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 眠れない。それは暑さのせいか、開かれた窓から聞こえてくるさざ波のせいか。静寂と暗闇でしか寝付けない私にとって無人島に停泊しているこの環境はあまり落ち着けるものとは言えなかった。
 もう数えることすらやめた寝返りを打ちそうになったところで諦めて起き上がる。


 小窓から見える海面には満天の星々が映し出され、澄み切った青色とときおり立つ白が混ざり合う。不規則な揺れが作り出す美しい模様たちができては消えていく。

 微かなナースたちの寝息を子守唄にするには限界がきていて、起こさないようにそっと立ち上がり医務室から出た。

「……ふう、」

 扉を閉めればそれだけで消毒液の匂いが消えた気がして、思わず詰めていた息を吐く。──── あの匂いは、べつにきらいじゃない。潮よりかはまだ馴染みのあるものだから。
 それでも寝室から香ることには慣れなくて知らず知らずのうちに肩に力が入ってしまうのだ。

 薄手の羽織を身につけて甲板に出ると穏やかな夜風が髪を揺らした。見上げれば満月が明るく船全体を照らしている。
 小魚がたまに姿を現して真っ直ぐ進んでいくのに合わせて、ゆっくり私も歩きだす。鼻歌には歌詞の忘れた童謡を選びながら。

「……なんだっけ、このあと」

 小学校で習ったきりの歌。正直フレーズだけしか記憶に残っていない。そもそも今しがた歌っているものが童謡であったかすらも定かではない。そんなものだよなと、適当な場所に座りこみながら思う。数十年前に音楽授業で習ったきりのものなんか、しょせんその程度。
 覚えているワンフレーズだけが脳内でぐるぐるとしきりに繰り返されている。その先の歌詞は一向に思い出せないまま。

 母が小さい頃歌ってくれていた子守唄も。
 小学校の頃あれだけ聞いて運動会で踊れるようになった曲も。
 高校生の頃の体育祭に掛かっていたあの流行りの曲も。
 大学生時代の有志発表に付き合わされて散々練習したはずの曲でさえ。

──── 思い出せないや、」
「なにが?」

 暗闇に落ちた独り言を拾い上げる人がいるとは思わず、肩どころか全体が飛び上がった。

「ッ……!?」
「猫みてェに驚くじゃん」
「びっ……くりした」
「だろうな」

 あの飛び跳ね方はなーとつっこみを入れるのはいつものハットを被っていないエースである。
 時間に配慮しているのか、くつくつと静かに笑っている。

「いやまァ、驚いたのはおれもだけどな? おまえって影薄いのな。うずくまってるなまえが急に視界に出てきたからびっくりしたわ」
「……悪かったわね」
「いや悪いこたァねえけど。影薄いっつーか、ねェな。存在感」

 急に悪口ぶっ込んでくるじゃん。影薄いを超えて存在感ないはさすがに言いすぎでは?
 良くも悪くも直球的なエースの言葉に不快感を覚えつつ、しかしそんな感情を表に出さないように、ナースたちのおかげで海風に負けずサラサラを保っている自身の髪の毛を指先に巻き付けながら言葉を選んだ。

「えー? 初めて言われたけどなあそんなこと」
「そうなのか? ま、こうやって話してたり動いてりゃ素人丸出しですっげェわかるんだけどな」
「そりゃまあ一般人ですから」

 音を殺して歩くのがクセ付くほどの暗殺一家で育てられていないし。普通の一般家庭だし。素人丸出しではなく素人そのものなのだ。

「あ。そりゃそうか。普通の女だもんなァ」
「……異世界から来た女って、果たして普通って言えるのかしらね」
「……たしかに」

 ──── いや普通の女と言って間違いはないけど、とは自分から振ってしまった手前言えなかった。
 流れてしまった沈黙が、なんとなく気まずく思ってしまったのは私だけではないということを示していた。

「ン゙ン゙! えー……と。なまえはなんで起きてんだよ」

 だから、あまりにもわかりやすい話題転換だと思ってもわざわざ口に出すことはしない。わかりやすいエースの引きつった笑顔についても。なにも言わず、提示される別の話題に乗っかることにした。

「眠れなかったの。よく……わかんないけど。なんか、目が冴えちゃって」
「あー。たまにあるよなァ、そういうの。おれはもう諦めて夜通しだれかとポーカーでもやるけど」
「わ。なんか、男って感じ。西洋の」
「せいよー?」

 聞いたことのない言葉にエースの首が傾げられる。そりゃそうだよなと思わず笑ってしまった。日本がないのであればアメリカだってないのだから。ただ西洋の男をどう説明したら伝わるのかわからなくて、視線をエースから海に移す。

「んー……アメリカン……伝わらないよね。えー……なんだろう、こう……“よォベイビー”的な……」
「は?」
「いやうん、何言ってんだろう。ごめん、私もよく説明できないから忘れて」

 日本だったらたぶん伝わっていた。「いやうんわかる、言いたいことはわかるよ」みたいな常套句で、きっと笑いあえただろう。難しいな、コミュニケーションって。

「いや気になるだろ。なんだよベイビーって。いや言う奴いるけどよ」
「えっいるんだ」
「海賊とか。海軍もいるんじゃね? あんま知らねェねど」
「いや私もわかんないけど。でも海軍ってお堅くない? ベイビーなんか言う? 引っぱたかれそう」

 海外ドラマの軍人のイメージ像でしかないが、彼らは仲間──── とくに上司や先輩には絶対服従。尊敬と敬意を常に持ち合わせて、弱きを護り、国をだれよりも愛していて。『常に忠誠を』その言葉はよくドラマで耳にした。それらを想像しながら言えばエースはけらけらと笑いだす。

