29
僕を受け入れた夢子を、そっと引き剥がした。
夢子は泣いていた。なぜ泣いていたんだろうか、僕には分からなかった。
僕の中には、夢子を手に入れたという暗い歓喜と安堵、しかしこれは彼女ではないという絶望にせめぎ合い、僕は夢子の肩を握ったまま唸り声を上げた。このちいさな肩で、一体僕の何を受け入れてくれるというのか。彼女は今、彼女ではない。知らず呪われてしまった、ただの人形なのだ。夢子が僕を抱き締めたとき、僕の魂の記憶が彼女の肌から彼女の魂へと流れ込み、そうして呪われてしまった、ただの人形。夢子は今、僕の魂によって支配されてしまい、同調しているだけであり、僕を受け入れてくれたわけではない。僕を救ってくれるわけではない。僕が欲しいのはこんな人形のような少女ではない。これではまるで、あの日の母の姿じゃないか。惨めだ。たまらなく惨めな気持ちになった。
だけど、夢子の人生も僕の中へと流れ込んだとき、とても暖かなものを感じた。
遠い昔、僕が持っていた、暖かい記憶。人生は全てうまくいく、苦しくても、最後にはきっと笑える、と楽天的なまでに自分の将来や家族、友人を信じきった心。
夢子が羨ましい。
彼女の持つ全てが、羨ましくなった。
ちがう。もうずっと前から、僕は夢子をうらやましく思っていた。
この世界でさえ、友人を作ることができた。安心して、傍にいられる人たちがいる。どうして、彼女はそんなことができるんだろうか。わからない。僕には、なにも分からない。ただ、夢子が羨ましい。僕は夢子になりたい。僕は夢子の人生が欲しい。僕は羨むことを知ってしまった。
ふいに心の底から夢子を欲しいと思った。
何もかもを、この子に託したいと思った。
ただ、それだけだった。
目の前で、アーサーの体が吹き飛んだ。
その光景は、さっきまでのとろけるように幸福で、すばらしい世界からわたしを地の底に叩き落した。
幸福な夢だと思っていたものが、一瞬にして悪夢へと代わり、そして現実へと直結した。
あぁっ、と叫ぶ時間もなく、物凄い速さでアーサーの魂の景色が頭の中を巡っていく。アーサーの魂がわたしの体の中から根こそぎ引き抜かれていく。わたしは腕を伸ばして、物凄い速さで遠ざかっていくアーサーの魂をかき抱こうとしたけれど、それはわたしの指の間をするりと通りぬけて、ゆっくりと、スローモーションに倒れていくアーサーの肌へと吸い込まれていく。その代わり、赤黒い血が弧を描く。
アーサーが、撃たれた。
アーサーを打ち抜いた瞬間、アーサーが背後に倒れこむのに引きずられるようにして、腕の中の夢子から何か煙のようなものが飛び出したかに思えば、夢子が腕の中でぐったりと倒れた。夢子!と腕の中の夢子を揺さぶれば、夢子はすぐに目を覚ました。あのぼんやりと霞がかった瞳じゃない。正常な、はっきりとした光を持った目に心底安堵する。
だがそれも一瞬のことで、夢子は倒れるアーサーを見つけると、ヒステリックな悲鳴をひとつ上げ、俺の腕から逃げるようにアーサーの元へと駆け寄り、困惑する俺達を他所にアーサーの前にひざまずき、アーサー!アーサー!と悲鳴を上げるように名前を呼んだ。
「アーサーッ!!!!」
夢子がアーサーを抱き起こした。アーサーの腹が真っ黒な血がにじみ始める。
震える腕で夢子は血まみれになるのも構わず、アーサーを抱き締めた。
大将も軽く咳き込んだが、しかしもう苦しみは治まったらしく俺は安堵する。だが問題は夢子だ。
俺達も夢子とアーサーの元へと駆け寄った。ふいに景色が滲むように元の薄暗く、埃っぽい地下倉庫へと変わっていく。いや、やはり夜の屋敷だ。倉庫だと思えば、屋敷になり、違う二つの写真が目の前でさっさっさとブレるように映されたような、奇妙な景色がしばらく続いたあと、ゆっくりと屋敷は夜に溶けるように消え、ただの埃っぽい地下倉庫へと変わった。倉庫の石畳は所々捲れ上がっている。大将の錬金術のせいだ。アーサーを抱きかかえたまま、何も言わなくなった夢子の肩に手をやり、大佐が答える。
「急所は外している。すぐにブレダに……」
ふいに足元が震え始め、天井から塵が降り始める。……まさか?
