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ハンジが夢子のいる仮眠室へと医療班を連れて向かうと、仮眠室のドアは開けはなたれ、部屋の中にあった筈のボロ布の山や、木箱、樽、空の空き瓶などが外へと並べられ、本の類が天日干しされているところだった。そんな大がかりな掃除をする人物は一人しか心当たりがなく、ひょっこりと部屋を覗き込んでみればそれはやはりリヴァイだった。真っ青な顔で眠っている夢子と、その傍らで静かに窓拭きをするリヴァイの姿だ。

「なんだ、本当に見舞いに来てくれたんだ」
「手続きが遅すぎる。こいつを放置して何かあったらどうする気だ?ぺトラでも誰でも良いから見張りの一人もつけておけ」
「そりゃ悪かった。で、この状況はなに?」
「見りゃ分かるだろ。目を離して死なれたら報告書じゃすまんぞ」


確かに言われてみればその通りには違いない。
ましてや今は彼女を生かしておくことを最優先事項としている。
この時代にあって食中毒は舐められた病気ではない。平気で人が死ぬ。いくら水を飲ませても患者はどんどん脱水症状に陥り、水を飲ませたうちから水を吐いてしまう。オートミールなどを食べさせてもいくらも栄養を摂取することができなくなり、もがき苦しんだうちに死ぬ。もしくは吐しゃ物が肺に入り、腐り、新たな感染症となって死ぬことも多い。そして一人にしておいたうちに窒息死ということもままあった。とにかく油断のできぬ病気であった。


「早く薬を飲ませろ」

リヴァイの苛立ったような目に睨まれ、医療班の代表としてただ一人連れられてきた初老の男は苦笑をかみ殺して、夢子の手を取った。熱がある。口を開けさせてみれば、喉が赤くはれ、舌が白い。このまま熱がだらだらと長続きするようでは危ないが、この様子だと一晩、二晩で熱は高熱になり、そして熱が下がった頃には一緒に症状も引いているように見えた。それにしても…と医者は考えずにはいられない。なんなのだ、この娘の顔は。

顔の骨格がまるで自分たちとは違う。
そりゃ顔立ちは千差万別だろう。それでも、こんな顔立ちの娘は見たことがない。明らかに異国の顔をしている。ハンジから超極秘案件だからとただ一人選ばれた時は、隊内の不審死でもありその検死でもするのか、と一瞬考えたがそうではなかった。これは、確かに超極秘案件だった。こんな顔をした娘が壁内をうろうろしては騒ぎになる。禁じられたことはすべての人間の好奇心となる。禁忌という事は、皆が知識の底で知ってはいるけれど口にする事を憚られること。医療を学ぶ上で禁書とされ、かつて「各国」と言われたように様々に存在していた国々の医学書を読んだ。東洋という国の存在を思い出す。まさか、今更、絶滅した民族が生きていたとてもいうのか。


「この娘は、東洋人、ですかな?」
「それを知ってどうする?」
「東洋人の肉体は我々よりも未発達です。彼女もおそらく成人しているでしょうが、骨格や肉のつき方がやはり未発達です。この様子では内臓器官もいくらか頼りないものでしょう。そうなると薬の量が我々とは違う。一度子供の量を与えて様子を見ましょう」


医者から出た質問に一瞬険呑とした声を出したリヴァイだったが、医者の言葉の意味が全うであった事に頷いた。
もしこの医者が東洋人を理由に治療を放棄するようであればなんらかの処分をするつもりだった。医者がテキパキと鞄を開けて治療準備を始め、薬を調合し始めたのを腕を組んで見守る。ハンジが隣で「夢子、死なないで」などと言いながら意識の朦朧とする娘の額を塗らした布で拭っていた。やがて粉薬の調合が済んだ医者がそれをリヴァイとハンジに見せ、夢子に飲ませようとした。

その時、リヴァイがそれを静止した。



「飲ませるのならその水ではなく、こちらの水を使え」

医者が持参した水ではなく、リヴァイが差し出したのは水の入った革袋だった。
それは?と首を傾げた医者に、リヴァイは「湯に砂糖と塩を溶かしたものだ。もうすっかり冷めたがな。こいつが自分で欲しがった。そしてこいつはここの水を拒否した。何か理由があるのかもしれん。しばらくはこの水を与えてやれ」とだけ答えた。湯に砂糖と塩を溶かすなど聞いたこともなかった医者は首を傾げながらも、体に害のあるものではないし、薬に影響するものでもないと判断してそれを了承し、治療を終えた。


「まずはこの汗を吸った服を脱がせて風通しの良い服を着せてやってください。それから患者の吐しゃ物などは決して触れぬように。彼女の使ったトイレは決して使わないようにしてください。他に患者が触った場所などはありますまいな?」
「いや待て。こいつを厨房に連れていったぞ」
「厨房!?まさか食材には触れませんでしたか?」


驚いた医者に、何も触っていないとだけ答えたリヴァイに、医者は心底ほっとしたように胸をなでおろした。
医者は感染症の恐ろしさを簡単に話し、リヴァイはちらりと眠っているのかいないのか、ゆらゆらと意識を浮上させては落としながら荒く息を吐き続ける娘を見下ろした。―――知っていたのか?
娘は一切何も触れようとはしなかった。壁に手をついて立つことすらせず、じっと堪えて立ち上がっていた。その様子はまるで、自分が何も触れてはいけないのだとよく知っているような様子だった。その事にリヴァイは内心で僅かに驚く。



医学は医者のものであり、人民の知るところにはなかった。
どんな些細な知識であってもすべて医者の専売特許であり、医者が医者である地位を守るために口外することはなかった。ゆえに医者は高い地位を持っている。生命を握る医者は、聖職者であると同時に政治家であった。時には貴族でさえ医者には頭が上がらない。そんな医者の知識を、この小娘が知っていた、という事に驚く。市民に向かって開放された知識ではなかった。

この女には、いくらか知識がある、ということだろうか?



