30
「お前さん、アーサーと一緒に死ぬ気だっただろう」
目覚めて一番に、ダンブルドアがそう言った。
見覚えがあるベッドに寝かされている。そうだ、ここは軍の救護室だった。ダンブルドアは、パイプ椅子に腰かけて、わたしの額をそっと撫でた。ダンブルドアがパイプ椅子。なんて似合わないんだろう、と内心で笑って、だけど諦めるように、わたしはただ、頷いた。
アーサーが握っていた手を、ゆっくりブランケットの中から出せば、アーサーの血が黒くこびりついていた。
アーサーと一緒に、わたしは死んでしまいたかった。
救護室へと戻れば、夢子はすっかり起き上がっていた。
隣でハボックがひどく安堵したように息を吐き、私もすっかり安心している自分に気がつく。そういえば、私は一体いつ頃から、この夢子という少女を“事件の関係者”ではなく、一人の人間として見ていたのだろうか。初めこそ、顔で笑みを浮かべ、腹の底では彼女の一挙動一挙動をしたたかに観察し、計算していたというのに、一体いつから…。だがすぐにそれを好ましい感情だと思い、私は心の底から夢子の無事を安堵した。よかった。本当に、よかった。
一体、どれほどの時間生やせばそうなるんだろうか、というような銀色の立派な髭を蓄えた魔法使いは、そっと夢子の背中を撫でた。
「ワシは、この、夢子の通うホグワーツ魔法魔術学校の校長をしておるアルバス・ダンブルドアだ」
「私はアメストリス国国軍大佐、ロイ・マスタングです」
手を差し出せば、彼は快く私の手を握った。
大きく、長い指は節が目立ち、私は一体この人物が何年生きているのかと考えようとしたが、しかし恐らく私には彼の何事も分からないだろう。だが、彼が好ましい人物であるという事は、彼の目をみれば分かった。輝くようにキラキラとした誠実な青い瞳が、皺の中から覗いている。そして何より、彼の傍にいる夢子がひどくほっとした様子である事に間違いはなかった。そのダンブルドアが、そっと夢子へと目線をやった。
「全てを、説明しなくてはならないな」
夢子はこくりと頷き、やがて顔を上げた。その目は真っ直ぐで、いつもの、私の好む夢子の目だった。
「わたしが生まれた町は──……」
わたしの知っている、隠していた全てを話し終えた。
ジャンはわたしを指差し、「じゅ、19歳!?その顔で!?」と失礼な驚きを見せていたが、わたしはただ苦笑した。隣でダンブルドアがちょっとわたしを睨んでいる。マグル相手に秘密を守ろうとしたことはともかく、なぁんで年齢まで誤魔化す必要があったのか、という目だ。ごめんなさい、と謝ると、ジャンはガシガシと自分の頭を掻いて溜息を漏らした。
「んまぁ…その、こっちも謝ることがあるんだよな。年齢サバ読み位はチャラになるようなのが」
そして途端に居心地の悪そうな顔でそっぽを向いた大佐さんの肘をつつく。なんかあったっけ?
