09


こみ上げる吐き気を必死でかみ殺して、リヴァイの背中にしがみ付く。


さして見た目からは、マッチョだとも思わなかったけれど、リヴァイはこの、ぐったりとした全体重でのしかかるわたしを簡単に背負ったまま、さっさとどこかへ連れていく。意識のある人間と、意識のない人間を背負うのじゃ感じる重さは違うらしいのに。

そういやリヴァイは何者なんだろう。
軍人とか警察かと思った。だってうろ覚えだけど周りの人たちとお揃いのジャケットを着ていたから。あー、中世だったら軍人っていうか、兵士、とか兵隊とか、そういう言い方するのかな。わからない。ただ、頭がぼんやりとして何も考えられない。今はとにかく、水が飲みたい。喉が渇いた。苦しい。気持ち悪い。


リヴァイが誰かとすれ違っていき、その誰かが何かを言う言葉にリヴァイは短く返すだけ。
理解のできない言葉は言葉というよりも雑音に聞こえる。意味の分からない音はただの音。どうでもいいこと。
リヴァイがどこかのドアを開け、わたしをゆっくりと木箱の上に座らせた。夢子、と名前を呼ばれて目を開け、驚く。


――――――厨房だった。



中世の厨房なんて詳しくないけれど、間違いなく料理をする場所だっていうのは分かった。
誰もいない狭い厨房。暖炉。竈。大きなテーブルの上には玉ねぎとジャガイモが山になって乗っていて、その隣にはナイフが置かれている。土を踏み締めただけの床には、玉ねぎの皮が転がっている。天井からは玉ねぎや人参や何かの肉が束となって吊るされている。厨房だ。まぎれもなく、厨房だ。……すごい。なんで、どうして通じたの?


驚いた顔のままリヴァイを見上げれば、リヴァイが「正解だったみたいだな」と呟く。わたしには「これで満足か」と言ったように聞こえて、頷いた。リヴァイが顎で厨房をさして、腕を組む。まるで好きにしろと言うように。


でもダメだ。
わたしは今、食中毒だ。食糧を触っちゃいけない。
食中毒にも原因となって、感染するものとかそうじゃないものとか色々あるみたいだけど、今の時点で自分がどの部類の食中毒なのか分かっていないんだから、うかつに食材に触り、誰かを感染させちゃいけない。わたしは思わず慌てて立ち上がろうとしたけれど、萎えきった足の筋肉が言うことをきかず、そのままずるずると床にしゃがみ込んでしまう。頭上でリヴァイが舌打ちするのが聞こえてきて、申し訳なくて『ごめんなさい』と謝罪せずにはいられなかった。


「おい、欲しいもんを言え。これか?」
夢子、と名前を呼ぶ声になんだかぼぅっと火照ってきた顔を上げると、リヴァイが水の入った革袋を示した。
そう、それ。その水がいる。それが飲みたいの。そんな思いを込めて頷くと、リヴァイは革袋をわたしの胸に押し付けた。そしてわたしの肩を強くつかみ、誰かから向けられる目で、こんなに強い目は初めてだった。あの街では誰ひとりとしてこんな目をしていない。息を呑むわたしによく見えるようにリヴァイは、背後に広がる台所を手で示した。

なに?どう…したの?


「言葉が通じなくても良い。だが伝える努力を怠るな。そうやって座っていたって俺はお前が何を望んでいるのか分からない。言え。主張しろ。お前が生きるために必要なものを、欲しているものを主張しろ。それができないならお前はここで野垂れ死にするだけだ。さっきお前は俺に何かを伝えようとしたな。そしてお前はここに来たかった。ならさっき何を言いたかったのかちゃんと言え」



怖いほどのリヴァイの目に、わたしは思わず怒りだって感じる。
もうなに?なんなの?わたしはこんなに弱っていて、こんなに衰弱していて、言葉だって分かってないのに、どうしてそんな目でわたしを見るの?どうしてわたしがこんな目に合わなきゃいけないの?あなたはわたしが今どんだけ苦しいかちっとも分かってないくせに!
そんな乱暴なことがふっと脳裏を横切った。それからすぐに涙がにじんだ。

――――違う。この人は何も間違っていない。

だってこの人はわたしを生かそうとしている。わたしを助けてくれようとしている。
いきなり現れたわけの分からない人間を、それもげーげーと戻す病原菌なのに、それでも自分で背負って、ここまで連れてきてくれた。わたしが何かを欲しがっているということを理解してくれた。わたしの話を聴いてくれようとしている。わたしを助けようとしてくれている!この人が!
わたしは重い腕を持ち上げて、火にかけられている鍋を指さした。


