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「ヴィヨンで黒いシルクの手袋を」
「エルンストの店へフランボワーズを」
「衣装係りのエレナにすぐ来るように伝えて」
「ちょっと、化粧室の花が枯れそうよ」

「アイ マムッ!!!」



一度エカテリーナさんがその完璧に美しい唇を開けばわたしはすぐに劇場を飛び出し、日本で言うなら銀座のような高級ブティックへ飛込み、胸につけられたティファニー劇団の金バッジを見せて「黒いシルクの手袋を!」と叫ぶ。するともう店のお姉さまたちはそれまでの仕事全てを放り出して慌てて黒いシルクの手袋を用意し、わたしはそれを受け取って走り出す。料金は全て後から劇団に請求される。そして黒いシルクの手袋はたちまち誰かが「あのエカテリーナが愛用しているもの」と噂して、あっという間に品薄の超人気商品になり、そして高級ブティックから姿を消して、庶民の店舗にも黒いシルクのパクリ商品が出回り、すぐさま流行の最先端となる。「風が吹けば桶屋が儲かる」なんて格言があるけれど、まさに「エカテリーナが望めば流行が変わる」といった具合にセントラルの経済状況が一瞬にして目に見える。


そして大荷物抱えて劇団に帰り着いたわたしを一瞥もせずにエカテリーナさんは「やっぱりさっきの手袋はいらないわ」とあっさりベッドの上に放り出してしまう。
エカテリーナさんが舞台で着る衣装の採寸をしている衣装係りのエレナという美女が可哀想なものを見る目で眉を下げて、へたり込むわたしを見るけれど仕事はこれでおしまいじゃない。次はエカテリーナさんのヒールを磨いて、ハンカチにアイロンを掛けて香水を焚き染めなくっちゃいけない。わたしの腕にはみっちりと今後のスケジュールが書き加えられ、すっかり真っ黒だ。



ああ!!安請け合いするんじゃなかった!!!













大佐さんが去ってからすぐにわたしの仕事は与えられた。
エカテリーナさんに携わるスタッフの人の顔と名前が一致しないうちから使いっ走りの仕事は始まり、わけもわからないうちに町や劇団を行ったり来たりと走り回って、わたしのやる気はすっかり粉々に砕けてしまう。



エカテリーナさんの舞台で履く靴からプライベートの靴まで色んな靴が納められた靴だけの衣装部屋に入り込んで、その数に圧倒される。これは学校の下駄箱か、と言いたい。まさに売るほど並んだ靴にわたしは大きな溜息ひとつ漏らし「こりゃぁもう仕方あるまい」とポケットから杖を取り出す。呪文と共に杖を振れば、まるで溜まった埃を吹き消すかのように風が舞い起こり、そのまま大人しくゴミ箱へと塵は収まり、靴はピカピカに輝く。


靴磨きにかかるであろう時間を短縮できたわたしは、靴部屋をこっそり抜け出し、劇場へと足を運ぶ。
客席の一番後ろから舞台を見れば、舞台まであと二週間と迫った舞台の上では大道具の人たちが大きな城を動かしたり、コーラスガールが歌を歌ったり、逞しい身体のダンサーたちがバレエを踊ったりと各々自分たちの仕事の確認を行っている。すごいな、こりゃ…。
この人たちの仕事量に比べれば、「お使い」なんて大したもんじゃないことをよぉく知って少し反省する。



「そこで何してるんだ?」



突然掛けられた声に驚いて振り返ると、浅黒い肌をした体格の良い若い男の人が不審者を見るような目でわたしを睨んでいて、わたしは慌てて弁明しようとしたけれど、彼はすぐにわたしの胸に輝くティファニーの金バッジを見つけて「なんだ、エカテリーナの使いか」と溜息を漏らした。



「あの、エカテリーナさんの新しい付き人の夢子・山田です」
「俺は大道具の グレゴリー・ハサウェイ。グレッグって呼んでくれ」
グレッグの大きな手はジャンとはまた違った厚みのある手で、握ればその手のひらにしっかりとついた肉刺や筋肉に少し驚く。けれどわたしよりもグレッグの方がわたしを見て上から下まで眺めると意外そうな顔で顎を撫でた。



「前の付き人に比べて随分餓鬼がついたんだな」
どうも何も聞かされていないらしい。
軍を通して派遣されてきたということを説明するのは得策でないような気がして、日本人お得意の愛想笑いでごまかす。



「前の人はどんな方だったんですか?…エカテリーナさんがクビにしたって聞きましたけど…」
「女王サマの付き人っていやぁ女王付の侍女だからな。俺ら“もぐら”ン所にゃ顔出さねぇが上等の美人だったな。」
「もぐら?」
「なんだ、そんな事も知らねぇのか。どっから拾われてきたんだ、お前は?もぐらってのは俺たち裏方の人間の事さ。特にうちみたいに舞台の地下へ潜って歯車だ装置だいじってるようなのを“もぐら”だの”穴熊”だの役者連中は呼ぶのさ。コーラスガールなんかは俺たちモグラには目もくれねぇで、パトロンのブルジョワ連中に腰振ってるさ。ったく、誰が舞台動かしてやってるか知らないで。……あ、でもエカテリーナは違うな」
舞台で踊るまるで妖精が一ダースも集まったような華やかなコーラスガール達をどこか飽きれたように睨んだグレッグだったけれど、エカテリーナさんの名前を出した途端に表情がほころび、どこか誇らし気な顔をして、わたしは「おや?」と思った。





