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──── で? 頭冷やしたくて海水を浴びたってか?」
「いえ……そういう……わけでは……」

 まあ……結果的にはそう見えるかもしれませんけど……。

 俯いていく視線。それと同じくして下がっていく自身の頭。ぽたぽたと髪を伝って潮水が落ちてくるのはなにも私だけじゃない。腕を組むマルコさんの隣ではイゾウさんが愛銃を吟味していて、もう見慣れたはずの漆黒の髪の毛はより色濃くなったように錯覚する。……私の、多大なる罪悪感によって。

 ──── なんせ、イゾウさんの髪の毛を超えて全身びっしょりと濡れている。水も滴るなんとやらと思う余裕はまったくもって無い。
 普段であれば綺麗に結われ、整えられていたはずの髪は悲しきことにアレンジもあったもんじゃない、ただのロングヘアへと様変わり。

「投げ捨てたから傷付いたかと思ったが、問題なく使えそうだ。中も濡れちゃいねェし」
「あの、よかったです……本当に……ご迷惑をおかけしまして……」
「頭は冷やせたかい?」

 なんなら心まで冷え冷えです、とは口に出さなかった。空気を読むことなら任せてほしい。今の段階ではとても胸を張って言えることではないけれど。

「……ええ、まあ。とっても……」
「そんなら、さっさと着替えといで。体まで冷やすこたァないさ。女の体なんざ特に、冷やしていいことねェ」
「ア、ハイ……」

 ちなみに断言するが、なにも私は頭を冷やしたくて海に飛び込んだわけではない。というか、自分から飛び込んですらいない。

 いやまあ、少し気持ちを落ち着かせたかったのはたしかにある。事実ではあるのだが、そんな物理的にもほどがあるやり方で冷やしたかったわけでは断じてない。少し風に当たれば充分だった。……当初の予定では。
 が、結果的に海に落ちてしまい、それをイゾウさんに助けられてしまっては何を言われようと反論できるはずもなく。

 まさか「甲板に寄りかかって海を見てたら船が揺れて、気づいたら海に真っ逆さまでした」なんてお間抜けなこと、言い訳であっても口に出せるわけないのである。というか、言ってしまえば過保護の鬼──── 別名マルコさんに、しばらくのあいだ甲板にすら出させてもらえなくなることは想像にかたくない。

「はあ……。なまえ、手を────

 そんなマルコさんが手を差し出そうと、しゃがみこむ私に視線を合わせ腰を落とす。自分で立てると断りの言葉を出すために口を開くものの、慌ただしい複数の足音によって遮られた。

「ちょっとちょっと!! なまえちゃんは大丈夫なんだろうな!?」
「巻き込まれて怪我なんざはッ」
「なまえが海に落ちたって……ッ!」

 静かだった甲板が一気に騒がしくなる。
 ほんの少し崩れたリーゼントが。そして、真っ直ぐに切り揃えられた金色の前髪が汗で額に張り付いていることが。私の身を案じてここまで走ってきてくれたのだと明確に示していた。

 そして、

「……パトリシア、」

 大きな目に涙の膜を一杯に張ったナースが私の肩を揺さぶって怪我の有無を尋ねてくる。

「何メートルから落ちたの!? 体は動く!? スクリューにどこか巻き込まれたりはッ!?」

 蒼白な顔をしながらもしっかりとした手つきで身体チェックをする機敏さはさすが医療従事者である。こんなときだが感心のほかない。

「パティ、落ち着け。イゾウが庇って落ちたからなまえに怪我ひとつねェよい。五分も浸かっちゃいねェしこの気温だ、低体温症にもなってねェ。無傷と言って差し支えねェよい」

 マルコさんの手がパティの頭に置かれ、無骨な手が優しく撫でる。その言葉を聞いた途端、かたまっていたパティの肩から力が抜けていくのがわかった。安堵の息を漏らした彼女に痛いほど抱きしめられる。

「よかった……ごめんなさい、なまえ。あなたを不安にさせて。あんな言い方……本当にごめんなさい……私のせいよね……ッ」

 ……いや、単にドジって船から落ちただけなんだけど……。悪いのは揺れた船のせいというか。私の体幹がなさすぎるせいというか。
 とはもはや、言える空気ではまったくなくなったわけだが。まるで私が自殺を試したかのような、そんなパティの心配具合に切り出す言葉を、あいにく私は知らないのである。

 痛いほどにパティに抱きしめられながら見上げる空はまったくもって……本当に今日は空が青い。







 閑話休題──── といったところか。甲板からあれやこれやと運ばれた先はサッチさんの城、キッチンである。

「血液型が存在しない、ねェ……そりゃまた……」

 タバコの匂いと潮の匂い、そして何かしらの食材の匂いが狭くはない部屋の中で入り混じっており思わず鼻を鳴らした。私の真向かいに座るマルコさんの口元には珍しく煙管が咥えられており、小さな白煙がゆらゆらと昇っていく。