頭上の岩盤が崩れ始めた。
う、うそだろー!!?
「走れッ!!」
大佐が叫んだ瞬間、足元が大きくぐらつき、天井が崩壊を始める。すぐにみんな走り出す準備をしたというのに、夢子は何かを呟きながら、アーサーを抱き締めている。俺は「夢子!目ぇ覚ませ!」と怒鳴って夢子の腕を引っ張った。瞬間、夢子はアーサーの肩を抱えたまま立ち上がり、杖を天に突き刺すように掲げた。
「Levitation Charm!!」
杖をかざして叫んだ瞬間、落下しはじめた石がぴたりと止まる。だけど、重いッ!!
杖を握る手が震える。走って!今のうちに走って!と叫んで、みんなを逃がしたいのに、そんな余裕がなかった。今意識をそらせば、あっという間に魔法がとけてしまうのは分かっていた。びりびりと手の先が震え、呼吸すらままならない。体が重たくて、立ち上がろうとする身体が瓦礫の中に沈んでいく。また砂や土、石ころが天井から転がり落ち始める。腕に抱えたアーサーから、ぬるぬると生暖かい血を感じる。大佐さんが急所は外していると言ったけれど、アーサーの身体からどんどん“力”が抜けていくのをわたしは魂で感じた。
「は、しって…はやく……」
「んなことできるかよ!お前はどうする気だ!」
エドワードが吼えるように叫んで、わたしは黙るしかなかった。どうするって言われても、わたしまで逃げたらみんなここでぺしゃんこだ。わたしはアーサーの肩をぎゅっと抱きかかえた。
アーサーの魂がわたしの魂から抜け出していくのを感じたとき、すべて分かった。
分かったから、分かってしまったから、もうアーサーを置いていくことなんてできない。
「早く走ってって言ってるでしょ!!」
頭の奥がチリチリとした。足りない。力が全然足りない!浮遊術でできることなんて、ほんの少し物を浮かせることだけだ。それなのに、こんな何トンもあるような岩をいつまでも支えきれるはずがない。
ふいに、杖を握るわたしの手に、アーサーの手が重なった。
血でにちゃにちゃとぬめる手が、わたしの手を覆う。
驚いてアーサーをみれば、青ざめた顔をしながら、それでもアーサーが微笑んだ。今まで見ていたような、ただ綺麗で、奇妙に哀しい笑みじゃなかった。どこかすっきりとしたような、やさしい顔をしていて、あ、と思った瞬間、辺りは真っ白な光に包まれた。体中の力が増幅するのを鳥肌を立てて感じる。アーサーの全てが流れ込んでくる。辺りが昼間のように明るくなり、落下が止まっていた地盤がゆっくりと上へ上へと持ち上がっていく。
「ふざけんな!女一人置いて逃げられるかッ!!」
エドワードが手を打ち、錬金術を発動させる。足元が少しぐらついたと思えば、大きな手のひらがわたし達を覆うようにぐんぐんと伸びていく。だけど、いつまでも持つわけじゃない!わたしの手を握るアーサーの手の力が強くなる。
わたしの名前を呼んでくれるみんなの声を、どこか遠くで聞きながら、わたしは声を上げて力を爆発させた。
息ができない。頭の血管がぶち切れそうだ。目の奥がガンガンと熱くなり、魂が震える。体中の神経や、血の巡りが早くなって、色んなものが背後へと、足元へと物凄い勢いで流れていく。限界を突破する。魂が身体ごとどこかに引っ張られるような強い流れを覚え、力がジェットコースターのような勢いになって、どこかへ向かって、何かの壁を、破壊した。
瞬間、世界が爆発するような力を感じた。
落下していた地盤が全て、まき戻しするようにすばやく天井へと戻り始め、辺りは昼間のように明るく照らし出される。
わたしじゃない。アーサーでもない。別の力。
────ああ、ダンブルドア!!!
ダンブルドアが両手を掲げて、全てを持ち上げていく。
嵐の中に放り込まれたような強い力が心地良いほどしっかりと全てを支え始めた。
全てが、真っ白になった。