12




「夢子に家庭教師をつける」


そう言いだしたのはエルヴィンだった。
部屋に集められていたのは、あの日、夢子を保護したリヴァイ班やエルヴィン班の面々、調査兵団の幹部一員だった。
リヴァイやハンジ、そして食事の調理を担当した水事班を除けば、まだ夢子との関係の薄い者も多かったが、皆なんらかの形で夢子とは関係していた。彼らは奴隷商人の後を今も追いかけていた。


夢子が食中毒の熱に浮かされている間、夢子には彼女が要求した水を与え、そしてその水で作った料理ばかりを届けさせたが、夢子は抵抗も反抗もすることなく大人しく与えられた食事を続け、倉庫に仮に作られたような居住区からの逃亡も図らないまま、こちらに身を任せているらしかった。それがどういう意図なのかは分からないが、あの娘には捕虜になる屈辱だの、反抗心だのいう不要な矜持を持っていないらしかった。ならば、言葉さえ通じることができれば比較的友好的に外界の情報を得られるだろう。
貴族連中が目をつける前に手中に収めたのは一つの成果だ。


「なるべく兵団の中だけに関係者を絞りたかったが、ハンジの能力にも限界がある。相手は人間の娘だ。専門的な教師が必要となるだろう」
エルヴィンの言葉にハンジは「えーっ」と不平の声を洩らしたが、すぐに「まぁ、兵団の仕事があるし、巨人の生体調査との並行は流石に死ぬ」とすぐに納得したらしかったが、ハンジの納得なしでもエルヴィンが物事を推し進めるだろうことは皆分かり切っていた。
「あるコネクションから貴族の家庭教師をしていたという、言語学者と既に連絡がついている」
「よくそんなのがうちについたね。予算間に合う?」
「失業中だったからうちの安月給にも食いついた」
「…失業中って…」


兵団は金食い虫とも揶揄されるほど、一度の出兵にかかる費用は財政を圧迫している。
その独自の兵器の開発から、戦死者の遺族年金、保険、給料、教育費など金が掛からない場所はない。毎年の予算会議は戦争会議さながらの暴言が飛び交い、どの部署も金をもぎ取る事に必死であり、中でも調査兵団は最大の金食い虫だった。そんな調査兵団に余分な金など一切なかった筈だった。予算問題については、巨人の生体調査に携わるハンジはよく知っていた。が、失業中の元貴族の家庭教師の言語学者?


「なにその胡散臭いやつ…そんなのに夢子を任せて大丈夫ぅ?」
「宗教的な食い違いがあって王政から睨まれている奇人らしいがな」


その奇人を思い出したのか、エルヴィンはわずかに口角を持ち上げて笑った。
王政と対立しているのならば、ある意味安心なのかもしれなかった。カルト的に国家を支配するウォール教の影響も少ないだろう。と、すれば、仮に夢子が外界から来た人類だとしてもその事実に対して感情的になることなく、学者としての本分を全うし、彼女に教育を施してくれる可能性があるとエルヴィンは踏んでいたし、その思惑通りその男はウォール教を批判したことにより宗教者たちからの弾圧を受けて教育現場から追放された人物だという調査を得ていた。その事を説明すれば、ハンジはなるほどねぇ、と苦笑した。いつもながら手際の良いことだった。
彼の発言は「報告」であって、「提案」ではない。
それでも不平不満が起きぬのは、その「報告」が常にベストであり、その結果を信頼しているからだった。


「その変人が安月給で確保できたのは分かった。だがうちにまでお偉方の横やりが飛んでくる事はないだろうな?」
ウォール教はすっかり貴族連中だけでなく政治の分野にまで口出しするほど勢力を伸ばしていた。大人しく壁でも拝んでいればいいものを、と思わずにはいられないが力をつけている中無視することはできない。極秘裏に夢子の存在を調査しようという中、目立つ人間が外部から出入りをし、調査兵団の通常業務にまで影響が出ることをリヴァイは煩わしく思った。


「その点は大丈夫だ。すっかり身持ちを崩してアルコール中毒者一歩手前で、歓楽街で野良犬と酔いつぶれていた人物だからな。教壇へ上ることは禁じられたが、動向を調査されるほど注目はされていない」
「……ねぇ、エルヴィン、まじでそんなのどっから見つけてくんの?」
だから安心してくれ、と満足気に頷いたエルヴィンは意図的にハンジの質問を無視した。


「紹介しよう。入ってくれ。ダリウス教授だ」










エルヴィンと一緒に部屋に入ってきた男に、わたしは眉を寄せる。見たことのない人だ。
ぼさぼさの黒髪に、青白い顔、神経質そうな緑色の目を持った背の高い白人男性。年は30歳くらいだろうか。背筋を伸ばせばエルヴィンくらいありそうなのに、丸くなった猫背のせいで痩せた身体が更に陰気に見える。若い頃はちょっと格好いい顔立ちをしていただろうに、多分、女の子にもてなかっただろうな、と思わずにはいられない。それになんだか酒臭い。
その男は何も言わずにつかつかとわたしに歩み寄ってきたかと思えば、いきなりわたしの頭を、まるでバスケットボールでも掴むみたいに正面から両手で抑えつけた。


