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運転する車のフロントガラスに何か大きな鳥が写った。・・・・いや、違う、夢子だ。
運転席から空を見上げれば、夢子が物凄い速さで空へと飛び立っていったところだった。
周囲は誰も気がついていない。魔女という存在が、今、まさに我々の頭上を飛んでいったことなんて、これっぽっちも気づかないまま、いつものように街の時間は流れていく。案外そんなものなのかもしれない。伝説上という存在は、案外身近な場所に存在していたのかもしれない。
しかし、あれでは下着が丸見えではないか。今度から空を飛ぶときはきちんとズボンなどに履き替えるように言ってやらなくては。
「早く帰ってきたまえ。まだまだ君に説教すべき事が沢山ありそうだからな」
私は頬を緩め、ぎゅっとハンドルを強く握った。
野生のマンドレイクは、基本的に絞首台の下に生息している。
処刑された人の体液を糧に生きているからだ。だけどリザさんの話によれば、絞首台は5年前に決まった法律で廃止になり、死刑は銃殺と決まったらしいから、もう生息しているかどうかは・・・、という事だった。だけど雛形が生きていれば、あとは普通の雨なんかで生息しているだろう。何年も何年もかけて、死んだ人の憎しみや哀しみで体を大きくして生きていくんだ。その憎悪の塊のような生き物が、人を癒す回復薬になるんだから世の中ある意味上手くできてる。
一度高く高く空へと舞い上がって、リザさんの書いてくれた地図と街の形を照らし合わせる。
えぇと、あの中心の建物が軍本部で、そこから北に向かって伸びる一番太い放射線の・・・
その時、ふいに体が何かの力でぐんっと引っ張られた。箒の暴走!?いや、違う!何かに引っ張られてるんだ!!
やばい、と思った間もなく、わたしは絶叫マシンよろしくまっさかさまに地上へと引っ張られていく。
『ぎゃぃぁぁあぁぁぁぁああああああ゛!!!!』
手に持っていたメモは、わたしの手から離れてびゅんっとどこかへ飛ばされていく。
ぎゃああ!!と悲鳴を上げながらわたしは箒にしがみ付き、何度も何度も体勢を立て直すように呪文を唱えるけれど、そんな抵抗も空しく、強い力でどんどん引っ張られていく。地面との距離あと10メートルほど!!ふらぁ、と失神しそうになるような勢いがぐんっ!と急に止まり、今度はゆっくり、ゆっくり、体が落ちていく。ようやく周囲を確認できる余裕を持ち、辺りを見回すと、そこはあの、フラメル教会だった。まさか…?
そのまま体は勢いよく引っ張られ、自動的に開けられた窓からわたしの体は部屋へと乱暴に転がりこんだ。いったぁ〜、と打ち付けた頭を押さえて、ゆっくりと四つんばいのまま顔をあげる。嫌な予感が、当たった。
そこにいたのは、あのキレイな顔をぞっとするほど無表情にして、わたしを見下ろすアーサーだった。
アーサーの薄い唇が開く。
「どうして?」
そんなの聞きたいのはこっちの方だ!と怒鳴る余裕もなかった。ゆっくりと尻餅をついたように後ずさるわたしに、アーサーは一歩足を進める。かつん、とアーサーの靴音が響く。どうして?、とまたアーサーが呟く。何を言っているのかまるで分からない、色々と尋ねたいのはこっちの方だ。それなのに、アーサーは冷たく目を伏せ、わたしへと歩み寄った。
「君は、僕を救ってはくれないんだね」
それから、いくら待っても夢子が帰って来る事はなかった。
飛び立っていった時は夕暮れに差し掛かかろうかという昼下がりだったのに、今ではすっかり夜になってしまっている。
絵の中でミランドラ老人がぐるぐると落ち着かない様子で歩き回る。その絵の中の空は、彼の心象風景でも映すかのように、さっきまで描かれていた美しく瞬く星空から、時折雷が鳴り、雨が降り、すっかり重たい曇り空になっている。彼は岩に腰掛、苛々と足を貧乏揺すりする。
テーブルの上には、夢子に頼まれた薬草が並んでいるというのに、肝心の夢子とマンドレイクがなくては何も始まらないではないか。いや、マンドレイクはいい。だが夢子が帰ってこないというのはおかしい。嫌な予感に胸が落ち着かない。さっき中尉が絞首台へと様子を見に行ったし、もうすぐ帰ってくるだろうが、しかし、それにしても遅い。
「もしやそのマンドレイクの泣き声で…」
「いや、それはないだろう。あの美人な軍人さんの持ってきてた耳栓なら十分に悲鳴を抑えられるだろうし、第一魔法族ならば悲鳴を聞いたとしてもちょっとひっくり返って気絶する位で済む。だけどなぁ、あの子は親がマグルだと言っておったし…」
全く、不安を煽るような事ばかり言うご老人だ。
「さっきから貴方と夢子の言っていた“マグル”というのは一体どういう意味なんですか?」
「マグルはお前さんみたいに、魔法の使えない連中のことさ。こっちの世界の、あんたみたいな錬金術師もマグルに分類していいかは微妙だが、まあ、とにかく魔法を使えん連中のことを、魔法界ではマグルと呼ぶ」
聞けばきくほど「?」ばかりが浮かび上がる。だがいずれ夢子がゆっくりと説明してくれるだろう。
彼女は言った。「話がある」と、ならば全ての事は夢子から聞かなくてはならない。