「いや硬すぎだろ。なんだよそのイメージ」
「え? そうじゃないの?」
「いやいや。黄猿とか青キジとか見てみ? 青キジなんざ特に、だらけきった正義がモットーだぜ? 赤犬はまァ……近ェつったら近ェけど……」
「いやだれ」

 なに? 桃太郎なの? 桃太郎ベースなの?
 とつっこんでもエースには桃太郎がわからない。そこからまた、「は? 桃太郎? 金太郎のことか?」と尋ねられ。私は私で、なぜそこで坂田金時が出てくるのかわからずに眉を顰める。

「……」
「……」

 風が吹き抜けていく。沈黙を攫っていく。自分の髪が一瞬、視界を遮る。それを耳にかけて、次いで見たエースの表情は──── 困っていた。眉を下げて、まるで……幼い、幼い子供を相手に、どう言おうか迷っている大人のように。言葉を選んでいる。困っている。……同情、している。

「……やめよう、」

 この話しをするのは。

「ごめんあの、忘れて」

 私の世界のことは。

「お互い……なんか、気遣っちゃうよね」

 些細なことが伝わらないというのは、思いのほかキツい。疎外感を加速させる。それでもどうにか無理やり笑みを作っているのは、これ以上エースに同情されたくないからだ。
 そんな明確な一線を感じ取ったエースは焦ったように私の腕を掴む。

「ちょッ……と待てって、諦めんの早くね!? もっとなまえの世界の話おれ聞きてェんだけど!?」
「諦めとかじゃなくて……それに私の世界のことなんて聞いてどうなるの」
「どうもこうもねーだろ。おれはお前が気に入ってる。だからお前の世界の話が聞きたい。以上!」
「んな強引な……」

 といっても。エースのその真っ直ぐな瞳だとか、飾り気のない言葉だとかに時に苛立ちながらも絆されている自分がいる。それに彼には船のことや船員たちのことなどいろいろと教えてもらった恩がある。
 そんな人が知りたいのだと言うのであれば。同情だったとしても、“私の話が聞きたい”なんてものは嘘で、たんに私の気休めだけを考えてくれたのだとしても。
 私は「それじゃあ……」と話し出すしかないのだ。

「うーん……と言っても、そんなに特別なものがあるわけではないんだけど」

 そんな語り口から始める、私の世界の話。





 ──── 想像力は知識より大切だ。なぜなら知識には限界があるが、想像力は世界さえ包みこむ。 

 かのアインシュタインが言った。


 地球とこの世界の決定的な違いは文明の差である。スマホがなければ飛行機もない。身近なものでいえば自販機、テレビ、洗濯機。これは陸での生活が主体になっているのに対し、こちらは海での生活が主体になっているゆえの違いだろうか。

 地球でいえば日本は間違いなく「島」であるが、こちらの世界の「島」と比べれば大きさ的に日本でさえ大陸といって差し支えないほどの差がある。
 こちらの世界は海の割合に対してあまりにも陸地が狭すぎるのだ。ただそれを補っているのが造船技術であり、航海術であり、また悪魔の実である。

 とにかくそういったものをエースに話した。文明の差、発明品の数々。生活様式など。テーマパークや漫画の数々。
 ある程度聞き終わったエースがぽつりと呟いた。

「へェ……なんか。この世界が何百年かしたら、なまえの世界みたいになりそうだな」
「なると思うよ。私の世界がこれくらいの文明の頃ってあんな立派な冷蔵庫なんてなかったし」
「えっならおれの世界もすげェじゃん。まァ海賊がいねェってのはぞっとする話だけどよ」
「初めからいなければそういうものだよ」

 経験してきたものが無くなればなにかしら思うものが出るだろうが、初めから無いものにたいしては当然ながら人間、さほど喪失感は失わない。それでもエースはひどく悲しそうにしている。よほど自分の生き様に誇りを持っているらしい。──── 誇りというか、依存に近そうだとエースの様子からして思うが。

「んーでもさ。聞いたかんじ、べつに太陽が2個あるわけでもねェし。お前のとこもいろんな言葉を使う種族がいるわけで……なんつーか。この世界とあんま変わんねェのな」
「え? ……うーん……まあ、言われてみれば……? 悪魔の実とかくらいで……」

 海王類も、分類してしまえば恐竜とかと一緒の類で。悪魔の実さえなければたしかに、文明差があるだけの世界と言えないこともないのだろうか。

「じゃあまァ……なんだ。そんな寂しがる必要、あんまないんじゃね? なまえも立派な仲間みてェな・・・・・・だろ、この際」
──── え?」
「 お前が寂しがってんなーとか。なんか遠慮してんなーとか。そーいうの、わかってっからさ。すぐには無理だろうけど、今日みてェに寝れねェときくらい、みんなに頼ってもいいんじゃねーの。なんならおれとかさ。家族みてェに・・・・・・頼っていいんだぜ」

 頭にエースの手が乗せられた。不器用ながらに撫でられて、彼なりに必死に慰めてくれていると痛いほど伝わってくる。

「……あ、りがとう」

 言葉に詰まったのは──── 感極まったとか。嬉しかったとか。
 そういうわけではなくて。


 ──── ただ無性に苛立った。

 沸々と込み上げる腹立たしさ。嫌悪感とまでは言わずとも、今すぐにこの手を振り払いたくなる気持ち悪さ。
 そんな感情を抱いてしまうのが自分でもなぜだかわからなくて、わからなければ言語化できるはずもなく。
 理解のできない自分の感情を誤魔化すために、そしてそんな表情を見られないために、無理やり笑みを作りながらこの場では最適解であろうお礼の言葉をなんとか紡いだ。



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