大佐さんが咳払いをする。
「実は、君の部屋には盗聴器を仕掛けてあった」
「は?……はい!!??」
一瞬大佐さんがなんて言ったのか分からなかったけど、マッハで脳内翻訳がカチャカチャピーン!と働く。盗、聴、器!?じゃ、じゃあわたしの鼻歌とか寝言とか馬鹿な独り言とかそもそも呪文の練習とかぜーんぶ筒抜け?うわああ!と頭を抱えてベッドに突っ伏すわたしに、ジャンがすまなさそうに手を置く。
「……じゃあ、わたしって相当変な子に思われてたんじゃ…」
「………実を言うとその通りだ。オカルトマニアのちょっと変な子だと思っていた」
ずーん、と更に落ち込むわたしに、ジャンがとことん同情したように背中を撫でる。そうか、変な子だと思われていたのか。
ふいに自分の手のひらが目に入る。アーサーの血がこびりついている。
わたしの手を覗き込んだジャンが、少し悲しそうな顔をして、そっと上から手を握ってくれた。ジャンは仕事をしただけだ。ジャンは悪くない。ただ、ジャンの暖かくて大きな手は、アーサーの冷たい手とはまるで違った。それが、嬉しくて、哀しかった。アーサーは、わたしにずっと、「たすけて」って、言っていたのに、わたしは何もできなかった。それなのに、最後にはアーサーがわたし達を助けてくれた。
それなのに……
「わたしは……アーサーを救えなかった……」
奥歯を噛み締めて、自分の中にアーサーの魂が欠片でも残っていないか探してみるけれど、思い出すアーサーは全てただの記憶だった。漠然として、ふわふわとしたアーサーと一体化していた時間の魂の連動は、もう何も感じられなかった。さっきまで、この肉体と魂にアーサーがいたのに、今はその残り香のような気配しか残っていなくて、もどかしくてたまらない。校長先生がそっとわたしの頭を抱き寄せる。わたしは自分の無力さに泣き出しそうになるのを堪える。
「だが、だからと言って、アーサーと死んでしまう事が彼の救いになるわけではないぞ」
わたしは、何も答えられず、ただ俯いた。
手のひらにはまだアーサーの血がこびりついている。
だけど、もうわたしの中のどこにもアーサーはいない。アーサーの魂がわたしから離れていったとき、わたしはまるでこの世界でひとりぼっちになってしまったような、自分の中の何か大切なものを喪失してしまったような、そんなとんでもなく大きな気持ちでの痛みと恐怖を覚えた。心細さを感じた。ずっと、寄り添っていきていた何かを失ってしまったような喪失感。彼はずっと何も持っていなかった。誇大妄想と現実逃避の中で、ただ、この世界で自分の居場所を探してた。「生きていてもいいよ」、と言ってくれる誰かを探していた。この世界が彼の安息の地であると、彼は信じていた。わたしがあの石盤を持ち上げたのは、使命感とか、ヒロイズムでは決してなかった。ただ、終わりにしてしまおうと思ったのかもしれない。
「校長先生、アーサーは、ただ、自分の居場所を探してた…。それはホグワーツでもない、どこかだった」
ダンブルドアはわたしのベッドにそっと腰掛けて、わたしの頭を撫でた。
「アーサーは、この世界へやってきた。もちろん最初は仕事だった。だがすぐにこの世界を自分の王国にする事を考えた。それで、魔法界との繋がりを絶つため、あのフラメル教会へと火を放った。そして、完全に繋がりを消すため、彼自身が保険のために置いておいた彼の私物をこの世界に呼んだ。それが、お前さんの見つけた手帳だ。それに引っ張られて、お前さんはここに来てしまった。だが入り口は、アーサーによって閉ざされ、我々がいくら探しても、お前さんは見つからなかった。しかし、お前さんとアーサーがあの地下で一緒に魔法を使った。あの時、何かを突破したような感覚はなかったかね?」
あった…。
意識がジェットコースターのように速く早く流れて、何かの壁にぶつかって、壁を破ったような感覚がした。そうしたら、ダンブルドアがもうそこにいて、わたし達を助けてくれた…。頷くわたしに、ダンブルドアも頷いてみせた。
「アーサーの張った結界が破れたのさ。そして、我々がここに駆けつけることができた」
「我々?」
大佐さんが聞き返し、ダンブルドアは大佐さんに向かって頷いた。
「そう、我々じゃ。この世界で起こった事件は、全て我々の世界の人間が犯してしまったこと。事件を解決するために尽力をつくしてくれたお前さん達には悪い事をするが、我々はこの世界の全ての時間を元に戻し、“なかった事”にしなくてはならない。アーサーが働いていたサーカスでは、あまりに多くのマグルに魔法を見られてしまったし、彼は多くの人間の人生を、生死そのものを変えてしまった。死ぬはずのなかった人間を殺し、多くの女性と、その家族の人生をめちゃくちゃにした。ワシらの世界の魔法省という政府の魔法事故惨事部が動き出しておる。すべてを“なかった事”にするために」
