27
一度だけ、母を見た事がある。
人恋しさに、僕はたった一人で母の屋敷へと向かった。マグルの世界で聞いていたような、まるで吸血鬼の住むような屋敷だった。古く厳しいゴシック様式の柵が高く張り巡らされ、美しい薔薇が咲き誇っている。どろりと溶け始める、腐乱一歩手前の果実のような、濃厚で淫猥な花の香りに満ちていた。何百世紀と、一族のみで婚姻を繰り返し、血と魔力を高めていた、古代からの屋敷。そのうっそりとした闇の底を覗き込んだつもりだったのに、屋敷は理想の世界のように美しく、僕の心を捉えて離さず、強い憧れと畏怖と、情念を抱きかかえて、僕は何度も屋敷へと足を運び、その楽園の中で愛された少年時代を送る僕を夢想した。美しい世界。僕の聖域。
ホグワーツでの日々は、僕にとっての慰めにはならなかった。
若く輝くエネルギーに溢れた同級生達、彼らを下等な生き物だ、と見下すには、あまりに彼らは眩しく、健康的だった。マグルの世界でこそ悪魔との契約の息子だなんて、まるで教養のない原始的な恐れで、ある種崇められていたというのに、この学校ではただの一魔法使いでしかなかった。僕はこの周りの子供達と何も変わらない。ただ違うのは、愛されていなかったという事だけ。
僕は何度も屋敷へと出向いた。
その為だけに、ただの学生にとっては高度な技術であるアニメーガスも習得した。猫の身になり、僕は屋敷の近くのイチョウの木から、じっと、美しい屋敷を息を殺して見守っていた。休日になるたび、手負いの獣が巣穴へと逃げ込むように、息を殺し、体中を緊張させて、じっと美しい夢の世界の欠片を見出すように、ただじっと、屋敷を見守った。
そしてある日、美しい女性が庭へと出てきた。
金糸の髪が光に透け、病的なまでに白い肌は少女のように華奢で、うっとりとしたような、…いや、生気の抜け落ちた痴呆感の漂う瞳は、しかし僕が今までに見たどの女性よりもずっと美しく、僕の心臓を掻き乱した。―――本能により理解した、母だ、と。
だけど、母はただ美しいだけの人だった。
時折、ぽつり、ぽつりと何かを呟くだけ。まるで、人形のような────、
そこは楽園でも、なんでもなかった。
病んだ母と、周囲の醜聞に脅えて暮らす、ただの厳しく愚かで、まるで棺おけの中のように息を潜めて、ただ己の魔力と血を守る為だけにこの世に存在している、ただの地獄だった。
僕は木から転がり落ちてしまいそうな衝撃を受けた。そしてそのまま屋敷から逃げ出した。見てはいけない物を見てしまった。アレは見てはいけないものだった。聖域だった屋敷は、もはや聖域ではなかった。
僕にとって絶対の信仰の対象であるべき場所は、もうこの世のどこにもなかった。
もう誰も僕の心を救ってはくれない。
アーサーを、怖いとはもう思わなかった。
ただアーサーの冷たい身体をそっと抱き締めて、わたしは泣いていた。アーサーの皮膚から、鼓動から、吐息から、アーサーの人生がわたしの肌へと流れ込んでくるのを、わたしは魂で理解していた。アーサーの黒髪を、わたしと同じ黒髪を、そっと子供にしてやるように撫でてやれば、アーサーがひどくおずおずと、わたしの背中に手を伸ばし、とても高価で繊細で複雑なガラス細工にでも触れるように、ゆっくりと、わたしを抱き寄せた。
わたしは目を閉じて、泣いた。
目を閉じると、熱い瞼の向こうで、様々な光景が無声映画のように映った。アーサーの人生。わたしの人生。アーサーの人生なんて想像したこともなかった。彼のような人生なんて、考えたこともなかった。
人とは、少し、違うとはなんとなく思っていた。
退屈な社会の授業。四角い教室。午後の日差しの中で、ぬるく、生暖かい四角い密室の中、軍隊のように規則正しく並んだ机と椅子に腰掛けて、誰もがお葬式のようにただ黙って椅子に座って、先生が黒板に書いていくことをノートに書き写していく。単調な作業。先生は暗記してきた掛け算を披露するように、わたし達よりもどこか遠くを見ながら、せっせと何か難しい社会の仕組みを呟いてく。とても眠たくて、わたしの目は、身体はとろりと気だるくて、ぼんやりと筆箱の中の鉛筆を眺める。ピンク色で、流行のキャラクターの描かれた鉛筆。
ああ、この鉛筆が踊り出したら面白いだろうな。
鉛筆は震えて、踊りだし、驚いて鉛筆を筆箱ごと落としてしまった。教科書が浮いたことだって一度や二度じゃない。だけど、誰もわたしを異常だなんて言わなかった。悪魔なんて言わなかった。友達が居た。家族がいた。
外で力いっぱい遊んで、夕暮れの中、ご近所さんの夕食の匂いを感じながら、ただいまー!と玄関を開ける。お母さんが夕食をつくっている。その背中にしがみ付いて「あのね、今日はね、」と喋り出す。笑って聞いてくれるお母さん。「勉強もするんだぞ」とわたしの頭を撫でるお父さんの大きな手。誕生日を指折り数えて心待ちにした。仲の良い女の子がいた。時々ちょっと喧嘩した。さんすうが嫌いだった。でもおんがくが好きだった。
ホグワーツだって、大好きだ。
留年したとき、実家で泣きじゃくる私に、おかあさんもおとうさんも、ちょっと困った顔をして「ま、仕方が無いさ。それより人には使えない特別な才能を持っているのだから、ゆっくり才能を育てなさい」と慰めてくれた。最初は言葉にだって戸惑ったけれど、でもすぐに新しい友達ができた。みんなでお揃いのマフラーをつけて、クィディッチの応援をした。雪の中をホグズミートに向かって走り出した。魔法生物に興奮と驚きで騒ぎながら、お祭りのようにはしゃいで、先生にマイナス点をされた。毎日がお祭りのように輝いていた。
みんながいつも笑っていた。
わたしは、アーサーの持っていない全てを持っていた。
アーサーが、アーサーの魂がわたしの中へと流れ込む。
アーサーが、たすけて、って言っている。アーサーが叫んでいる。アーサーが泣いている。その時、わたしはアーサーになった。
わたしは、アーサーをより強く抱き締めた。アーサーが、ゆっくりとわたしを抱き締め返した。
「わたしは、アーサーだけの味方だよ」
ニルヴァーナ。
もう誰も、わたし達の邪魔なんてできない。ここは、わたし達だけの、楽園。