マルコさんがうちに舞い込んできてから早一週間ほど。最初の頃は家電の使い方はおろか、果てにテレビすら知らなかったマルコさんは今ではそれはもうできた男にへと変わった。初めて扱うと言っていた電化製品の使い方をその賢い脳で次々に覚えていき、私が帰ってくる丁度いい時間にご飯を作り終えて、綺麗なお湯が張られたお風呂まで用意してくれている。昼間にはずいぶんと掃除もしてくれているし洗濯物だって干してくれている。外に出かけるということもしていないようで、家の鍵は使われた形跡がないままずっと玄関に放置されたまま。

 しかしゴミ出しは私が起きる前に出してくれているようだった。明確な理由がないまま外出することはなかったものの、私が深夜にコンビニに行こうとすればいい顔はしないが止めることはせずに何も言わず着いてきてくれる紳士っぷりまで披露してくれている。

 完璧主夫の立ち位置にこのままずっと居ればいいのにと常々思ってしまうのも仕方ない。一人暮らしだとどうしても家事が手抜きになってしまうのだ。それこそ掃除と料理が最もたる例である。養うからむしろ居てくれ──── なんて、夜遅くにベランダに出て、心配そうな、酷く寂しげな表情で私の煙草を吸うマルコさんを見ればそんなこと思えないのだけれど。

「別に隠れて吸わなくていいのに」
「……あァ、起こしちまったかい? 悪ィな。もらってるよい」

 この日は満月だった。雲もなく小さな星々が淡く煌めいている。月明かりがやけに明るくて、それがマルコさんの暗い表情を引っ張り出していた。けれどそれもほんの一瞬のことで、瞬きの後にはもういつもの少し無愛想な顔つきに戻っていた。

「いいよ。私はもうあまり吸わないから」

 そう言いながらマルコさんの隣に並び立ち四年あまり吸っていなかった煙草を口にくわえた。消そうとしていたマルコさんの手首を掴み引き寄せ、その火をもらって深く息を吸い込んでからゆっくりと白煙を吐き出す。

「……吸ってなかったんじゃねェのかよい」
「ねえ、マルコさん。面倒を見ると言った日。何かあれば遠慮なく言ってほしいって、私言ったこと覚えてる?」
「あ? ……あァ、覚えてるが」
「その“面倒”って、単に衣食住の不備だけじゃないでしょう?」

 何が言いたいのだとマルコさんの眉根が寄る。何も言わず一拍置いて、煙に揺れる月を見据えた。

「そりゃあこの世界に住んで生きてる私にはあなたの気持ちはどうしてもわからないし、そんな私に言えることなんてないかもしれないけれど、怖ければ怖いと、不安なら不安だと、そんな一言こぼしたって罰なんて当たりゃしない……って、思うわ」

 私の言わんとしていることがわかったのか、横目にうつるその綺麗な目は見開き、言葉にならない声を出したかと思えばマルコさんは照れくさそうに頭を掻いて、くうに浮いていた手は煙草を消さないまま紫煙を燻らせる。

 私は年下だ。年下の女性に愚痴や不安事をこぼすことにプライドが傷つく男性だって少なくはない。聞けば私よりも一回りどころか二回りも年齢が違うし、たしかに頼り辛くなるのは少しわかる気がするけれど。それにマルコさんのいた世界ではきっと、彼は頼られる側だろうから。

 大家族の長男だと言っていたから甘えることや愚痴をこぼすことに慣れていないのかもしれない。けれど、ほんの少し──── そんなに大それた言葉が聞きたいわけじゃない。ただ、たった一言。怖ければ怖いと、家族に会いたければ会いたいと、不安なら不安だと、そんな一言くらいなら普通はこぼすはずなのに、思えば彼は一度も、ただの一度も、「帰らなければ」という義務感による言葉は出しても「帰り“たい”」という当然の願望を口に出したことはなかったし、「寂しい」「つらい」「怖い」そんな言葉すら、彼はただの一度として言わなかった。

 帰れる目処もついていない異世界で、その心中を思えば不安事のひとつこぼさないマルコさんは恐ろしいとすら思える。


 ふとマルコさんの目が一台の車を捉える。なんの特徴もない女性がひとり運転するハイエース。次いで目線が移動した先は一軒のコンビニ。屯する若者が目立っていた。バイクをやけにふかす音が酷く耳障りだ。下品な笑い声も。その光景をじっくりと見てからマルコさんは低い声で呟いた。

「平和だなァ……」
「……そう、だね」

 マルコさんからしたらたしかに、平和を表すものかもしれない。未成年が汗水垂らして働かないで済む世界。弱い者がイタズラに殺されずに済む世界──── と言えば現代社会を見れば語弊はあるけれど、マルコさんの世界に比べれば圧倒的に平和であることは間違いなかった。少なくとも海賊には襲われない。頭のおかしい殺人犯はいるけれど、司法機関はしっかりと働いてくれている。

「……オヤジは、あいつらは、おれがちっとばかし居なくなったところでどうにかなるようなヤワな海賊団じゃねェのはわかってる。それでもおれは、おれたちは、オヤジの傍で、オヤジを、家族を、守っててやりてェんだよい」

 ──── 海の嫌われ者である己らを、たった一人。たった一人のひとが息子と呼び、愛してくれることがなによりも嬉しいのだと言っていたっけ。

──── ……家族が、……家族がいま、どんな目にあっているかわからないのが怖い? 自分が平穏を甘受しているのがつらい? この世界が……、怖い?」

 最初の頃。珍しく少しだけ外に出れば彼は瞬時に辺りを見渡した。私の一歩先を。私の二歩後ろを。安全確認を怠らなかった。車が通れば驚き警戒し、電車の音に私を背に庇い、車の排気音に夜もあまり寝付けていないようだった。

「……お前には感謝してもしきれねェよい。それは本当だ。ここも、暮らすやつにとっちゃァいい所だろうっつーのも、わかってるよい」
「でも、だからといって恐怖心がなくなるわけじゃないでしょう。その感情を無理に抑え込む必要は……」
「だがなァ、変わらねェだろい。なにを思おうが、それこそお前さんに何を言おうが」
「そりゃそうだわ。あなたが暴れたって、泣き喚いたって、帰れるわけじゃない。現状はなにも変わらないけれど、口に出すことでいくらかスッキリするかもしれないじゃない。黙って聞くことくらいならできるわ」

 その言葉に、彼は短く笑みだけ返した。
 その態度にまだ長さの残る煙草を灰皿に押し付けて金色の髪に指を絡ませた。

「私はここで生まれて、ここに住んでるいるから。あなたのつらい気持ちはわからないけど、そうね、あなたの愚痴を黙って聞くよりももっと、実用的なことをしましょうか」
「……なまえ?」
「明日、あなたの必要品を買い揃えたあと、調べ物に出かけましょう。なにか手がかりを見つけられるかも」



prev - 7/56 - next


表紙TOP