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けたたましいアラームが部屋中に鳴り響き、意識が一気に引き戻されていく。閉め忘れたのか、それとももう開けられているのか、遮られるはずの眩い朝日が瞼を軽くしていく。
次第にぼんやりしていた意識が鮮明になってくると眠り直すことはできなさそうで仕方なく瞼を開けた。時刻は8時。子供たちの楽しげな笑い声が耳に届いた。
「紅茶なら淹れたてだよい」
「……おはよう、」
相変わらずいつ寝ていて、いつ起きているのかわからないマルコさんに挨拶を返す。今日は買い物と調べ物に行かなくちゃならない。朝日から量れるほどの晴天日和。休日にはもってこいの土曜日の朝である。
「……あ、この匂い」
冷たい水で顔を洗い眠気の残滓を吹き飛ばすと朝ごはんの匂いが漂ってきた。卵と、……これは、食パンだろうか。
元々朝は取らないのだが、マルコさんといるようになって私の食生活はがらりと変わった。
夜遅くに帰宅すると胃に優しいもの、休日の昼と夜は栄養が考えられたバランス良いもの。朝は未だ取るということに慣れない私のためにヨーグルトなど酷く少量ながら果物が散りばめられたりしていて。無骨なようで料理は繊細なのだと感心もした。
前まで私にとって食事とは生きる上で必要不可欠のもの、ただそれだけだった。だから疲れ切っていると食べないなんてザラだったし、けれどそれが連日ともなるとどこかで食べなくてはいけない。どれだけ疲れ切っていてもやはり人間空腹には抗えない。
ただでさえ疲れ切っている体に手の込んだ料理なんて作れるはずもなく、適当に食べて、食べたあとは面倒くさい後片付けが残る。
だから私は食事が嫌いだった。睡眠もだ。寝て起きたらもう朝だし、昼は眠くなる。睡眠が足りていなければ仕事に支障を来すし、せっかくの休日を寝て過ごした日なんて虚無感に襲われる。
とにかく私は睡眠と食事というものがどうにも好きになれなかったわけだけれど、それを他人にも強要するわけにはいかない。
宿主が食べないのであればマルコさんが食べにくいのもわかったから、彼の作ったものであれば残さず食べているし、私も私で面倒だからと食事を抜くことはあまりしなくなった。なんたる進歩。
そのおかげで生活も肌の調子も改善の一途を辿っているが、マルコさんが無事に元の生活に戻れた暁にはひとりだったとき以上に荒れそうだ──── なんて今から怖々しているくらいにはなんというか。……マルコさんに依存しそうになっているわけだけども。
そんなくだらないことを考えながら濡れた顔をタオルで拭きながらリビングに顔を出せば、私の少食さを考慮してか一枚の半分と少なめに切られている食パンと、その横には湯気立つ紅茶が並べられている。
「朝ご飯ありがとう」
「……居座っちまってるからねィ」
いつか聞いた、彼の兄であり弟であり、そして親友のような立ち位置であるらしいコックさんと同じ料理を作るという行為が、まだ彼の心の安寧を保っていることを知った。なにか少しでも、ほんの少しでも手がかりを見つけてあげなければいつ彼の心が限界に達するかわからない。
とはいえど。現代日本で何不自由なく生きている私にできることなんて、精々現代機器を駆使してあげることくらいなのだが。
あぁもう、どうして猫型ロボットは私の元に来てくれないのだろう。きっとあの子ならマルコさんの悩みも私の悩みもひみつ道具を駆使して解決してくれるだろうに。あんな小学生の元に居候しなくたって、私ならいくらでもどら焼きを貢いであげられるのに!
◇
マルコさんの見た目は完全に西洋人のそれである。痛みのないことが窺える金色の髪に整えられた髭。日本人男性の平均身長を大幅に超える細長い足。しかしきっちり引き締められた体付きがわかる体躯。それに声まで良いとくるんだから、胸元にある刺青を隠せば街ゆく女性が静かに色めき立つのもわかるほどに整った顔付きである。
さすがに喋るとあまりに日本語が流暢すぎるから基本的な応対は私に任せてもらってるのだけれど、それでも何かと一店員にできる最大のサービスを施してもらえてるのだから、やっぱり生きる上で大切なのは顔。世の中顔である。こんなにも無愛想なのにそこがまた色めき立つ要因の一つとなっているんだから。
マルコさんに見合う服(店員さんイチオシコーディネート)、小休憩で入ったカフェ(試飲だと渡されたそれの量は明らか試飲と呼べるものではない)、ふらっと入ったコンビニで買ったタバコ(ライターはおまけで頂けた)、とにかくマルコさんを連れて入れば何かとサービスが受けられる(女性店員限定)。
出会いが出会いなため麻痺していたというか、私としてはもう世界を翔る盛大な迷子という印象しかないものの、冷静に見てしまえばなるほど確かに……ムカつくくらい整った面だ。
絡まれるのはもう沢山だとドライブスルーで買った飲み物を勢いよくストローで吸い上げながら、冷房の効いた車内で休憩タイム。やっぱ車が一番だわ。カフェとか入るべきじゃない。
「はあああ……もうマルコさん、その顔どうにかできないの」
「どうしろってんだ」
マルコさんはアイスコーヒーを飲み終わり、私もちょうど残りの甘ったるい炭酸を喉奥に流し込む。そのタイミングでお昼休みに入っていたらしい図書館員が戻るのが見えた。朝から行動したお陰で閉館まで五時間ちょっとはある。車から出ると、アスファルトから伝う蒸し暑い熱と、図書館の扉にぶら下がる鈴の音が風に拐われていった。
隙間を埋めるようにびっちりと植えられた木々一本一本に止まって鳴いているのではないかと錯覚するほどのアブラゼミの鳴き声を背にした、蒸し暑い午後である。