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船旅もなかなか良いかもしれない、なんて思っていた昨日の呑気な私をぶん殴りたいと思うくらいには、今日の私は荒れていた。──── ついでに言えば、荒れているのは私だけではない。
「うぇえ……っ」
床が揺れ、物は飛び、波が荒れに荒れて、私は朝からずっとトイレと仲良くなるはめになっていた。もはやトイレとは大親友の域。いやはや、まったく汚ぇ友情である。
◇
「こりゃひでェな」
「……私が? 海が?」
「どっちも」
ほら、とマルコさんから差し出された水を力なく受けとり、汗でしっとり濡れた前髪をかきあげながら口に含む。朝から荒れだした海のおかげで胃になにも入っていない状態は胃液だけを戻すことになり、冷えた水が傷んだ喉を通過していく。
どうやら遠くで発生した局地的な突風による余波がきているらしく、説明されてもよくわからなかったものの、とにかくその風によって急に波が変わったらしい。
「ほら、酔い止め飲んどけよい。吐くなよ」
「無茶」
これだけ気分の悪くなった状態で、果たして酔い止めが機能するかどうか。そう言いたくともマルコさんの“つべこべ言わずに飲めよ”と言わんばかりの圧しかない表情に負けて、渋々錠剤を嚥下する。
空きっ腹に薬とはなんとも胃が荒れそうなもんだが、今のこの状態で食べてもすぐに戻してしまうのはわかりきっていた。マルコさんもそれを見越して薬だけ渡したのだろう。今は正直、食べ物の匂いで吐きそうだ。
「とりあえず休憩室行くぞ」
「うぅ……移動するの……?」
「悪ィがおれの部屋は端寄りだ。そんだけ酔ってりゃ意味はないかもしれねェが、中央に位置する休憩室の方が多少はマシだろい」
嫌だ嫌だ、私はトイレとずっと一緒にいるんだい! なんて駄々のこね方でマルコさんが止まるわけはなく、腕を捕まれ立たされたかと思えば、無慈悲な力で強制連行である。扉を通過して聞こえてくる船員たちのはしゃぐ声を羨みながら着いた休憩室にはかなりの人数が椅子を陣取っていた。
マルコさんは気にすることなく歩みを進め、黒いソファに座りながらカードゲームに勤しんでいたイゾウさんとハルタさん、床に座っているエースさんやラクヨウさんを文字通り蹴散らしたあと、そこに私を座らせるのだから居心地の悪さったらない。
「なんでェ、お嬢さんは早くも病気かい?」
イゾウさんがくつくつと笑いながら問う。
「見ての通り、船酔いだ。薬は飲ませたがこの状態で効くかはわからねェ。お前らも食いもんは持ってくるなよい。エース、お前はとくに気をつけろ。てめェの胃袋となまえの胃袋を一緒にすんじゃねェぞ」
「んなこたわかってるっつの!」
「可哀想になあ。だァからおれは言ったんだ、マルコによぉ! 初日に歓迎の宴なんかするべきじゃねェって」
「嘘こけラクヨウ! てめェだってウキウキして宴の用意してたろうが。それにコイツは昨日の酒じゃなく波に酔ってんだよい」
どっと笑いが沸く。今の私の状態からしたら、そうやって平気な顔して笑いあっている彼らの肉体状況がとてつもなく妬ましく羨ましい。いいから散れ。それか全員もれなく気持ち悪くなれ。
もしかしたら彼らも同じ船酔いを散々体験した元同志かもしれないが、今苦しんでいるのが私一人というのが妬ましさを産んだ。
苦しい思いをしてきたのは貴方だけじゃないって? うるさい、知らん。 ──── なんて言えたら苦労せずに生きてこられたし、冗談でもそんなこと言える余裕さえないのが現状である。
「…………きもち、わるい」
「うわ、まじでひでェな」
エースが心配そうに眉を顰めて呟き、これまで冗談めかしていた他の人たちも口を噤んだ。
「どうするよ。今日、お嬢さんの所属決めるんじゃなかったか」
「この状態で? 話すのもやっとじゃん」
「陸の人間は弱ェなァ」
エースこそ心配げな瞳で私を見ているが、他の面々──── とくにいま発言したイゾウさん、ハルタさん、ラクヨウさんの三人は私に一瞥をくれたあと、すぐにカードゲームを再開させるだからまったくもって非道な話しである。こんなに苦しんでいる女を目の前にして大丈夫かの一言もないらしい。
それならばと申し訳なさを殴り捨てて遠慮なくソファに横にならせてもらいながら、瞼の上に腕を置いて電気の光をシャットアウトしつつ、揺れる船に合わせて意識もゆらゆらしていたのだが、そういえばと気になる単語に片目だけ視線を寄越しながら尋ねた。
「しょぞくって……?」
「……寝てろ、お前は気にしなくてもいいよい」
傍にいたらしいマルコさんがすぐに私の方へ振り返り、髪を優しく梳く。
「でも、わたしのことじゃないの」
「今話すことじゃねェよい。寝れば少しは落ち着く。そのときでいい」
一定のリズムで頭をぽんぽんと撫でられて、瞼が重たくなる。まだ気持ち悪さは残っているのに、吐き気よりも睡魔が強い。強制的に引きずり込まれそうなこれはおそらく、薬の副反応。ずいぶんと即効性のある酔い止めらしい。
──── ねむい
掠れた声で呟いたそんな私の声にマルコさんは優しく「おやすみ」と返した。
ずるいなあ。体調の悪いときにそんなに優しくされたら、女はコロッと落ちるんだぞ。これだからイケメンは……どうせ散々女を食ってきたに違いない。
理不尽なことを胸中で並べ立てていく内に、どんどん周りの声が遠のいていく。
「……おめェ、まじで気持ちわりィなその態度。嬢ちゃんは帰らせるんだろ?」
「何が言いてェ、ラクヨウ」
「いんや、別に。ただ船医に診せるのが一番じゃねェのって思っただけ」
「……るせェな、船酔いごときで診せる必要ねェだろうが」
「えー。キッモ。まじで重症かよお前。触るのはオレだけでいいってか? いい歳こいて?」
「なんだハルタ、今日はずいぶん要らねェ口が回るじゃねェか。ええ? おれと喧嘩してェくらい暇なら期限切れてる書類ぜんぶ今から書き上げろよい」
会話は、聞こえてこない。
..
