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マルコさんが世界に帰ったあの日から、じつはそれほど月日は経っていない。ただ過ごした日々があまりに濃くて、いつもと変わらない日常を過ごしていた私にとっては“昔”と表現したくなるほどに濃すぎたから、記憶は新しいはずなのに鮮明に思い出せなかった。
エース、エースかあ。
やっぱり記憶に引っかからない。覚えているかぎりの会話を引っ張りだすが、マルコさんは自分の世界のことは話しても誰かの名前だとか、自分のことだとか、そういったものはあまり詳しく言わなかったように思う。それこそ、日本と様式の似たワノ国出身であるイゾウさんのことくらいである。
しばらく考えて、やはりエースに話せることはないと判断して謝罪の言葉を口にする。
「──── ごめんなさい、サッチさんと……イゾウさんのことくらいしか覚えてないの」
マルコさんと言い合っていたエースはそれを聞くなり見るからに白けた顔で舌を鳴らしたものの、私の言葉に思うところがあったらしく、その顔がみるみる好奇心に満ちていくのがわかった。
「サッチ? ……へえ。サッチね」
「エース。そろそろ海に突き落とされてェ頃合か?」
黙れと遠回しに告げたマルコさんは言葉こそ荒いものの、口調は冗談めかしていて表情も穏やかである。その言葉にエースはわざとらしく怖がったフリをして、「どんな頃合だよ」と突っ込んだ。
「ま、それならしゃーねェや」
存外残念がる姿を見せなかった様子のエースは残っていたお肉を一口ですべて食べて、残った真っ白な骨をその場でどこかに放り投げる。綺麗な放物線を描いて飛んでいった数秒後、比較的近場から飛んできた「痛ェ!」という言葉から、どうやら海に落ちると思っていた骨の着地点は誰かの頭上であったらしく、エースは気だるげに視線だけを寄越し、悪びれる様子を見せずに言葉だけで軽い謝罪を零した。
「じゃあアイツのことも知らねェんだ」
「さっきの?」
「そ」
エースの顎先で示されたひとは骨の落ちてきた頭部をさすりながらその犯人をジト目で睨んでいる。私と目が合うとその表情を変えて、へらりと笑って手を振った。
「7番隊隊長、ラクヨウ」
てっきり容姿からしてジャックとかスパロウとかそんな感じの名前だと思ったらそんなことはなかった。スパロ──── じゃなかった。
ラクヨウさんを見てからというもの、さきほどから頭の中では某有名な海賊ならではのあの作品が頭を巡っている。ただこっちの海賊さんは姿かたちこそあの作品の主人公とどこか似通っているが、違うところと言えば裏のない陽気さに溢れた笑顔が素敵なひと、というところである。
「んーで、あのでっけェのが3番隊隊長、ジョズ」
白ひげさんに勝るとも劣らないほどに、周りの船員たちよりも抜きん出て身長が高く、それに合わせ体格もずいぶんとしっかりしている大男が持っていたジョッキを揺らした。──── これはまた、なるほどたしかに。そりゃあ、このひとに踏まれでもしたら私は骨ひとつ残さないただの肉塊になるだろうなと思った。イゾウさんの心配が今わかってしまって、そんな私の杞憂を晴らすかのようにジョズさんはすこし歪ながらも安心させるような笑顔を浮かべてくれた。
「5番隊隊長、ビスタ」
ジョズさんを紹介されたあとではまだ人間らしい身長ではあるものの、こちらもまたずいぶんな大男である。
船上で吹いている風をものともしないシルクハットをかぶり、胸元が開きすぎてはいるものの、上半身裸の男性が多いなかできちんと上下共に服を纏っていることや、おそらく海賊にしては珍しいだろう紳士的な装いが好感持てた。ビスタさんは白ひげさんをどこか彷彿とさせるその長い口髭を触りながら浅いお辞儀をする。それが恭しくずいぶんと様になっていて、私も慌てて深くお辞儀を返した。
「あ、アイツが11番隊隊長、キングデュー。マルコほどじゃねェけど、少しは医療も齧ってっからお前は覚えとけよ」