「アンタがエカテリーナの付き人だから胡麻摺る訳じゃねぇが、エカテリーナは尊敬に値する女だよ」



グレッグの表情は本当に誇らしそうで、舞台を見つめる瞳はそこにはいないエカテリーナさんを映している。エカテリーナさんを「美しい女」でも「歌のうまい女」でもなく、「尊敬に値する女」と言ったグレッグの言葉の意味を知ろうとグレッグを見上げるわたしの視線に気づいたのか、グレッグは少し照れ臭そうに咳払いをして、エカテリーナさんにまつわる話を始めた。







エカテリーナさんは、最初この劇団にダンサーとして入ってきた。
プリマドンナやコーラスガールの後ろで踊る人だ。歌なんてまるで関係ない。それにエカテリーナよりも美人なダンサーもコーラスガールも役者もいくらでもいた。それなのに、何故だかエカテリーナは誰とも違った雰囲気があった。グレッグはその時に、「こいつは大物になる」と感じたという。こうしてエカテリーナが大物どころかセントラルの女王としての人気を得ている今になっては公言するのも恥ずかしいことだけど、グレッグは確かにそう感じた。華やかな世界の若い女の人たちは、みな、モグラや穴熊と呼ばれる裏方をどこか馬鹿にしたような、見下したような所があった。ボーイフレンドにするのなら、隣を歩かせてあげるのなら、美しい男か、そうでなければお金持ちのパトロンか、と決めてかかっているような所があったし、彼らは彼ら独自のコミュニティに生きている人間だった。


けれどエカテリーナは違う。



積極的に裏方の仕事を見学し、勉強し、話を聞いた。
ダンサーや歌手たちはエカテリーナの行動に首をかしげたけれど、エカテリーナは吸い取り紙のように舞台についての専門的な知識を学び、吸収していき、やがて現場監督よりももっと詳しく正確に舞台全体を理解するようになっていった。そして長年マエストロを勤めたマエストロにも積極的に意見を聞きに行き、ふとした弾みで歌わせてみれば彼女の声は素晴らしかった。ダンスにしても独特のセンスがあったけれど、彼女の歌はまるで魂の底から響くような真に迫った歌声だった。どこか、悲しいまでに切実な迫力があった。
やがてダンサーからコーラスガールへ、そして役者もするようになり、そしてついにはこの劇団のプリマドンナへと上り詰めた。彼女の舞台に対する敬意や尊敬は、プリマドンナになった今でも変わらない。



表舞台の人間と、グレッグのような裏方の人間。
どこか隔たりのあったこの二つのコミュニティを繋ぎ、劇団を本当の意味でひとつにした。





「みんなの誕生日だってちゃんと覚えてるんだから大した女だよ。俺達を家族にしたんだ、あいつは」



グレッグがそう言って微笑む顔は、本当に、心の底からエカテリーナさんを尊敬している笑みだった。


















エカテリーナさんのトイレを自分の手でピカピカに掃除したわたしがエカテリーナさんに「次は何をやったら良いですか?」と尋ねると、台本を眺めていたエカテリーナさんは顔を上げて微笑んだ。


「今日はもういいわ。寝てしまいなさい。明日からまた忙しいのだから」
荷物は夕方に運んできているから、あとは着替えてシャワーを浴びて歯を磨けば寝てしまえる。
だけどエカテリーナさんのタイムスケジュールはこの後台本を読んで、自主稽古と入っている。こりゃ邪魔しないうちに寝てしまおう、と引き下がろうとしたわたしをエカテリーナさんは「ちょっと」と呼びとめた。そしてわたしを手招きし、近寄ったわたしの両手を取ってしげしげと眺める。な、なんだろう?



「夢子、あなたの指はそう長くないから、爪の形を整えなさい。そうすればもっと女性的な指になるから」
「え?」
「そこにお座りなさい」



エカテリーナさんが顎で指したのは、いつもお客さんをもてなすのに使っている一人がけのソファーだった。小花模様がちりばめられたソファーはまるでドールハウスのソファーのように可愛らしい。おずおずとそこに腰掛けると、何か箱を持って現れたエカテリーナさんがわたしに向かい合って座る。そしてわたしの指をまた眺めてから、箱から爪やすりやいくつもの小瓶を取り出す。
「あなたこの爪、ただ短くすれば良いと思って切っていたでしょう?爪がすっかり四角くなっているわ」
「す、すみません」



