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『うわっ、つめた!!!』
降ってきた水の冷たさにぞっとして、あわててユニットバスのバスタブから飛び出して、全裸の体を抱えてうずくまる。
足元のタイルは象牙色のあたたかなアイボリーなのに、タイルもひ〜んやり冷たい。自分の体の体温にしがみつくように震え、早くシャワーからお湯が出るように祈るような気持ちで『うお〜〜さむいいいい』と震える。そういえばホグワーツはともかく、イギリスのモーテルのシャワーもこんな具合だったことを思い出す。一瞬魔法でシャワーをお湯にしようかと思ったけれど、全裸のまま部屋へ行って杖を取ってくるのが面倒で、わたしはそのままうずくまる事にする。
空のバスタブを叩くシャワーの音は雨のように頭上から降ってくる。
そこに手を差し入れれば、ゆっくりではあるけれど、確実に暖かくなり始めていてほっとする。
入浴に対する並々ならぬ情熱を持ち合わせる日本人の一人としては、ユニットバスってだけでちょっと悲しいというのに、すぐにお湯がでないことはもはや悲劇だ。
手に打ち付けるシャワーがすっかり熱くなったことを感じて、ほっと溜息を漏らして立ち上がると、鏡に自分の裸が映っている。持って来たばかりの歯ブラシとコップが置かれた洗面所の鏡に、わたしのどうと言うことのない全裸が映っていてわたしは顔をしかめる。
なんてつまらない体なんだろう…。
昼間、エカテリーナさんの体を見た。
両腕いっぱいにブティックの紙袋をぶら下げ、大きな花束を抱えたわたしが彼女の部屋に入ると、エカテリーナさんは衣装を仕立てている最中だった。ビスチェに身を包んだ彼女の体のなんて綺麗だったこと。
向こうの世界で言うならヒスパニック系なんだろうか。オリーブ色の肌は見るからにセクシーで、ふっくらとした胸ややわらかそうな腕は女のわたしだって触れたくなるほどで、きゅっと締まった腰や、プリッと出たお尻。ビスチェ一枚の姿なのに見せびらかしたくなるほど完璧で、エロティックで、なにより、本当に…綺麗だった。
グラビアアイドルや、ハリウッドスターや、水着や下着のモデルや…色んな女の人の体が街に溢れている21世紀の世界だけれど、誰も彼女のように綺麗な体をしていないんじゃないだろうか。ううん、わたしが今まで関心がなかっただけで、本当は、女の人っていうのはみんな、あんなにふわふわとした素敵な形をしているんだろうか。
爪を見ると、エカテリーナさんが丸く研いで、ちゃんと磨いてくれた指の先だけがまるでわたしの体じゃないようにピカピカに輝く。わたしは本物の魔女だけれど、エカテリーナさんの手はまるで魔法の手だ。わたしの指先だけが、まるで魔法に掛けられたようにとても綺麗。
わたしも、ちゃんと磨いたら綺麗になれるんだろうか?
