3
「それで、あなたは私に下らない紙切れ一枚に従って舞台を中止しろ、と言うのね」
エカテリーナはそのいかにも気の強そうなアーモンド形の瞳を細めて微笑んだ。
この劇団の名実共に「女王」であるエカテリーナ専用の部屋で、エカテリーナは化粧台の前に座って口紅を塗りながら鏡越しにこちらを見て、タチの悪い冗談ね、と喉を鳴らして口角をきゅっと持ち上げる。エカテリーナのブルネットの髪は波打ち、エカテリーナの完璧に美しい楕円を描く額の上をさらりと流れ落ち、エカテリーナはそれをさも鬱陶しそうにかき上げた。挑発的に微笑む瞳は燃えるようで、私は心の底から「素晴らしい女だな」と思った。
しかしエカテリーナの傍で劇団の支配人が可哀想なほどに顔を真っ青にして突っ立っているのを見つけて話を本題に戻すことにする。支配人はひょろりとした夕方の影のように細く長身の男で、いっそ様式美のような古臭い口髭を生やし、いかにも劇団の支配人といったように仕立ての良いモーニングを着込んでいた。エカテリーナ曰く、普段ならば我が物顔で劇場を歩き回って、知識もない舞台のことについてあれこれを指図をして皆に疎まれているとい支配人も、軍から直接突き付けられた「脅迫状」には顔を青くするらしい。
「これまでも嫌がらせや妄信的なファンからの“脅迫”はいくつもありましたよ、えぇ。それでも我々はこのティファニー劇団が設立されて二百三年。一度たりとも脅しに屈せず舞台を成功させてきた事が誇りですよ!」
支配人はようやくそれだけ吐き捨てると、私が差し出していた“脅迫状”をビリビリに破いて捨てた。
後ろでハボックが「あっ」という間抜けな声を出していたが、あれはコピーだから別にどうとでもかまわなかった。ただエカテリーナだけが自分の部屋に紙くずを撒き散らされたのをひどく不快そうに睨んだ。
「しかし今回は軍上層部と議会の人間がターゲットになっているんです。」
「それをおっしゃるなら、この“落下の女王”は、軍の為の舞台ではありませんか!!」
────そう。この舞台『落下の女王』の演目は軍の為に用意されたものだった。
軍がブルジョワ連中を接待するための舞台。
軍の運営費は主に税金から賄われているが、それだけでは捻出しきれぬ部分も多い。特にイシュヴァールを終結させたばかりの軍の金庫は全くの空に近い程に消費しきっていた。しかし国庫も長く続いた戦争のせいで財政難である事には違いない。なにしろ色んな町が焼け、多くの兵が戦死し、民間人も多くの死傷者を出した。それを再建し、復興し、遺族に金を支払うためには莫大な金がかかる。そんな時分に国の復興や市民への助成よりも軍費を優先しては市民感情を煽るにすぎない。そこで軍が考えたのは『個人出資』だった。
あくまで“善意”と”愛国心”によって軍に“募金”するというスタンスの『個人出資』だったが、つまり軍はパトロンを探していたという訳だ。
そのパトロンとは、この国のブルジョワ連中だった。
軍は金を持て余している上流階級から軍費を得ることができる。
上流階級は軍を支援しているという「愛国心」という箔を得ることができる。
お互いの利益とブランドのためにこの『個人出資』は利害が一致することとなった。
そして軍は数年に一度、立派な愛国者である個人出資者に感謝をするための恒例の懇親会を行っていた。
その懇親会が毎回この、アメストリスで最も高級で人気のある、社交界の話題の花形であるティファニー劇団の特別な舞台だ。一般市民は決して拝むことのできない、軍上層部と個人出資者のみを対象とした一夜限りの特別な舞台、というのは「レア」なものを何よりも愛するブルジョワ連中に非常に喜ばれた。この舞台見たさに個人出資者となっている資産家も多いと聞く。
富裕層にとっても、軍にとっても、このティファニー劇団の特別な舞台は何よりも大事なものであり、はなっから中止をする事なんてできやしないのだ。
「もちろん、舞台を中止させようとは考えていません。ただこの劇団に、私の部下何人か秘密裏に潜り込ませ、かつ劇団関係者を護衛させて頂きたいだけですとも」
善良な市民に安心感と信頼を与えるために培った上等な笑みを浮かべてやると、支配人はようやく取り乱していた呼吸を落ち着け、いかにも紳士らしく絹のハンカチで額の汗を拭った。
「そ、その、スパイ、というわけですかな?」