「それで、何故焼失した筈のあなたが生きているんですか?」
「ワシのこの意思が生命かどうかと聞かれるとこれもまた微妙な所だが、仮に生きていたという言葉を使うなら、牧師のお陰さ」
彼は、因果なもんだ、とニヤリとその皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。
流石に、何百年も人と会話する事がなければ、暇になってくる。
彼の言うところでの他の絵画ならば絵の中に退屈しのぎになるような本だの動物だのの娯楽が描かれているが、彼は苦難の中にある聖人の絵だ。周りには何も無い。一人になると暇で仕方が無い。そこでふと教会の牧師に声を掛けた。牧師は最初こそは随分驚いたようだが、彼が「聖人の力で生命を得た」ともっともらしい話をすれば、ころっと信じた。神のご加護だ、と彼を敬った。彼がマグルである人間と会話をしていたことは、魔法界の人間には秘密にしていた為誰も知らない。
だがある時、牧師は彼を売りさばこうとした。
贋作として、近くの美大生の描いた彼の模写を買取り、それと入れ替えたのだ。火事で燃え落ちたのはその模写だという。
ぺらぺらと人間のように話し、中の絵柄を自在に変化する事のできる摩訶不思議な絵画。
そう銘打って、彼をある金持ちに売ろうとした。怒ったミランドラはむっつりと口を閉ざし、絵画よりもずっと絵画らしく微動だにしなかった。もちろん絵は売れなかった。怒った牧師は彼を別の金持ちに「ただの美術品」として売りさばいてしまったが、彼を買い取った金持ちも教会に“本物”が飾られているのを見つけて頭にきて、彼をゴミ捨て場に捨ててしまった。
そして、同じ頃、教会は不運にも火事にあった。
火事で焼失されたと思っていたが、ある日信仰深い老婦人が彼がゴミ捨て場に捨てられているのを見つけ、すぐに新しい教会へと移され、大人しく聖人の絵の役をしていた。私が読んだ新聞の三面記事の「焼失した絵画がゴミ捨て場から発見」というのはこの事だ。
そして今日、夢子が現れた。
「人間は因果応報で生きておるな」と笑う彼に、私は苦笑するしかなかった。
「そういえば、ワシを売った牧師はワシを売った金で宿屋を開いたと風の噂で聞いたよ、地味な男だ」
「宿屋、待ってください。その牧師の名は分かりますか?」
「そりゃもちろん分かるとも。オリバー・ブラウンという見るからに冴えない顔した男さ」
予感的中だ。オリバー・ブラウンは、我々をナイフで襲い、頓死した男の名前ではないか!
この絵画を売った金で宿屋を開いたオリバー・ブラウン。何故か私を見て襲い掛かり、死ぬ間際まで「悪魔」と呟いて頓死した男。いや、私に襲い掛かる前に何か恐ろしいものでも見たかのように悲鳴を上げた。だから私もハボックも彼に駆け寄ったのだ。
死ぬ前に、彼は何を見た?何故私を襲った?
────まだ何がある。全てがひとつの場所へと繋がっている。
アーサーが、そっとわたしの頬を撫でた。
わたしは息を呑んで、わたしの目を、わたしの魂をじっと覗き込むように見つめるアーサーに脅えた。
アーサーの目は、わたしにとって恐怖ではなかった。いつもひっそりと、やわらかな笑みを浮かべていたのに、今のアーサーの目はどこまでも冷たくて、まるでわたしを生命のない無機物をじっくりと観察するような目で見つめる。そんなアーサーの目は、わたしの魂を裸よりも裸へと剥いていき、彼の前でわたしはどんな嘘だってつけないだろうという気にさせられた。そしてさっきまで体の中で爆発するようだった魔法の力が、手の平からするりと零れ落ちていくように冷たく魂の底へと沈んでいく。もう魔法は使えない、と直感した。
今、わたしはアーサーという存在の前で、魔女でもなければ、人間でもない、魂よりももっとむき出しの存在になったような気がした。
「僕と同じ、黒髪なのに」
「え、」
「君は、何故、僕を救ってくれなかったの?」
アーサーが、顔をくしゃりと歪めた。
それは、まるで子供が泣きじゃくる一歩手前のような、泣き笑いをするような、頼りなくて、悲しい顔だった。
アーサーに会うことがあれば、ジャンの事を怒鳴りつけてやろうと思っていた気持ちなんか、遠くに消え去り、まるで燃え落ちた灰のように冷たく、軽く、胸の底にわだかまり、やがて溜息を漏らすように微笑んだアーサーの息でそれはもうかき集めることもできないほど遠くへと飛ばされ、散布していき、残ったのは、アーサーを裏切ってしまったんだ、という罪悪感だった。裏切った?わたしが?
ち、違う。わたしは、アーサーを裏切ってなんかいない。
全部話して、そうしたら、アーサーについていこうと思った。アーサーに従おうと思った。違う。裏切ってなんかいない。
「ど、どうして、ジャンを呪ったの?」
なんとか気力の全てをかき集めて、それだけを呟いたけれど、呟いた言葉の魂はわたしの舌の上でとろりと溶けてしまい、声には感情の欠片も無くて、まるでへたくそな朗読でもするように意味の無い、空々しい言葉だった。アーサーはそんな声が聞こえていたのか、いないのか分からないけれど、ただわたしの黒髪を一房指で持て遊び、そっと唇を開いた。
「僕と君を引き剥がそうとした、敵だよ」