『この水をあの鍋で、あの暖炉で沸騰させてほしい』と言いながら、胸に抱いていた水と暖炉、鍋を交互に指さす。お願い、通じて!
「水を煮ろってことだな?」

リヴァイは立ち上がり、わたしから水の入った革袋を受け取り、その水を鍋に入れて、暖炉に火をつける。
しゃがみ込んだリヴァイが暖炉の前でひざまずき、種火を暖炉に落とし、薪をくべる。徐々に大きくなっていく暖炉の明かりで、薄暗かった台所がぼんやりと少し、明るくなる。そうか、食糧を痛めないためにわざと日の光を乏しくしていたのかもしれない、とぼんやりと考えていれば、湯を沸かし始めてくれたリヴァイが次の指示を催促するように「夢子」と名前を呼ぶ。


塩と…砂糖がほしい。
即席のスポーツ飲料を作らないと、いくら水を飲んだとしても嘔吐によって失われるカリウムは体内で補えない。それに塩分が体内から水分が流れでていきすぎることを食い止めてくれるだろう。そういうものを経口補水液とか言うんだっけ?夏場になれば情報番組や健康番組が繰り返しこの作り方を放送していたのを思い出す。


わたしは、親指と一指し指と中指を擦り合わせ、ぱらぱらと調味料を入れるようなしぐさをする。
醤油や味噌はなくても、塩と砂糖はあるだろう、と望みをかける。意図が通じたらしいリヴァイが、差し出したのはハーブを刻んだような粉でわたしは首を振る。白いやつ、どっちも白いやつってことを伝えたくて、自分の服の白い部分を指さして、また指をこすり合わせてみた。だめだ。今度は服の柄…小花模様だったせいで、乾燥植物が差し出される。も、もどかしい!

『塩と砂糖です…。白いやつ。白くてパラパラするやつ…粉みたいなやつ…』

目に映る色んな「白」を指さして、座り込んだ床の砂を一つまみ持ち上げてパラパラと落としてみれば、ようやく納得したような顔でリヴァイが小さな壺を目の前に出してくれる。中を見せてもらうと、それは白い色をしている。舐めても大丈夫かな?台所にあるから大丈夫なもんだとは思うけど…。ちょっとだけ舐めてみたい。でも病原菌の自分が触るのははばかられて、こくこくと頷きながらスプーンを指させばリヴァイが少し手のひらに載せてくれた。………砂糖だ!!!

『これ!そうこれが欲しかったの!あとは塩が欲しいんだけど…。』

壺を指さして、何度も何度も激しく頷いてみせれば、リヴァイが少し安堵したように表情を和らげた。――通じる。
伝えようとしたらちゃんと通じる!わたしの話を聞いてくれようとしている!わたしは壺を指さして、一指し指をたてて『もう一個!もう一つ似たようなやつを探してほしい!今度は塩を!』と訴えてみる。

「なんだ?これじゃなかったのか?それとも少し待てってことか?」
『これと似たやつ!白!粉!壺!!』

またさっきと同じジェスチャーを繰り返せば、リヴァイが「似たやつが欲しいのか」と呟いて壺をどこかに持っていってしまいそうになり、慌てて「リヴァイ!」と名前を呼ぶ。振り返ったリヴァイは、怪訝そうな顔をしているけれど『それは持っていかないで、ここに置いといて』とゆっくり伝えると面倒に思ったのかリヴァイは壺をわたしの近くの棚に置き、これでいいだろ?とでもいうような顔をしたので、わたしも頷く。こうしている間にもどんどん頭がぐらぐらとして、意識がふわふわとしはじめる。座り込んだままの体からはどんどん感覚が抜けていき、ただお腹の中でマグマのように重く、熱く、痛くて苦しいものがぐるぐると回る。口の中に黄色い胃液が逆流してくるようで、喉が締め付けられるようにひりひりとして、きゅぅ、とお腹が鳴る。口内にこみ上げる唾液が酸っぱい。気持ち悪い。早く流し込んでしまいたかった。

やがて、いくつかの調味料を経由してから、リヴァイは塩を持ってきてくれた。
塩を舐めたとき、心の底からほっとして、ちょっとだけ、泣きそうになった。昔の人は、このしょっぱい塩がとても貴重で高価で、そして生きていくのに必要なものだとよく知っていたから、サラリー(塩)と呼んだという。今はその気持ちが痛いほどよくわかった。塩。命の塩。ああ、泣いてばかりだ。でも、泣いてなんかいられない。貴重な水分と塩分をこんなことで失うわけにはいかない。わたしは頷いて、なるべく壁を触らないようにして立ち上がった。鍋の中では水がよく沸騰している頃だった。

「おい、ちゃんと手ついて立て。転んで頭打って死なれたら困る」

リヴァイがわたしの腕を掴んで壁に手を突かせようとしたのを緩く拒み、最後の力を振り絞って立ち上がる。
『ごめんなさい。でも、あんまり物に触りたくない…っていうか、触っちゃいけないから』と言った言葉は通じたのか通じていないのか、リヴァイはもう手を貸そうとはしてくれなくて、わたしはほっとした。リヴァイを見上げて、言わずにはいられなかった。


『ありがとう。…話を聞いてくれて、本当に、ありがとう』