「まさか。軍服でうろうろしていれば犯人に怪しまれ護衛するものもできない、というだけの事ですよ」
「ま…まぁ、それなら…えぇ。我々はただのセントラル市民です。マスタング大佐の指示に従いますとも。」
「それはよかった」
支配人は胸ポケットに乱暴にハンカチを仕舞い込むと、「マネージャーと相談してきましょう」と言い残してエカテリーナの部屋を出て行った。それまで大人しく黙っていたエカテリーナは支配人が出て行ったのを確認すると、まるで気の強くお転婆な少女のような目をした。その瞳は意志の強さに光り輝いている。
「私、たとえ大総統が死んだって舞台をやるつもりよ?」
背後でハボックがぎょっとしたように息を呑んだ。
エカテリーナ・ダーエ、28歳。
このティファニー劇団至上最高のプリマドンナとも呼ばれるオペラ歌手だ。
こなす役柄は女王から娘役、少年、少女、女神、そして時には売春婦役とてやり遂げる幅の広さと、圧倒的な歌唱力とその美貌は、辛口で知られるタブロイド誌の批評家すら黙らせ、跪かせる。そして巷では彼女のプロマイドが飛ぶように売れ、女性たちは彼女の使っている物ならなんでも同じものを欲しがり、上流階級の男は皆、たった一度彼女の前に跪いて、エカテリーナの象牙のように美しい手の甲に口付けすることを夢見ている。
────軍はおろか議会や資産家連中にも顔の利く、まさにこのアメストリスの女王だった。
そんな彼女と親交を持ったのは、いつだったろうか。
まだ私が大佐になりたての頃、軍の将校や士官を集めたパーティーの席だったように思う。
イシュヴァールの英雄などと煽られ、少し顔の知られていた私のことを彼女は知っていたし、私ももちろんエカテリーナの事を知っていた。あの頃のエカテリーナには、今ほどの名声はなかったが、それでも相変わらず美しく「彗星の如く現れた期待の新人」として有名だった。
「あなたがイシュヴァールの英雄さん?私の友達があなたに夢中なのだけど、私にはまだあなたの魅力が分からないの。どうしたら良いかしら?」
愛撫するように美しい声で私の耳元で囁いたエカテリーナからは、イラン・イランの官能的な香りが漂っていて、微笑んだ瞳はシャンデリアの光を受けて濡れたように輝いていた。私は彼女の手を取って、口付けをした。
それが始まりだった。
「エカテリーナ、君にはこのハボック少尉が護衛につく。少々粗野な点は否めないが、私の最も信頼する部下の一人だ。腕も立つし、頑丈だから多少乱暴に扱おうとストレス社会だろうと、任務とあらばやりとげてくれるだろう。劇団と軍への連携にも連絡係が必要だったところだ」
背後からハボックの「聞いてねぇぞ!!!」という声が聞こえてくるようだったが、ハボックは忠実に「でくの坊」を演じて黙っている。しかしエカテリーナは上から下までハボックを眺め、ブティックでバッグを選ぶように品定めをする目をしたが、すぐに冗談じゃない、というように手をひらひらと振った。…まぁ、期待はしていなかったが、エカテリーナのお目がに叶わなかったらしい。しかしエカテリーナの護衛、かつ劇団への諜報には、できる事ならばホークアイ中尉を置きたい所だが、ハボック以外に考えられなかった。彼女が嫌でもハボックを付ける。
「舞台の準備中はすごく神経を使うわ。そんな時に、こんな大きくて粗野な軍人が視界をうろつくんじゃ気が散るの」
そう言って「お分かり?」というように肩をすくめたエカテリーナだったが、すぐに何かを思いついたように微笑んだ。
「小娘をひとり用意できて?」
「小娘?」
「そう、小娘。軍人じゃない若い娘よ。そんな子ならここにはうんと沢山いるし、丁度先週私付きのアシスタントが田舎に帰ったところだったし、軍への連絡係りとかいうスパイが必要なんでしょう?それなら小娘が良いわ。私の護衛はこの金髪の軍人でも構わないから。あなたなら小娘程度、いくらでも用意できるんでしょう?」
背後でハボックが「まさか…」と言ったのを無視して、私は微笑返して頷いた。
「すぐに用意しよう」
「ぷ、プリマドンナの付き人ぉ!?」
わたしの間抜けな声が大佐さんのオフィスに響く。
ただでさえ「掃除のおばちゃん」スタイルのわたしは、上下薄水色のだっさい作業服で、手にはゴム手袋、廊下にはモップとバケツを待たせているような人間だというのに、それがいきなり、アメストリスで一番有名で、一番美人のプリマの付き人をやれってどういう事!?
