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「容体はどうだ?」


夢子のファッション誌を捲りながら、エルヴィンはリヴァイに言葉を向けた。

リヴァイは「どうだろうな」と答えて自分のカップに口をつけた。中にはコーヒーが入っている。貴重なコーヒーだ。人類が壁の中に閉じこもるようになった時、壁までの長い旅を耐え、商人が奴隷を使って持ち込んだものが栽培されているもの。王都は独占禁止をしているが、それでもその商人の末裔による事実上の独占が約束されたようなものだった。競争相手のいない商売だ。この慢性的な食糧難にあって嗜好品の値は上がるばかり。コーヒーは一般的ではなく、ある一定の地位と所得があるものにだけ許される嗜好品となっている。普段はさして贅沢や嗜好品を好む気質ではないリヴァイだったが、過去にエルヴィンに影響されたコーヒーだけは習慣として飲むようになっていた。こんなものの一体何が旨いんだか、と思った事もあったがそんな事はもう思い出せないほど昔のことだった。

「医者のことはわからん。ただ人種が違うから、薬の量を調整して経過を見るらしい。動物実験の最中ってとこだな」
「ハイドニクが言うには彼の出した物にはほとんど手をつけなかったらしい。痛んだ物も出していないし、彼も同じものを食べたという。もちろんこちらにしても同じ事が言えるが、当然我々に影響はない。その″人種の違い“とやらが彼女の食事に影響しているのだろうか。種族が違えば体質も違うという事だろうか」


エルヴィンの言葉に「俺が知るか」と答えかけて、ふとリヴァイは思い出す。水だ。
夢子は自分の持ってきた水を口にしようとはしなかった。一口飲んでから、慌てたように顔をのけぞらせて水を拒否した。それまで出された食事は、彼女の食べなれたものではなかったようだがそれでも大人しく食べていた。しかし体調を壊してから、途端に水を拒否した。まるで彼女自身、食事に原因があるとはっきり分かっているようだったし、そしてその改善をどうするべきなのか知っているようだった。あんな小娘に医学の心得があるとも思えない。だがしかし…とリヴァイは思う。


エルヴィンが手にしている雑誌。
そして机の上に並べられた夢子の持ち物の数々。
まるで見たことのないものばかり。そして雑誌に写っている品々も、風景も、見たことのないもので溢れている。そこが壁外であることは間違いないのに、水着を着て笑っている女たちの顔に恐怖はない。そして雑誌のどこにも巨人に関するなんらかの情報がなさそうである。それらの品々が明らかに自分たちの文明のはるか先を行く技術によって作られたものだということは明らかだった。あの娘から貴族の人間特有のよく言えば気品、悪く言えば傲慢なものは感じない。同じ人種であったのならばどこにでもいる小娘のようだ。そんな小娘が持っているのだから、恐らくそう珍しいものでもないのかもしれない。そういった品が庶民の手に行き渡っているのだ。多少の医学の心得らしきものが生活の知識として分布していてもおかしくはないのかもしれない。

「水を、飲まないんだ」

ん?と顔を上げたエルヴィンに、リヴァイは夢子が水をどのようにして飲もうとしたのかを伝えるとエルヴィンは少しだけ眉を寄せる。水を沸騰させ、砂糖と塩を混ぜて飲む?水への味付けということだろうか?それならばレモンを絞ったりハーブを入れたりするなどもっと効果的な方法があるに違いない。水と砂糖、その意味は?

しかしそれは夢子がここで自発的に行動し、自己主張をした最初のことだった。無視はできない。

「もしこれから先も彼女が自分で食事や生活の方法について主張する事があれば一度やらせてみなさい。そしてそれをハンジに記録させ、データを取ろう。言葉が通じないんだ。まずは観察をし、彼女の生活習慣、食生活、生活様式を記録していく。無駄ではないはずだ」

リヴァイは、夢子の教科書を手に取った。
雑誌とは違い、写真はなく、ただ何かの図解のようなものが書かれているだけ。小説ではなさそうだった。何かの専門書かもしれない、と思いながらページを捲る。いくらか簡略化された植物らしいものが書かれている。やはり専門書かもしれない。人類が壁外にいた頃、書物は男のものだったという。文字の読み書きができる割合は男が圧倒的に多く、そしてそれはごく一部のこと。しかし人類が壁内へと後退し、この壁の中で飼われる存在となった今、娯楽に乏しい庶民の女の間でも読書は安価な娯楽として流行している。壁外に人類があった頃よりも人類は文字を渇望していた。狭い世界。飽和する情報。娯楽と革新に飢えた人類はどんな事だって新しいことを知りたがったが、読むものといえば男女の恋愛だの詩だのの類が多く、夢子の持っているような専門書を読む女はそう多くなかった。エルヴィンもまた、雑誌をぱらぱらとめくりながら、夢子について考えずにはいられなかった。

