08

「食中毒だね」


さらっと言い切ったハンジの言葉に、リヴァイが怪訝そうな顔をする。
夢子につけておいたはずのハンジが昼食からものの一時間もしないうちに一人で現れ、そう言い切ったことに内心で脈絡がねぇな、と思う。こいつの話は脈絡がない。ある意味天才型とでも言うのか、ハンジにはハンジにしか分からない回路で物事が進んでいくため、時々他人が追いつけない事をぽんと言うてらいがあった。まさに今がそうだった。


「とりあえず隔離したから。あと部屋替えたから。あそこ地下だからトイレないんだよね。垂れ流しは可哀想すぎるでしょ。あのまま地下で幽閉するつもりだったとは思えないけど、一応移動させた件については団長に許可は取ってきたからあとはリヴァイがこの書類にサインしてね。部屋は仮眠室に入れたよ。あそこなら個室でトイレもあるし、とりあえず彼女にはあのトイレのみを利用してもらう。けどあの部屋鍵ないんだよね…。まだ処分が決まってないなら不都合だろうけど、でもあの様子じゃ当分は脱走なんてできなさそうだし、下痢が収まるまではあそこで良いでしょ?私はその隣に寝泊まりするからさ」


じゃ、これよろしく、とリヴァイがそれまでサインをしていた書類の上に更なる書類を置いたハンジの表情にはいささかの焦りの色が見えた。書類に目を落とすと、重要機密移動処理案件、などと大仰なことが書かれている。早口に言いきったハンジの言葉からすべてを理解したリヴァイは、はぁ?とため息交じりの声を上げる。


「夢子が食中毒だってのか?」
「そ。…この書類にサインさえしてくれれば、医療班を動かせる。あの子は人類が壁の中に引きこもってから初めてと言っていい新たな文明だ。こんなところで、食中毒なんかで死なれちゃ困る。私はなんとしてでも、あの子を生かしたい」


ハンジの訴えかけるような真剣な目に、リヴァイは舌打ちで返す。
それはリヴァイとて同じことだった。エルヴィンから夢子について全権を引き受けた責任者は自分であるのだから、上が夢子の処分を決めるまではとりあえずあの娘を生かしておかなくてならない。あれだけの高度な文明の欠片だけを残して、当の本人にこんなところでくたばられては困る。何よりリヴァイとて、彼女のつれてくる世界に興味がない訳ではない。壁の外については誰よりもよく知っている。この大地の王者であったにも関わらず、こんなちっぽけな壁に追いやられた人類。しかし人間がいくら獣より優れた脳みそを持っていようと、圧倒的理不尽な暴力の前では虫けらも同然だったということ。その世界からやってきたかもしれない、娘。


もしあの娘が壁の外から来たというのなら、もし本当に、あの本の中のような平和な世界があるとするのなら、今、こんな壁の中に閉じ込められた人類の存在意味はなんだっていうのか。


他の人類を生かすための生き餌だとでもいうのか。



「異存は?」
「んなもんあるわけねぇだろ。生かせ。絶対にあの女を死なせるな」

書きなぐるように書類にサインをして、リヴァイは書類をハンジに突き付けた。
ハンジからは、にっという満面の笑みが漏れ、リヴァイの突き付けた書類を奪うようにして受け取り、「あとで見舞いくらい来ていいんだよ」と言い残して走るように部屋を出ていった。








ハンジさんが部屋を替えてくれた。
そこはもう地下室ではなかった。まるで中世の要塞のような石造りの建物の端っこにぽつんと建てられていた、小さな小屋だった。小屋というか、倉庫というか…。随分埃っぽい部屋だったけれど、じめじめとしたかび臭い、ましてや地下室に閉じ込められているよりずっとよかった。なにより部屋にはトイレがある!


どうも下水事情がよくないせいか、地下にはトイレが作れなかったらしい。
そして二階は二階で汚水を処理する技術がないようで、トイレはすべて一階にあるようだ。ベルサイユ宮殿では、貴婦人たちが大きなスカートの中で小用をして、それを踏まないようにするためにハイヒールが作られ、悪臭を誤魔化すために香水が発展した、なんていう嘘かほんとか分からない話が信憑性を持って伝えられているのだから、この時代のトイレ事情がよかったとは思えない。ウォッシュレットなんて未知であり、清潔で殺菌抗菌がされ、汚水なんてすぐにどこかへ流れていくってなトイレがある筈もなかった。そんなもの、千年後の技術だ。


暗い、暗い底の覗く穴。
一応陶器で作られた便座があるけれど、どうも、なんだか、ちょっと…いたたまれない。



とんでもない吐き気と腹痛が去ったあとは、物置となった部屋の片隅に置かれたベッドに蹲り、心底現代に帰りたいと願わずにはいられない。絶対に、あれだ。潜伏期間から考えて、ハイドニクが出してくれた食事だ。それともここの水か?なんにしても、絶対に、ぜーったいに食中毒だ。ノロウィルスだったらどうしよう。あれ?ノロウィルスは牡蠣か?わかんない…でも、今、こんな場所で、こんなことで死にたくない。

苦しい。苦しくてたまらない。
吐きすぎたせいか、胸骨がきしきしと痛み、普段使わない筋肉を使ったせいで胸のあたりが引きつるように筋肉痛を訴える。
水分が抜けすぎたせいか、頭がぼんやりとする。気持ち悪い。苦しい。痛い。頭がぐるぐるとする。ダメだ。水分補給しないと、脱水症状になる。でも、ここの食べ物の一体何に当たったか分からない。心当たりはありすぎる。日本じゃ水はタダで、穴を掘れば清浄な水が湧くだろうけど、海外じゃ事情は違うだろうし、ましてやここは中世だ。認めたくないけど、でも、きっと過去だ。まるっと信じて何かを飲んじゃダメだ…。くそ、どうしたら……