男子トイレの掃除中に行き成り呼び出されたわたしに、呼び出した本人である大佐さんはにこにことした笑みを浮かべて「夢子。掃除婦は休職しなさい。代わりに私のアルバイトをしてくれないか?」と言い出した。しかも話を聞いてみると脅迫事件に関係しているという…。なるほど。それでさっきから大佐さんの部下の人たちがどたばたと忙しく駆け回っているわけだ、と背後の騒音に納得する。
けれどそれとこれとは話が別。
部活のマネージャーだってやった事のないわたしに、プリマの付き人なんてできる筈がない!しかも軍人と政治家を脅すなんていう脅迫事件に関係しているんだ。わたしが適任じゃない事くらいよぉく分かる。そんな事はコナンかシャーロック・ホームズに任せとけ、と言いたい。
「そうっスよ、大佐。夢子に一体何ができるっつぅんですか。夢子があっんなセクシーボンボンな女の使いっ走りなんてできるわけない!きっと買って来いって言われた口紅の名前だって知りませんよ?ましてや危険な仕事になるかもしれないんですよ?」
「そこはお前が護衛するから大丈夫だろう。…なに、私が欲しいのはパシリではなく連絡係なんだからな」
微妙に引っかかる言い方をしたジャンを睨むも、それが事実だから空しい。
シャネルやディオールなら名前くらいは知ってるけど、この世界の高級ブランドの名前なんて知るはずがない。っていうかそもそもプリマドンナの付き人っていうのが一体何をする仕事なのかも分からない。衣装の準備は衣装係がいるだろうし、お化粧だってメイク係りがいるだろうし…。
「夢子、お前からもとっとと断っちまえ。わざわざ危険な面倒ごとに首突っ込む必要なんかねぇから」
「でも……」
例えわたしに「特殊な力」があるとしても、マグルの犯罪に関して超ど素人であることは大佐さんもよぉく分かっている筈だ。
アーサーの件は、たまたまそれがわたしの世界の領分である「魔法」が関係した犯罪だったからなんとかなった。けれど今回は違う。全て人間が人間に対して行っている脅迫行為で、善良な民間人として生活しているわたしにできる事なんてありはしないに決まっている。
……それでも、大佐さんがわたしをチョイスしてくれたんだから、よっぽどの理由があるに違いない。
なにより、大佐さんに「頼みごと」をされたというのが、本当はたまらなく誇らしくて嬉しかった。そんな重要な役を考えたときに思い浮かんだのがわたしの名前だということが、本当はすごくすごく嬉しかった。大佐さんは「夢子の意志を尊重するよ」とやさしく微笑んで、ジャンは「とっとと断れ」とわたしを急かした。わたしは少し俯いて、深呼吸した。―――腹はもう決まってる。
「わたし、やります。やらせてください!」
なんて綺麗な人なんだろう。
それが、エカテリーナさんに出会ったわたしの率直な感想だった。
エカテリーナさんはウェーブがかったブルネットの髪と、完璧な形に整えられた眉、薄すぎず厚すぎない唇、すっきりと筋の通った鼻筋や、オリーブの肌の色、そして何より意志の強い輝くような瞳に一瞬にしてわたしは吸い込まれた。
ホグワーツにもまるで妖精のように綺麗な子も、ハリウッド女優のように美人な子も何人もいたけれど、彼女の前じゃ一般人になってしまうんじゃないかと思うほど、エカテリーナさんは輝いていた。けれど外見の美しさよりも、彼女の放つ自信に満ち溢れた強さのようなものの輝きにわたしは溜息を漏らした。芸能人を直接見たことだってないわたしだけど、きっと彼らはこの人のような輝きを放っているんだと思った。
そして、エカテリーナさんはわたしを上から下まで眺めると、少し眉を寄せて、けれど優しく微笑んだ。
「ロイったら、本当に驚くほど庶民的な子を連れてきたのね」
エカテリーナ、とたしなめた大佐さんだったけど、わたしはなにも気をつかう必要はないのに、と心底思った。だって、庶民も庶民。ゴールデンタイムにはテレビ見ながらラーメン食べて、大型ショッピングモールで三足千円の靴下買うような、ものっそい庶民のわたしは内心で(いや全く、そのとおりで)と頷いただけなんだもん。
そして、エカテリーナさんを前にして、わたしは「あっ」と思った瞬間、顔が熱くなっていくのを実感した。
だって、エカテリーナさんは大佐さんの顔をみるとすぐに近寄って、その顔を両手で包んで当たり前のようにキスをしたからだ。……な、なんじゃ、そりゃっ!?