さきほど見た専門書。
若い女のものらしい丸文字だの、子供のような他愛もない落書き、文字に引かれたまぶしい色の線を見るに、夢子がこれを使ってなんらかの学習をしていたことは間違いないだろう。あの娘は高度な教育を受けた娘だ。もしも、高度な文明を持つ国が存在するとするなら、その国の教育を受け、知識を持っているというのなら、夢子の今後について大きく影響してくるに違いない。


――――――人類は常に発展を求めている。


「客人扱いも、囚人扱いもしない。まずは彼女の回復。そして事はそれからだ」



静かに言ったエルヴィンの言葉が、一人言でも意気込みでもなく、宣言だった事の意味をリヴァイは理解していた。
エルヴィンが人類のために娘を利用する気でいることは間違いなかった。




あまりよく眠れなかった。

頭の中でいろんな他愛もないことが行ったり来たりして、苦しみの中で半ば気を失うように眠ったかと思えば、夢なのか記憶なのか分からないゆらゆらとした過去の一瞬の風景がぼんやりと暗い部屋の中に浮いていた。本当に、どうでもいい事ばかりを思い出してしまう。給食のカレーが好きだったとか。初めての調理実習のこととか。来週のゼミの飲み会とか。冷蔵庫の中に牛乳が入ったままだとか。体育祭が雨だったとか。本当に、どうでもいいこと。普段はちっとも思い出しもしないこと。そんなことばかりが記憶の底から浮上して、主張して、また沈んでいった。どうでもいいことばかりなのに。

全部、過ぎてしまったことなのに。



木でできた雨戸は、当たり前の現代の窓みたいなきっちりと密閉されたような窓じゃなかった。
うっすらと空いた隙間から細くなった風や、濡れたような朝露の、明け方独特の冷たい空気や青く白み闇が引いていくような白い光が入り込み、朝になったのだと分かった。リヴァイが用意してくれた革袋の水も、口をゆすいだり手を洗ったりした水差しの水ももうすっかりなかった。喉が渇いた。胃液を吐いてばかりいた喉が焼けるように熱くて、頭の奥がくらくらした。まだ夢を見ているみたいだった。


がちゃがちゃと外で重い金属を遠慮がちにいじる音がした。
錠前の鍵でも開けているんだろうか、とぼんやりと暗い部屋を見つめながら思った通り、鍵が開けられ、ドアが開いたらしい。部屋が途端に明るくなり、閉め切っていた部屋に冷たい空気が入り、心地よかった。誰が来たんだろう、とドアの方をぼんやり見て、リヴァイだったことにやっぱりなと思う。リヴァイはドアを閉め、窓の近くに落ちていた燭台を拾ってマッチで火をつけた。ぼうっと明るくなった部屋の中にリヴァイの顔がうっすらと浮かぶ。無表情で、何を考えているのか分からない目に見降ろされながら、わたしも言うべき言葉がなかった。きっとこの人はわたしの面倒でも見る役になったのかもしれない。責任者か、見張りか、きっとそういうものだろう。両手にバケツのような木桶を持ったリヴァイはわたしが起きていたことに驚くこともなく、部屋に入り、うっすらと目を開けるわたしを一瞥すると、何も言わずに水差しに新しく水を入れ、そして木桶に入った水でタオルのような布を濡らし、わたしの額をぬぐった。ひんやりとした水が気持ちよくて、思わず目を閉じて息が漏れる。

「昨日よりは熱は下がったか。ヤブじゃなかったみたいだな」

ぼそっとひとりごとのように言って、リヴァイはそのままわたしの額、首、襟元、と汗を拭ってくれる。
手が鎖骨まで降りてくると、リヴァイは少し考えるように間を置いてから「後で着替えも済ませておけ。汗で服がぬれている。このままだと体が冷える。」とわたしに何かを言って、わたしに見えるように服と水の入った木桶を指さし、足元と枕元に置いた。そっから先は自分でやれって事らしいと理解して頷くとリヴァイも頷いた。


『ありがとう』


リヴァイは怪訝そうな顔をしてから、作業を続ける。
それをぼんやりと見上げながら、自分の口許がわずかに笑っているのに気がついた。言葉が通じたらよかったのに。

リヴァイが口に新しい革袋の口を咥えさせ、ゆっくりと水を流し込む。あ、水だ、と身構えたのも一瞬のことですぐにそれが経口補水液だと気がついて夢中で飲んだ。水と砂糖が溶かしてある。砂糖のざりざりとした感覚がないから、一度湯を沸かしてから作ってくれたものに違いなかった。枕元におかれたオートミールからはわずかに蜂蜜の匂いがした。それにドライフルーツがたくさん入っている。甘い匂いがぼけた鼻にまで届いて、食欲を思い出す。

リヴァイはわたしがオートミールに気がついたことを確認すると、そのまま立ちあがり、何も言わずに部屋を出て行った。


わたしの体調が回復したのは、それから一週間後だった。