「──── ……」
いい匂いが鼻を擽って、意識が少し浮上する。起きてしまいたい、けれどまだ寝ていたい。そんな小さな葛藤はより周りの喧騒さを拾い上げる。うるさい──── その不満は唸り声として無意識に声に出てしまって、そうくるともう目を閉じていられなかった。
「あ、起きた?」
「……サッチ、さん?」
「おはよう、お姫さま。気持ち悪さはどう? 波も落ち着いて揺れもないから、少しは回復したんじゃね?」
そう言われて今朝から自分が酷い船酔だったことを思い出した。体の様子を窺えばあれほどの気持ち悪さはもうなく、せいぜい過眠からくる少しの頭痛程度。さすがに快調とまでではいかないものの、朝の状態を思えばかなり良くなったと言える。
「ええ、平気みたい。ごめんなさい、心配かけちゃって」
「いいのいいの! それより腹減ってない? なまえちゃん何も食ってねェだろ。スープとかあるよ。食べられそうなら食事も用意するけど、どう?」
気の利いた申し出になにか答える前に、気の利かない私のお腹は空腹を知らせる音を鳴らす。慌てて取り繕うけれど、サッチさんは笑って「食堂に行こっか」と言ってくれた。ついでにマルコさんも食事を取り始めたばかりだと教えてくれた。
上体を起こすと落ちてきた薄めの毛布をたたんで起き上がる。1日や2日程度で船上生活に慣れるわけはなく、地面の揺れている感覚に体がよろめいた。サッチさんは揺れはないと言っていたが、慣れない者からすればまだ顕著である。差し出されるサッチさんの腕に捕まりながらなんとか歩き出すことができた。
「あの……いま、何時くらい?」
「夕方に差し掛かったばっかりよ。にしても、よく寝てたよななまえちゃん。頭痛くねェ?」
「少し痛むくらい。もしかしてずっとそばにいてくれてたんですか?」
「んや、おれは1時間くれェだよ。あとはずっとマルコがついてた」
マルコさんもそうだが、サッチさんも貴重な時間を私に割いてくれていたらしい。放っておいてくれてもよかったのに、海賊だというわりにはずいぶん優しい。
「それは……ごめんなさい、退屈だったでしょう?」
「かわいい女の子の寝顔見れるあの時間が? まっさか。役得でしたよお嬢さん」
「……そう」
気に病む私を見てわざとそういう言い回しをしているのか、単に女たらしのチャラ男なのか、サッチさんの性格は理解しきれずにいた。
こうして優しく手を引いてくれるところや、周囲に気を配れるところを見ると前者なのだろうけれど、なんとなくホスト感を覚えて仕方ない。歌舞伎のホストってこんな感じなのだろうか。
当然のように食堂のドアを私のために開けてくれたサッチさんにお礼の言葉を掛けて、休憩室よりもより騒がしい食堂に到着した。
「ちょっと待ってなー。……あ、マルコー! お姫さまのお目覚めだぜー!」
「お姫さまって」
いくらなんでも、周りにこれだけ人がいる中で堂々とそう呼ばれるのは顔を顰めるものがある。まあ、あちらこちらで聞こえてくる他の人の話し声で全員の耳に入ってなさそうなのは幸いだった。
マルコさんにはちゃっかり届いたようで、仲間と話し込んでいた顔を上げて、私たちに視線を寄越すとその腰までも上げて近寄ってくる。
「悪ィな、サッチ」
「いいってことよ。体調も腹が鳴るくらいによくなってる」
「ぅ……」
「ははっ、なまえちゃんの前で言うことじゃねェけど、腹が空くってことはそれくらい回復してるってことだからさ」
安心したと言われて、やっぱりサッチさんから漂うホスト感になんとも言えない笑みと謝罪を返すしかなかった。
私を置いて頭上で交わされるサッチさんとマルコさんの会話が終わるまでぼうっと辺りを見ていたのだが、いつの間にか会話が終わればナチュラルにサッチさんの腕からマルコさんの腕にへと私の手が渡る。そして優しく引かれる手。
……たしかに歩くのにはまだ慣れていないけれど。朝から絶不調だったけれども!
海賊という犯罪者であるはずの二人の騎士道精神溢れる行動に、なんだかなあと遠い目になるのがわかった。……はたして海賊とは。