『な、なに!?なんなの、この人!』
「ダリウス教授…一体なにを…?」

「エルヴィン団長、来てください。ほら、ここ、この骨を見てください。彼女の頭蓋骨ですよ。眼孔の辺りの骨を触ればよく分かる。我々の眼孔は四角く、周りを縁どるように頭蓋骨が隆起しているが、彼女のものは丸く平の空洞に眼球が沈んでいる。前頭骨がずいぶん平らだ。だからこのように平面的で小さな目をしているのです。子供の頭蓋骨と一緒だ。それに後頭部が随分平だ。おそらくそのせいで顔立ちが浅く、未発達な印象を受けるのでしょうね。私も生きているのは初めてみましたよ。文献では読んだ事があったのですが、あなたが方に没収されて廃棄されてしまった…。いやあれは憲兵団だったかな?私にはあなた達は皆同じに見えますよ。まあ彼女ほど周りと違う顔をしていれば違いも分かるのですがね。口を開けてごらん?ほらね、歯列が随分平だ。まるで草食動物の歯のようですよ」

なにを言っているのかはさっぱり分からないけれど、男はその大きな手でがっしりとわたしの顎と顎のかみ合わせの部分を指で完璧に抑えつけてしまい、口を閉じることもかなわない。歯医者さんみたいに男はわたしの頭を自分のみたいように動かして、歯を覗き込んでは早口でエルヴィンに何かを話始める。無理矢理開かされた口は、無理矢理あくびをしたみたいに鼻の奥が開いて涙が滲む。


「頭蓋骨の付け根から肩に掛けての骨格からの筋肉の付き方も随分違うものですね。脂肪分の質が違うらしい。皮が薄いせいか随分脂肪分がしなやかですね。おそらく身体の柔らかい民族なんじゃないでしょうか。胸骨の発達が内臓の大きさ、容量を決めるのですが…」

男の手が離れたかと思ったら、今度は迷うことなく胸に手が置かれ、下から力いっぱい胸を揉み込まれ、思わず声をあげて男をひっぱたいてしまった。…あ、し、しまった!パーンと乾いた良い音がした。初めて男の人を平手打ちしたっていうのに、わたしの右手は一切のルートを迷うことなくミサイルのように正確に突然現れた男の頬目がけて飛んでいき、我ながら見事なビンタだった。


『うわっ、ご、ごめんなさい!』
まずい!この人もしかしたらお医者さんとかだったかもしれないのに!
ひぇーっ、捕虜みたいな状態でいきなり暴力行為になんて出てしまった!こ、殺される!?


「…今のは君が悪い、ダリウス教授」
「………人種が違っても女性が羞恥を覚える場所が同じだという性文化のひとつは解明されましたね」


後ろで見ていたエルヴィンが溜息を吐いて、わたしに向かって「ダリウス」と言って男を手の平で示した。
そして自分の胸を押さえて「エルヴィン」と言い、また男を「ダリウス」と呼んだ。…ダリウスって名前?

「だりうす…?」
聞き返したわたしにエルヴィンは頷いて、何度か発音を直させた。「だ」と「り」の間にアクセントを置くらしかったけれど、何度か「ダリウス」と呼んだら及第点は貰えたのか諦めたのか、エルヴィンは頷いた。わたしも自分の胸に手を置いて「夢子」と繰り返したら、ダリウスはわたしの名前を分かってくれたらしく「夢子」と答えて頷いた。
そのダリウスはビンタされたことに怒った様子も悪びれた様子なく、夢子、ともう一度繰り返した。


「我々は聖人の名前から名づける事が多いですが、夢子というのはどの章にも神話にも出てこない名前ですね。私の愛蔵書のギリシア神話の書が残っていれば良かったのですが、あれも貴方方に没収されましたからね。あの本一冊で馬が買えるほどの高価なものだったんですけれどね。あ?憲兵団でしたっけ?似ているからどれも一緒に見えるなぁ…」


早口でぼそぼそと喋ったダリウスの言葉にエルヴィンがちょっと溜息を洩らした。
……なに言ってたんだろう?わたしの事かな?



「私の紹介のあと、すぐにそれが名前であると判断して、そして自分の名前を名乗った。多分、状況理解力があるみたいで助かります。言語は違っても知能はあるらしい。ロームルスとレムスの話を知っていますか?人類がこの宇宙の支配者だった頃の伝説で狼に育てられた双子の赤子がその後巨大な帝国を築くのです。私は彼女を見てなんとなくその神話を思い出しましたよ」
「私は君が今までよく処断されずに生きていたか不思議だよ、ダリウス教授。あなたはまるで歩く禁書だ」
「その禁書に手を出すあなた方は、既に共犯者ですよ」

ダリウスの言葉にエルヴィンが息を呑んだように鼻白んだ。
言葉はまるで分らなかったけれど、そんな様子にわたしはなぜか胸がざわざわと震えるのを覚えていた。