大佐さんは迷惑そうとも満足そうとも呆れたとも驚いたとも思えない、あるいは全部混ぜたような表情で咳払いひとつし、また「エカテリーナ」とたしなめるように言ったが、彼女はとても落ち着き払っていた。それだけで、その一瞬だけで、彼女と大佐さんが一体どういう関係なのかはっきりと分かって、わたしはなぜか驚いている自分を悟られたくなくて二人から視線をそらした。
「エカテリーナ、彼女は夢子・山田。うちで掃除婦をしてくれている民間人だ。」
「そう、軍から遠からずとも近からず。あなたのテリトリーの子なのね」
エカテリーナさんは何か重大な意味でもあるようにそう言って、テーブルの上に乗せてあった黒い箱を開けた。中には高級百貨店で売っているようなチョコレートがずらっと並んでいる。一体このチョコレートひとつで、ニンジン何本買えるんだろう、と悲しきかな、魔法省から必要最低限ギリギリのお給料しか貰っていない新人社員のわたしは内心で目を丸くする。
「おひとついかが?」
「あ、ありがとうございます」
「そんなに固まらなくて良いのよ。別に取って食いやしないんだもの。それよりほら、このミルクチョコレートがとても上等なのよ。グローテ地方のカカオとノースシティのミルクを使っているの。それにナッツはイルマー産」
エカテリーナさんの言った地名を一生懸命思い出そうとしたけれど、まだアメストリスの地名や都市名がしっかり頭に入っていないことを自覚してしまう。うわーっ、勉強しなくっちゃいけない事だらけ!!
薦められるがままにミルクチョコレートを食べる。コンビニじゃ絶対に売っていないような濃厚なカカオが溶け出す中に、乾いたナッツが香ばしい。あ、おいしい、と食べたわたしにエカテリーナさんは満足そうに微笑む。
「それじゃあ、あなたにはこの隣の部屋をあげるわ。舞台が始まれば泊まりこむ事もあるから、私の楽屋はコネクティングルームになっていて、そっちが付き人の部屋なのよ。家から必要なものを持ち込んで生活なさい。ちょっと部屋を見てきたらどう?」
それが「提案」ではなく「命令」だということくらいはわたしにも分かったので、わたしは勤めて嬉しそうに「はい」と返事をして、その命令に従った。エカテリーナさんの言ったとおり、彼女の「楽屋」というには豪華すぎる部屋の向こうには、六畳ほどの小さな部屋があり、彼女の部屋のような豪奢さはなくともセンスの良いクリーム色の壁紙や、赤茶けたカーペット、フルーツの描かれた静物画のかかった部屋に簡素なベッドが置かれている。奥は小さなユニットバスとトイレ。それにクローゼットとちょっとした書き物のできるような机と椅子も置いてあったけれど、何よりわたしを安堵させたのは暖炉があった事だった。
暖炉は中に立てるほど大きくはないけれど、インテリアとして形だけの暖炉でなく、きちんとした暖房器具としての暖炉で、フルーパウダーは使えなくてもここから連絡を取り合うことにくらいは使えそうだった。何日も泊まりこむ事になるようなので安心する。これで魔法省にも音信不通にならなくて済みそう。
とりあえず、持ち込むものは着替えと歯ブラシと…と考えながらドアに近づくと、エカテリーナさんと大佐さんが話している声が聞こえて立ち止まる。
「分かっていると思うが、彼女に危険な事をさせるつもりはない」
「じゃあ私が危険な目に合うのは良いって事ね?」
「そうは言ってないだろう?」
「でもそう聞こえるわ。だって私は危険に晒されているわけでしょう?その頭のおかしい犯人の矛先が軍人と議員じゃなく、いつこの劇団に向かうか知れないわ。そして標的になるのなら、プリマドンナを務める私じゃないの?」
「それは軍が全面的に安全を保障する」
「…もういいわ。帰って頂戴。まだやらなくっちゃいけない事が山ほどあるのよ」
エカテリーナさんの声には、さっきの輝くような美しさはなかった。
まるで百年も生きた魔女のように、疲れと諦めの入った声で、わたしは鼻白む。
わたしは「他人」だから、彼女はわたしに彼女の「美しい顔」を見せていたけれど、大佐さんはエカテリーナさんにとって「他人」じゃないんだ…。――――大佐さんには、エカテリーナさんという女性がいたんだな。
静かに諍いあう二人だけれど、その口調にはどこか親密を感じてわたしはこんな時なのにそんな事を思ってしまう。確かに、大佐さんのように地位も名誉もあって、容姿にも恵まれた男の人には、エカテリーナさんのような女性がよく似合う。