「おい、まだくたばってねぇだろうな?」


ノックもなしにドアを開けて部屋に現れたのは、リヴァイだった。
見知った顔が現れたことに、自分で思った以上にほっとするけれど、下痢と嘔吐で弱って、うずくまっているところを見られるのは居心地が悪い。ベッドの中で丸くなってお腹を押さえるわたしの口からは、何かを言おうとしたのに、うぅ、という獣じみた声しか出てこない。リヴァイはそんなわたしを見下ろして、少し戸惑ってからわたしの首に手を当てた。ひんやりとした乾いた大きな手だ。


「少し熱があるな。ハンジが今医療班派遣の手続きをしているから、まだ死ぬなよ」
多分、悪いことは言ってないんだろうと思って頷いてみせると、リヴァイも頷いた。
そしてベッドの傍にあった木箱に腰掛けて、なめした革で作られたらしい袋をわたしの口許に持ってきた。大昔、旅人はなめした革で作った水筒のような袋を持ち歩いていたんだとうろ覚えの浅い知識が脳裏を横切る。リヴァイにされるがままに、革袋の先に口をつければ、リヴァイはゆっくりと革袋を傾ける。水だ。水が口の中に入る。ちょ、ちょ、ちょっと待って!

んっ、と声を洩らして革袋から頭をのけぞらせて拒否する。



「なんだ?毒じゃねぇぞ」
『ちょ、ちょっと待って。水は良いんですよ。ありがたいんです。でもたぶん、あんまり今は良くないと思うんですよ…!』

水を取り上げてしまったリヴァイに慌てて手を伸ばして、訴える。
今のこの弱り切った状態で、またエールなんて出されたらそれこそ死ぬ。絶対に胃に悪い。水がほしい!
溢れた水で濡れる口許をぬぐって、一生懸命伝えようと思って言ってみるけれど、リヴァイは元々の無愛想な顔をますます不機嫌そうにする。親切を拒否したと思われたんだろうか。それは違う。こうして水を持ってきてくれたのはすごく嬉しい。特に、弱っているときには堪らなくありがたい。でも、水はダメ。だってこれ、絶対生水だ!どうしたら良いんだっけ?加熱か?加熱処理すれば大丈夫か?一度沸騰させて、雑菌を殺そう。汗を補ってくれるようなスポーツ飲料がない世界だ。自分の体力を回復させる術は自分でなんとかしなくっちゃ。なんだっけ?なにしたらいいんだっけ。頭がぼけーっとして、脳みそが回転しない。…塩、そうだ、塩だ!


『この水を、煮る!火、つける。沸騰させる。で、砂糖をたっぷりと、塩を少し入れて欲しい!』


なんとかジェスチャーで伝えられないかと、水を指さし、火を連想してもらえないかとマッチを擦るジェスチャーとか、焚火っぽいジェスチャーをして、中にひとつまみ、何かを入れるようなジェスチャーをしてみる。でもリヴァイの頭の上に「?」が浮かんでいるのがくっきり見える。だ、だめだ、通じてない!


「なんだ?何言いてぇのか全然分かんねぇぞ…薬が欲しいのか?それならハンジが今持ってくるだろ。それともお前の国じゃ水は飲まねぇのか?」
『水は飲むよ!飲みます!助かります!でもこのままの水じゃダメなんです!加熱する!ファイアー!!…っていうかわたしにやらせてください!』


どんだけジェスチャーをしても通じないもんだから、通じないって分かっているのについ大きな声が出てしまい、頭がぐわんぐわんと響き、つい枕に突っ伏した。だめだ。吐き気がこみ上げる。ばっとベットから飛び起き、トイレに駆け込み便座を握り締める。リヴァイの存在に構っている事なんてできなかった。ベッドで粗相をするよりよっぽど良かったけれど、胃液を吐くということがこんなに苦しい事だったのか、と初めて知り、涙が込み上げる。酷使された胸の筋肉が悲鳴を上げる。喉が焼けるように熱い。頭くらくらするし、吐き気とまんないし、体調不良でイライラするし、でも体からどんどん水分が抜けていくのが分かって焦る。ノロウィルスや食中毒での死傷者のニュースを聞かない夏はない。誰もがそう思うように、まさか自分が、というやつだ。まさか自分が…しかもこんな場所で。


もう一言もしゃべる余裕がなくなって、腕に顔を押し付けて、こみ上げる痛みに、うぇー、とうなる。
声を出したらどうにかなるってもんでもないけれど、それでも胸の中にこみ上げてくる嘔吐感がうめき声となって吐き出されていくような気がして、ついうなる。リヴァイが面倒臭そうな顔をして見下ろしているんだろうな、という気はしたけれど限界だった。

ふいに隣でリヴァイが立ち上がる気配がした。
腕から少しだけ顔を上げてリヴァイを見上げると、リヴァイが心底面倒臭そうな、鬱陶しそうな顔をしたまま、わたしの腕を掴んで引き起こした。うえぇ、今動かさないでよ、という抗議と驚きがついうめき声になったけれど、リヴァイはそんなわたしを無視して、ぐったりとしたままのわたしをおぶった。な、なんだ、また移動か?

「洩らしたら殺すぞ、くそ女」

降りたかったけれど、抵抗する気力も体力もなく、リヴァイの背中に頭をぐったりと押し付けていたわたしの耳に、絶対零度の声が飛び込む。なぜだか絶対に返事をしなくっちゃ、しかも絶対にその返事に従わなくちゃいけないって気がして、わたしはうめき声交じりに『りょうかいです…』と返事をした。