エカテリーナさんのオリーブの肌をした綺麗な手がわたしのなんてことない手を取ってヤスリを掛けていく。
すると四角い形をしていた爪に柔らかなアーチが現れ始め、確かにそれだけでどこか違った印象になる。エカテリーナさんは鼻歌でも歌うようにリラックスした表情で、まるで料理でも作るような気軽さでわたしの爪の形を整えていく。化粧を落としているのに、彼女の丸い額には知性が、すっと通った鼻筋や濃い眉、そして密集するように生えた睫毛に女性的な柔らかさと強さが見えて、こんな綺麗な人に爪の形を整えてもらっている状況にどぎまぎとする。



「あの、今日グレッグという男の人からエカテリーナさんの事を聞きました」
「何か悪口でも吹き込まれた?」
「まさか!!」
慌てて否定するわたしだったけれど、エカテリーナさんは当然グレッグについてよく知っている。だからそれが他愛もない冗談で、グレッグという男の人が彼女を貶めるようなことを言うはずがないのをよく分かっているようだった。彼の誇らしげな表情や、目の前のエカテリーナさんの何が出てくるのか楽しみにしているような表情で、二人の間にはプロ同士の信頼があるのだと悟る。



「あの人、本当にエカテリーナさんを尊敬しているようでした。エカテリーナさんの事も、舞台の事も、全部にプライドを持っている人でした。…だから、わたし、本当にど素人で、しかもちょっと怠け者で、グレッグのような人や、エカテリーナさんが作るこの舞台を壊すような事があっちゃいけないって、とても怖くなりました」




―――昼間、わたしはズルをした。
エカテリーナさんからの仕事が多くて、人の目がないならいいや、と魔法で靴を磨いた。軍で掃除のおばちゃんやってるときは絶対にしないことをここではした。疲れたから、人の目がないから、と理由をつけて自分のするべき仕事を怠った。たまたまわたしに魔法の力があったから魔法で磨いたけれど、もしもそうじゃなかったら、わたしは仕事を放り出していたかもしれない。あの人たちがあんなに一生懸命にしている事を、わたしはズルをした。こんなんじゃここに置いてもらう資格なんてない。
エカテリーナさんはわたしの爪にふっと息を吹きかけて、小瓶の液体を垂らした。液体からはバラの香りがする。



「あなたみたいな素人が入ったくらいでぶち壊されるような脆い劇団じゃないから平気よ」
思い上がらないで頂戴、と顔は爪を見たまま、上目遣いに微笑んだエカテリーナさんは、やっぱり綺麗だった。それは顔立ちじゃなくて、自分の愛しているものに誇りがある強さからの美しさで、わたしは胸が熱くなった。この人は本物だと思った。






「ねぇ、あなたもロイに恋しているの?」



歌うように笑うように呟いたエカテリーナさんの言葉にぎょっとする。
えぇっ、と驚いて手を引っ込めようとしたわたしの手を握ったまま、エカテリーナさんがうふふと肩を揺らして笑えば夜の海のようにウェーブがかった黒髪の毛が肩口から鎖骨へと流れていく。




「セントラルの若い女の子はみんな、イシュヴァールの英雄に恋しているのよ」




顔をあげたエカテリーナさんの唇は満足げに微笑んでいる。
けれど瞳だけは、どこか違った。こちらを試しているような、挑発しているような、誘っているような、あるいは全部混ぜたような目をしている。まるで大佐さんを好きな女の子全てを軽蔑しているような目だった。
「わ、わたしは……わたしはただの清掃スタッフですから。大佐さんとは年も離れているし、わたしなんか相手にされません」
「あら、相手にするとかしないとかじゃないわ。イシュバールの時、新聞に載ったロイの写真や記事を見ただけで女の子たちは彼にラブレターを書いたわ。あの女の子たちはみんな、自分がイシュバールの英雄である彼に選ばれることを夢見ていたわ。今でもロイが街に出れば声を掛ける女の子はいくらでもいるもの」



イシュヴァール…
イシュヴァールについて、わたしはあまり詳しくない。この世界に飛ばされてきたばかりの頃、エドやアルフォンスと一緒に図書館で勉強したときに少し知った程度で、この国に残されている禍根やしがらみ、爪あとのようなものをわたしは何も知らない。戦後六十数年。戦争を経験した親から生まれたわけでもなければ、軍隊すらない日本という国に生まれたわたしにとって、「内乱」というのはとても遠い世界、新聞やテレビの中だけのような遠い言葉だった。
大佐さんがイシュヴァールで活躍したということは、掃除のおばちゃんたちから聞いてうっすら知っているけれど、戦争で「活躍した」という言葉の伴う結果については考えないようにしていた。


だから、わたしは大佐さんのことについて、なにも知らない。





「女の子はみんな誰かに見つけられたいと思っている。取り立てて素晴らしい所があるわけでない自分をひょいっと拾い上げて、愛してくれるような人間を夢見ている。それが女の子の幸せ。そんな少女じみた事を夢見ていられるときが一番幸せよ」



エカテリーナさんはそう言って微笑んだ。
いつの間にかわたしの爪全てに可愛らしい丸いアーチができていて、自分の手なのにどこか女の子らしい指になっていた。