それを聞いてわたしは慌てた。
「じゃ、じゃあ、みんなの記憶から、わたしは消えてしまうんですか?」
部屋が、ざわついた。
「ちょ、ちょっと良いっすか?ってぇことはアレっすよね、時間を元に戻すっつう事は、忘れるとか忘れないとか以前に、俺達は夢子と出会ったという事実すら消えるっつうことだから…」
「つまり忘却ではなく、夢子という少女がこの世界から消える、という事ですか?」
混乱するように喋っていたジャンから言葉を掬っていくようにして、大佐さんがシンプルにまとめる。つまり、そういう事だ。わたしもダンブルドアも顔を見合わせて、ただ頷いた。忘れられてしまうなら、またいつか思い出してもらえるかもしれない。でも、わたしは消えてしまう!みんなの中からわたしなんていなくなってしまう!だけど、それしか道はなかった。
アーサーはあまりに多くの事を変えてしまった。
元々、混ざることのない世界を混ぜてしまった。それはみんなにも分かっていた。部屋には重い沈黙が広がる。
「これから、夢子にはまだ学校での日々が残っている。だが夢子、お前さんが望むのなら、お前さん一人をこの世界に残していく事だってできる。しかし残らなければ、皆の中からお前さんの存在は消える。哀しいことではない。元々の場所へ帰り、無になるだけじゃ。さぁ、選びなさい」
顔を上げた。
みんなは心配そうな顔をしている。大好きだ。みんなのことが大好きだ。すっかり、大好きになってしまった。もう初めっから好きだったかもしれない。ずっと一緒にいたい。だけど、アーサーに着いて行くのを決めたのは、元の世界に帰るためだ。でも、みんなの中から消えてしまうなんて、考えてもいなかった。怖い。悲しい。苦しい。
だけど、わたしには、わたしの人生が待っている。
「わたしは……」
忘れてしまうのなら、仕方が無いのかもしれない。だけど、“なかった事”になってしまうのは、なんて残酷な事なんだろう。
「わたしは、帰らなきゃ」
そう呟いたとき、じわりと涙が込み上げた。
涙だ、と思ったはたから、首筋が熱くなって、鼻の奥が痛くなって、口が「へ」の字にゆがんで、景色が、ゆがんで。うぇ、と泣き出したわたしを、みんなが抱き締めてくれたり、頭を撫でてくれたり、手を握ってくれた。帰らなくっちゃ。わたしは、帰らなくっちゃ。わたしは、まだまだ勉強しなくっちゃ。たくさん、勉強しなくっちゃ。日本には、家族がいる。すべてを捨てることなんてできない。しちゃいけない。中途半端なままで、自分の世界から逃げちゃいけない。わたしは、きちんと、自分の時間へ、世界へ帰らなくっちゃ。
ここは、ニルヴァーナじゃない。
ここは、またちがう現実の世界。
生きている世界。
わたしのいない世界。
「ごめんなさい」
「ありがとう」
「ありがとう」
わたしは大佐さんやジャンやリザさんの胸にしがみ付いて、泣いた。
わあわあと子供丸出しで泣いた。泣いているうちに、時計の針がゆっくりと、そしてだんだん早く、逆周りを始めた。あっ、と思う間もなく、わたしの腕から大佐さんやジャンやリザさんが引き剥がされていく。ああっ!と伸ばす手の先を、驚きに目を見開いた大佐さんの指が掠めていく。そうして景色がぐるぐると猛スピードで逆再生されていき、もう何がなんだか分からなくなったとき、ダンブルドアがわたしの肩を抱きかかえて、立ち上がる。景色が物凄い速さでわたし達の脇を通り抜けていく。消えていく。腕の中から全てがするりと遠くへ流れ、そして消えていく。わたしは唸るように声を上げて泣く。
『あなたさえよければその世話を手伝ってさえくれれば、それでもうあなたが私の家に住むことについて心配はいらないのよ』
『でもじゃねえだろッ!もっと自分を大事にしろ!周りの大人を頼れッ!』
『夢子さんって本当に女の子だったんだね』
『エドワード・エルリックだ。よろしく』
『信じるとも。君は可愛い魔女さんだ』
大切な言葉や思い出や、何気ない一瞬が、頭の中や、嵐のように巻き戻っていく景色の中で聞こえる。一緒にパフェを食べた。お掃除をした。サンドイッチを食べながら、一緒に歩いた。一緒に暗い教会へと乗り込んだ。たくさん、たくさん頭を撫でてくれた。出会ったばかりの男についていくと言ったわたしを心の底から心配してくれた。叱ってくれた。
好きだった。大好きだった。今、こうしている瞬間でも、どんどん大好きになっていく。
なのに、消えていく!!もう何も残らない!!!
膝から崩れ落ちそうになるわたしを、ダンブルドアが強い力で支えた。すると、景色は光り輝き、真っ白になった。
そして、校長室に、わたし達は立っていた。