 サッチさんが入れてくれたココアを一口。重苦しい空気の中、ほんのり甘いまろやかな味が冷えた体を温めてくれる。バスタオルにくるまりながらそっと一息吐く。

「アー……おれっちあんまよくわかってねェんだが。おめェらがそんな面するほどのことなのか?」

 さて、駆けつけてくれた3人は当然ことの顛末を聞きたがった。もちろん私が船から滑り落ちてしまったことにドラマティックな、あるいは複雑な事情が絡んでいるなんてものはなく、ひとえに私のドジが理由なのだが、どうやらマルコさんたちはそうは思っていないようで。

 その筆頭のパティが医務室での検査内容、果てに私とパティのやり取りの云々を話した結果、私とサッチさん以外の顔が曇ることとなる。

 除かれたサッチさんは小首を傾げながら疑問を口に出す。その言葉につられて私もふたりに目を滑らせた。「そんな面するほどのことなのか」そう言われた当人たち──── マルコさんとキングデューさんの眉の皺はかなり深く刻まれていた。ついでに言えばパティも同じような表情をしている。

「そりゃ、なァ……?」

 どこか遠慮しがちなキングデューさんの声。自分が説明すべきか、あるいはある程度は船医も担っているマルコから説明すべきなのか。そんな逡巡の視線を受けたマルコさんがより不機嫌そうな顔つきのまま口を開いた。

「……血液型が存在しねェってことは、適合する血液もねェ・・・・・・・・・ってことだよい」
「んん……? まあ、そりゃそうだな……?」
「……」

 首を傾げ続けるサッチさんに、マルコさんは不意に口を閉じて紫煙を燻らせる。その間にも疑問符を掲げ続けるサッチさんを見て今度は変わりにキングデューさんが口を開いた。

「つまり、嬢ちゃんが大怪我を負っちまった日にゃあ輸血による治療ができねェってことだよ」
「…………あ?」

 しばしの沈黙のあと、そんな低い声が響く。普段のサッチさんは──── と、言えるほど彼のことを知っているわけではないけれど、少なくとも私の知ってる普段のサッチさんは基本的に自分の負の感情を表に出さない人である。女であることが彼にそうさせているのか、あるいは私が海賊でないことが理由か。それともたんに従来そういう性格なのかはわからないが、少なくとも私がまだただの不審者だったときでさえ彼ひとりだけは笑っていたくらいに警戒心であるとか、嫌悪感であるとか。あるいは苛つきであるとか。そんな感情が顔に乗ったところを私は見たことがなかった。

 そんなサッチさんが不機嫌そうに顔を歪めている。
 それは少なからず、私にとって衝撃だった。

「……なぁるほど。だからオヤジは捕虜にしろっつったわけね。万が一にもなまえちゃんが怪我しないように」
「まァ、そんときはオヤジは知らなかったらしいがな。この件を知ったときのマルコに飛ばした目つきはぜひともサッチに見てほしかったね」
「るせェぞキングデュー」

 既視感。
 マルコさんの拳骨がキングデューさんの頭頂部に落ち、おおよそ打撃音とは思えない音を響かせてテーブルにのめり込んだ。殺人現場になりそうなものだが「いてェ」だけで済むあたり、やはり常人離れしているらしい。普通、テーブルにヒビが入るほど顔面を叩きつけられたら陥没骨折のひとつやふたつしそうなものなのに。こわい。その一言に尽きる。

「まァ……四皇の中でも白ひげ海賊団ともなりゃ海軍は手を出せねェ。血気盛んな駄犬ルーキーに負けるほどおれたちは鈍ってもねェ。なるほどなるほど。不幸中の幸いとはよく言ったもんだ」

 さすがの私とて言っていることはわかる。つまり、落っこちた船の知名度が高くて助かったなってことだ。これが白ひげの一味以外だったら私は死んでいたらしい、とも。
 どうやら神にも同情の一欠片くらい抱いてくれる優しさは持ち合わせているようだ。同情するならそもそも異世界を渡らせるな、と胸ぐらを掴みたい気分ではあるが。

「ええそうよ。なまえが怪我をすることはないわ。マルコ隊長や、その他の隊長がよっぽどのヘマをやらかさない限りは、ね」
「いやいやパティちゃんったら。そりゃねェさ。なまえちゃんが怪我をするってことは、2番隊が負けたあげく、1番隊の隊長を誇るマルコをも負かすやつが船に乗り込んできたときってことだぜ? いやァ〜〜赤髪でもなかなか厳しいってもんよ?」
「……ずいぶん煽ってくれるよい」

 マルコさんの血管がこれ以上ないほど浮き上がっている。なんなら幻聴でなければブチ、なんて何かが切れる音さえした気がする。
 そんな不穏な音を捉えながらも私は話し合いには参加せず、いつの間にかテーブルに出ていたクッキーを口いっぱいに頬張った。

 いまの私の胸を占める気持ちはただひとつ。


 マルコさんが必ず守ってくれるという安心感、またあるいは優越感? ──── いいえ。
 繰り返される打撃音への現実逃避? ──── いいえ。
 


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 ──── ただこれだけである。
 しかし悲しいかな、ここは質問を投稿できる掲示板もなければ媒体もない異世界なのである。



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