綺麗に切り揃えられた──── いわゆるおかっぱの、あまり男性がしなさそうな髪型といい、その風貌といい、まるで医者には見えないものの、それを言うならマルコさんもである。“海賊船”である以上、やはり医者も海賊なのだろうけれど、その逞しく育った腕で繊細かつすぐに壊れそうな医療道具を扱うのはさぞ難しそうだ。
「おいおい。大恩人でお客人なんだぞ。その子をおれが診ることになるヘマをやらかす気かよ」
「そうじゃねェけどよ、なにがあるかわかんねェだろ。マルコだって偵察出たりするし。あとこいつ弱えーし」
「そりゃそうだが。……ま、おれのとこに来るんだったら、せいぜいかすり傷程度にしろよ。女に傷なんかあって良いこたねェ。それか夜の誘いのときくれェだな!」
「あはは……」
根は心優しいひとであることに間違いはないようで、苦々しい表情で注意を促してくれたものの、最後に自分が放った言葉で大笑いしている。
私も苦々しい笑みを返していたのだが、どこからか飛来した空の酒瓶が運悪くキングデューさんの頭頂部に綺麗にぶつかって一瞬で床に沈んだ。えっこわ。
「……宴ってずいぶん……その、物が行き交うのね」
「……アー……ま、気にすんな。お前に当たることはねェよ」
「そ、そう……?」
あの勢いで酒瓶なんか当たったら普通に死ぬ気がする。さっそくキングデューさんかマルコさんのお世話になる未来が見えて、少しエースに擦り寄った。……虫除けならぬ物避けだなんてそんなそんな。おそらく物避けであれば白ひげさんが一番確実だろうがさすがにそんなメンタルはない。
「で、えーっと……あそこ。埋まってるちっさい奴。あれが12番隊隊長、ハルタ」
周りを背の高い人に囲まれており、私からしたらまるでモグラ叩きのように茶色い髪がぴょこぴょこと出たり入ったりする姿しか見えないのだが、この会話が聞こえたらしく傍にいたお仲間の肩を借りて顔を出した。茶色い髪とつり上がった青い瞳。年齢は顔からして十代半ばほどに見えた。いろんな年齢のひとが乗っているらしい。良い笑顔で手を振られたので、こちらも振り返してみる。
「あ。ああ見えてアイツ、結構いい歳いってるぜ」
「え」
「おいエース。てめなんか言った?」
つり上がった目をさらにつり上がらせて、いったいどこにそんな力があったのか、細身に見えるハルタさんの手には青筋が浮かんでおり、置いている肩におもいきりめり込んでいる。当の肩をハルタさんに貸し出しているひとはさっきから悲鳴の嵐だ。
「なんも言ってねーって。地獄耳かよ」
「最初十代だとばかり……」
「言うなよ。ぜってー言うなよそれ」
「言わないわよ……」
いくらなんでも、そんなにデリカシーのない人間ではない。
ある程度の紹介を経たのか、エースは口休めに酒を飲み下した。倣ってお茶を口に含みながら紹介された面々を脳内に描く。
まずは1番隊がマルコさん。これはもう完全に覚えている。そして最初に紹介されたラクヨウさんが……たしか7番隊。体格が人間規模ではないジョズさんが……1桁台で、ビスタさんが……4か5か6のどれか。
キングデューさんが二桁の隊で、ハルタさんが同じく2桁台の……たしか、たぶん、12番隊。
名前はともかくとして、数字まで覚えるとなるとなかなか骨が折れる。あらためて考えると数字が飛び飛びなのがより覚えるのを難しくさせている。
「ん……名前はなんとか覚えられてると思うけど……何番隊の何々さんとまではやっぱりまだ無理そうね……」
「あ? そりゃそうだ。そんな一発で覚えられたら苦労しねーよ」
「数字が飛んでるのはどうして? 他の隊長さんは離れたところで飲んでるから?」
