしまったものだから、目ざとく気付いたマルコさんが眉を顰めてしまって、またそれに気付いた二人が泣きそうになった。……正直めちゃくちゃ申し訳なかった。
「痛むかい」
「い、いいえ。本当にあの、ぜんぜん。紙で切ったような軽いものだから」
「悪かったねィ、おれがさっさと行きゃよかった」
──── そうしたら余計な傷なんざ付けなくて済んだ。
傷に伸ばされる無骨な指が青い炎に変わる。
この傷を鏡で見たわけじゃない。それでも本当に、たいしたことのない傷だっていうのはわかる。それこそ本当に紙で指を切ったときのような、浅くて軽い切り傷なのにマルコさんはそれでも真剣な顔付きで能力を使ってまで癒そうとしている。舐めときゃ治る、そんな些細なかすり傷ひとつで、マルコさんは顔を顰めるのだ。……まるで私には傷一つ付けたくないと言うように。
「──── ……私は大国の姫か?」
「なんか言ったか?」
「べつになんでも」
真綿で包まれているかのようなむず痒い感覚。マルコさんの瞳の奥にちらついた──── ような気がした感情にはきっと、気付かないままのほうがいい。蓋をすることに関してなら、私はきっとなによりも秀でている。
マルコさんから視線を外して青を超えて白色になっている顔の二人に声をかけた。
「あの、気にしないで。謝られることはされてないし、おふたりは当然の仕事をしただけでしょう?」
むしろ急に現れた私が悪い。いや、現れたくて現れたんじゃないからきっとどっちも悪くないのだけれど。
友情の証にと差し出した私の手をまじまじと見つめたふたりはホッと息を吐いて、私の何倍もある大きな手を乗せてくれた。
「助かる……おれはホビーってんだ。こっちはゲイル。よろしくな」
「なまえです。しばらく船に乗せてもらえることになりましたので、なにかあればよろしくお願いしますね」
ふわりと笑って見せると目の前のふたりもまた、少し不器用ながらにも柔らかな笑みを返してくれた。その様子をずっと黙って見ていたサッチさんが手を叩いて、「仲直りもできたし、この話は終わり!」と打ち切る。そして私に向き直ったかと思うと柔和な笑みを湛えたまま片目を閉じて、ウィンクを飛ばした。
「なまえちゃん、今日の夜宴会やるんだけど好きな食べ物とか教えてもらっていい?」
「宴会?」
「そ。まだまだ自己紹介できてねェやつも多いし、なまえちゃんを紹介するには宴会が一番ってね」
宴会。あの、マルコさんの話で聞いた時のような、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎであるあの宴会。しかも私の紹介のためだけに開かれるようだ。
新人社員の頃に初参加した飲み会で、先輩たちや上司、果てに重役社員やら社長たちの前でひとりひとり自己紹介と抱負を言わされたあの嫌な記憶が思い出される。うっ頭が……。
けれども、会社に入れば待ち受けているもの。それは海賊たりとて同じこと。一度は経験した身だ、割り切ることはできる。引きつった愛想笑いを浮かべながら、とりあえず好きな料理は無難な卵料理と答えておいた。