「それじゃあとりあえず服を取ってくるよ。悪いけどもうちょっとだけリヴァイが診てて」
「錠前と釘も持ってこい」
「…分かった」

それ以上はリヴァイが言わなくても、ハンジには通じた。リヴァイはこの小屋を本格的に夢子の幽閉場所とするつもりだった。
そして何より、夢子を守るためでもあるだろう事は分かったので、特に反対することもなかった。あの人身売買組織のように、夢子の珍しい容姿を見て変な気を起こさない者がいないとも限らない。夢子の脱走というより、外からの侵入者を防ぐためでもあった。その事がハンジには悔しくて堪らない。兵団という組織を末端まで信頼する事ができない現状に腹が立つ。人類が壁内に安息を見出してからたかが100年。だがたった100年で人類は恐怖を忘れてしまった。もどかしくて、たまらなかった。









嘔吐感に目を覚ますと、真っ暗だった。
枕元から離れた位置にある机の上で、蝋燭の明かりが頼りなく揺れているばかり。
電気に慣れた目では蝋燭の明かりは暗く、手探りでトイレを目指し、真っ暗な穴に向かって何も出てこないと分かってはいてもえづく事を止められなかった。苦しい。胸の筋肉が痛くて痛くて、息をするのもやっとだった。ヒュー、ヒューと息を掃き出し、口を漱ぎたい、と当たりを見回せば夜になれた目が水差しとコップが置かれているのを見つける。きっと誰かが用意してくれたのだろう。ありがたくそれで口をゆすぎ、トイレへと吐き出せばいくらかすっきりとした気持ちになる。そして落ち着いてよく見れば、自分が着替えも済んでいることが分かった。ナイトドレス、と言っては上等すぎるだろうか。荒い綿で作られたワンピースのようなもの。汗を吸って、そして二日、三日着たきりだった服に不快感を覚えていたのを思い出して、ほっと一息つく。汗で髪がベトベトする。シャワーも浴びたい。でも、今はそんな気力はなかった。立っているだけでめまいがした。


でも、誰かがわたしを生かそうとしてくれている事だけは分かった。
リヴァイとハンジさんだろうか。


リヴァイは厨房で、ちゃんと水を作ってくれた。わたしの話を聞き、生かそうとしてくれていた。ハンジさんだって、わたしの様子を見てすぐに部屋を移動させてくれた。きっとハンジさんがリヴァイを呼んできてくれたんだろうと思った。わたしはこの国に現れた外国人で、怪しいやつで間違いないのに、二人がどんなに親切にしてくれたかを思い出すとまたちょっと泣きそうになる。ここがどこなのかはまだ分からない。そして自分がどうなるのかも分からない。でも、まずはあの人たちがいて良かった。国際感覚とか、異文化コミュニケーションとか、そんなものが当たり前の時代じゃない。日本なんてきっと存在だって知られていない。


でも、あの人たちなら、きっと悪いようにはしないと思う。




そう思ってベッドに戻り、少し夜風を浴びたいと思い窓に手を掛けた。でも、窓は開かない。
窓は窓ガラスなんてはめ込まれたものではなく、木の板を開閉させるタイプのもの。窓ガラスではなく、雨戸、とでも言うんだろうか。その雨戸が閉まっていては、外の景色など見えはしない。隙間風が漏れるばかり。蝋燭台を持ってきてよく見れば、雨戸には外から釘が打たれている。この部屋に来たばかりの時は、この窓は開いた筈。釘なんてなかった。窓すべてを開けてみようと試みるけれど、すべての窓に頑丈な釘が打ち付けられ、外の景色さえ見えない。どういうこと?


ドキドキと心臓がうるさくなる。まさか…でもそんな…。
望みは薄いと分かっていても、ドアに手を掛けずにはいられなかった。そしてもちろん、ドアにはしっかり鍵が掛けられている。軟禁されている。軟禁場所が地下からトイレのある地上に変わっただけで、軟禁状態であるには違いなかった。わたしの処遇は、そういうことだった。



ずるずるとドアの前にしゃがみ込めば、その勢いで蝋燭の火は消えてしまった。
ライターやマッチなんて持っている筈もなく、真っ暗な部屋はただ沈黙している。何の音も聞こえない。暗い部屋。外に出ることも、外の様子を伺うこともできない。これは、あの人たちが取った決断なんだろうか。でも、きっとそうに違いない。
少し、楽しかった。お昼ごはんの様子を思い出して、胸がキリキリと痛くなる。



怖い。
わたしは、これからどうなるんだろう。

「どうして」は、いっぱい思い浮かんでは消えていく。でも、答えのみつからない「どうして」を考えたって仕方がない。「どうして」の答えを見つけたって、納得なんてできないかもしれない。



今は、生きる方法を考えよう。