二人が並んで歩いている様なんて、まるで映画のワンシーンのようだった。
ハボックを待たせた公用車に乗り込んで、夢子を連れていないことに怪訝そうな顔をしたハボックを無視して溜息を漏らす。
……夢子が承諾してくれたのには、非常に助かった。
民間人の若い女性の知り合いなどはいくらでもいるが、軍のことに関する件で依頼できるような子はそうはいない。けれど彼女なら、多少はこちらの事情に融通は利くだろうし、なによりただの少女ではない。いざとなれば自分の身は守れるだろう。何より、夢子を危険に晒す気もなければ、前回のようなアクションシーンをさせる気もない。
そもそも、腹のうちのどこかで、彼女が「NO」と言わないことを分かっていた。
彼女は私の頼みでなくとも、誰かに物を頼まれれば「NO」とは言えない性質の持ち主だということ程度の事は軍人でなくとも大人なら皆分かることだろう。それを察しているからハボックも夢子に断るように促していた。
あのとき、「本当に良いのかね?」と形ばかりの確認を取った私に、夢子はとても誇らしそうに頷いた。
まるで子供が親から些細なお使いを頼まれただけなのに、それを何かとても立派で大切な事を頼まれた時のような嬉しそうな顔で、夢子に依頼した事を後悔した。夢子は二十歳になったという。
それでもまだ子供のような顔つきで、この社会の事を疑うこともなければ世間を拗ねたところもない。あの年頃の若者によくあるように、「こんなもんだ」と無意味に達観したようなところもない。だからハボックなどは世話を焼かずにはいられないのだろう。
「ずるい大人だな、私は」
「自覚があるだけマシでしょう」
ハボックの間髪入れぬ突込みにむっとするが、ハボックはしれっとして車を軍へと向けてアクセルを踏んだ。
「公的治安や道徳心、女性の貞操についてを重視する活動家や宗教家、組織をいくつかリストアップしてみましたが、どれも動機としては不十分です」
オフィスへと戻れば短い時間であったにも関わらず、ホークアイ中尉が組織に人間の経歴から写真まで入った完璧なリストの作成を終わらせていた。ざっと目を通し、どいつもこいつもリーダーが刑務所にあり活動停止状態にあるものや、組織間のいざこざで新しく「仕事」を始められそうな連中はいなかった。恐らくこの中に目ぼしい人間はいない。ホークアイ中尉もそには同意しているらしく、フォッカー中将とハインケル議員についての資料を差し出した。
ウィルヘルム・フォッカー中将 (58歳)
代々軍人の家系に生まれる。
軍人のエリート教育を施す幼年学校、高等学校、陸軍大学を卒業した後、少尉として陸軍に就任。
彼の戦術スタイルには、華やかさや目立つものはないが、確実、着実に敵を殲滅する生真面目さと正確さで「虱潰しのフォッカー」とあだ名され、着実に地位を上げる。特に銃火器の扱いに優れている。
イシュヴァールでは、東部のゲリン市でイシュバール人殲滅に戦果を挙げ、中将に就任。
現在は前線を退き、セントラルにて新兵の育成に力を入れる。
アルベルト・ハインケル (57歳)
ゲリン市出身の共和党議員。
自身の政治家としての公約である「軍と民間の共存。相互協力」は、民間タブロイド誌から「軍との蜜月。軍の後ろ盾がなくては座れぬ議員席」と批判されるほど軍部寄りであったが、その公約通り軍で使用する鉄帽からレーション(戦闘食料)、軍服、歯ブラシから靴下、スプーンに至るまで民間委託を実現させる。これにより地方工場の景気が12パーセント上昇し、失業率を4パーセント降下させた実績は大きく、地元の支持により中央議会に出馬し当選。現在はセントラル議会で共和党議員として活動中。
それが二人の大まかな経歴であった。
「内戦中、ハインケル議員が地元であるゲリンで市議会員をしていた頃と、フォッカー中将がゲリンに駐在していた時期が丁度一致しています」
そう告げたホークアイ中尉の言葉に奥歯を噛み締める。……イシュヴァール関係か。
あの内戦が現在に至るまで与えた怨恨を考えると、真の意味で内戦が終結したとは言えぬ現状に眉を寄せる。この書類には「イシュヴァール人殲滅に効果を上げる」と簡単に書かれている。ただそれだけだ。
「ゲリン出身のテロリストや前科者、組織をリストアップしてくれ」
「はい」
嫌な案件になりそうだ、と思った。