これだけ規格外な体躯をもつ人たちが揃って乗船できるほどの大きさを誇る大型船なだけあって、もちろん甲板の大きさもそれに比例している。いま宴として解放しているのは船首側の甲板だが、そこの中央には大きな窪みがあり、そこにピッタリと嵌められた白ひげさん専用と思しき椅子が設置されている。そこに白ひげさんが鎮座していて、その他のクルーは地べたに胡座を掻きながらそれぞれで飲んでいるのだが、私の視力だと今いる場所から船の端まで見えないくらいの大きさなわけで。
必然的に紹介する面々はたまたま近くにいる隊長たちになるのだろうかと尋ねた。
「あー……それもあるが、べつに紹介しようと思えばできる。ただ飛ばした隊のやつはここにゃいねェんだよ。海に出てっからな」
「……? 海に、出てる?」
はて。ここが海ではなかろうか。
現在進行形で大海原を航海している船の中から、海に出ているとは。
誰かが自分のために取っていたであろう取り皿からいくつかおかずを勝手に拝借していたエースは私の表情を見て「あー……」と零した。
「そっか。海賊とかいねェんだっけか。ってことは船にも乗ったことねェのか?」
「乗ったことはそりゃあるけど……客船とか、クルーザーとか、旅行先に行くためにお金を払って乗せてもらうみたいなやつで、詳しい話なんて誰も聞かないし興味もないから」
「商船か?」
「そうそう」
人や物を運ぶために作られたもの。その中で私が利用したことあるものはもちろん、人を運んで利益を得る客船だ。とはいってもせいぜい沖縄に修学旅行した際に乗った船と、結婚式に参列したときの船、それと人並みしか泳げない程度ながらも友人たちと社会人になってからマリンスポーツした際のクルーザーやカヌーくらいの経験なもので。
しかも年齢を重ねていけばいくほど、旅行先はだいたい車で移動できる県を選ぶし、そうでなくても飛行機を選択することが多かった。
「へぇ。まあ、それならわかんねェか。海に出てるっつーのは……あー、なんつったらいいかな。巡回?」
「……巡回?」
「オヤジの縄張りに変なやつがいねェかとかの牽制。それと偵察隊。本船だとどうしてもスピードは出ねェから、小型の船が周りを囲んでんだよ。海軍とドンパチはなるべくしたくねェからな。そのついで、どの海賊が周りにいるのかとかの把握。ま、その二つは今となっちゃあんまり機能はしてねェけどな。いちばん大事なのは食料の買い出しなんかを担ってるってこと」
「あー……」
「今も買い出しに行ってくれてるはずだぜ」
この規模の船であれば、私の世界で例えるならば大型客船や豪華客船などが当たる。もしくは私が昔、海自のイベントで乗り込んだ空母の大きさにも似ている。
とにかく、そういった大型の船の食品などは航海スケジュールに沿って予め発注していたものを母港から積み上げていくし、客船ではない小さい個人用のものであればその先々で接岸し食料を積んでいくわけだが、この船は海賊船である。しかも知名度があるとくれば。
「んー……海賊の本船が、おいそれと港に着岸できない?」
「お、なかなか賢いな。そーいうこと。まァ縄張りとかでけェ島なら関係ねェさ。小せェ島のときは本船は待機。小型船を出して、小型船から荷役して、んで司廚員が食料品に走る。ありゃ大変なんだよなァ……何回も往復しなくちゃなんねェし、腰は痛てェし、4番隊は大量の食料を注ぎ込まなくちゃならねェからいつもより昼飯はおせーし!!」
客側として乗ったことしかない私には、裏で作業員のひとたちがどれだけ苦労しているかは知りようがない。住んでいる場所も港町じゃないから、そもそもそういった船を気軽に見たこともなかった。まして客船ともなるとその客に裏方作業はほぼ見せないから、知ろうと思わなければ一生知らずに過ごすか、どこかのアニメで解説されている際にへぇ、となるくらいである。
「船っていろいろあるのね、やっぱり」
「そらァな」
「ふふ、大変そう」
今まで知ろうとも思わなかった船のこと。なんとなく乗る機会を避けていたが、喧騒に紛れて聞こえてくる微かな波音や、満天の星空。心地よい微かな揺れ。潮風で髪が少しベタついて気持ち悪いけれど、船旅もなかなかいい気がしてきた。