『そうなれたら良いな』
少し微笑んでバスタブに足を踏み入れ、シャワーを頭からかぶる。
暖かいお湯で毛穴から緊張が溶けていくような気がした。
あぁ…早くシャワーを使って、そして寝てしまおう…。目が覚めたら、もっと素敵な女の子になっていたら良いのに。
「調子はどうかな?」
翌朝、“マスタング大佐”ではなくエカテリーナさんの“プライベートなお客様”として現れた大佐さんは、エカテリーナさんのいない部屋でわたしにそう言った。
大佐として部下を引き連れてやってくると、軍が何かやっているんじゃ…と勘付かれたり噂になったりするのは得策ではない。けれど不幸中の幸いとして、大佐さんは元々エカテリーナさんと“親交”があったので、楽屋や劇場に顔を出しても怪しまれない。それで大佐さんは平気な顔でやってくるけれど、わたしやジャンは身分を偽って劇場に入り込んでいるのだから、大佐さんと親しくしていてはいけなくて、主のいない部屋に大佐さんが足を運んでくれたっていうややこしい事情がある。
が、しかし今のわたしは一生分の誕生日プレゼントなんじゃないかって量の花束や手紙やチョコレートや靴やドレスや香水や化粧品の中に埋もれていた。……みーんなエカテリーナさんの信者からの贈り物だ。
今のわたしに任された作業は、贈り物を開封して贈り主と贈り物をリストにすること。
みんなエカテリーナさんを思ってプレゼントしただろうに、本人が開封すらする事なく、このどこの小娘とも知れないわたしにごく事務的に開封されていったなんて知ったら哀しむだろうに…。
「こっちはもう目が回るような毎日です」
「だろうね。ハボックがそう苦笑していたよ。まるでゼンマイのついたねずみのおもちゃのように走り回っているってね」
「見られてましたか…」
そのようだね、と大佐さんは肩をすくめ、そして大量のプレゼントを広げた床の真ん中に座り込んでいるわたしに「バイト代は弾ませていただこう」と苦笑した。ぜひ、と答えながらわたしはすっかり事務的になった手つきでまた新しいプレゼントを開封する。今度はフェルディンのチョコレート…っと。送り主はアーチャー・ブラウンさん…っと。そう確認するように呟きながらノートにどんどんメモしていく。チョコレートならば箱に店名が印刷されているけれど、花は大変。花の名前もよく知らないから、どれがどれだかさっぱり分からなくなってしまってリストにするのも一苦労だ。そんなことを大佐さんに話せば大佐さんも「花は私の分野ではないからねぇ」と頭をかいた。…そういえば…
「大佐さんは……」
「ん?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「なんだね、気になるから言ってみなさい」
「いや…でも…」
────大佐さんはエカテリーナさんにプレゼントは贈らないんですか、とか、嫉妬しないんですか?
とそんなことを聞こうと思ったけれど、それはプライベートな事すぎると思ってわたしは曖昧に笑ってごまかした。ちょっと聞いてみたかったけれど、わたしは大佐さんの友達でもなければ部下でもないんだから。
けれど大佐さんはわたしの聞きたかった事を察してしまったらしい。
「最初から彼女がどんな世界に住んでいる女性かよく知っているからね」
次のプレゼントから顔を上げると、大佐さんは口角を少し持ち上げて、眉を下げた優しいような自嘲するような笑みをうっすらと浮かべていて、わたしは戸惑った。
大佐さんは近くの椅子を引き寄せて腰掛けて、自嘲をするりと溶かしてやさしい顔になった。
「君にはまだ分からないかもしれないが、大人になるとまた違った形があるんだろう。別に知らなくても良い形だし、君にはふさわしくない形だと思うがね」
確かにわたしは恋愛には疎かったし、ホグワーツでも日本でも目の前の日々でてんやわんやで、ボーイフレンドなんていなかったけれど、それでも言葉としてそれがどんな関係なのかは分かっているつもりだった。「好き」「僕もさ!」「あなたしかいないの!」みたいな形じゃない。割り切った関係。けれどどうしても大佐さんにその言葉を分かっていると知られてはいけない気がして、わたしはまた曖昧にいかにも日本人らしく「はぁ」と答えた。「はぁ」と答えながら「はぁ」と答えなくてはいけないキャラクターになってしまっている自分をどこかもどかしく思った。
大佐さんの前でわたしは「山田夢子」という女ではなく「まだ子供の女の子」でいなくてはいけない事がもどかしくて、「一人の女性」として存在しているエカテリーナさんが何故だかたまらなく羨ましかった。
「本題に戻そう。…エカテリーナと一緒にいて、何か気になることはあったかな?」
大佐さんはさっきまでの「年長者の顔」から今度は「マスタング大佐」の顔に戻った。
大人はたくさんの顔を持っているんだな、とふと思いながら、昨日今日のエカテリーナさんの様子を思い出す。稽古に衣装の採寸に監督と何か相談して、コーラスガールに指導して、演劇雑誌のインタビューに答えて、稽古して、照明係りの人たちと打ち合わせして、稽古して……凄まじい行動量だったけれど、これといって変な部分はなかったような気がする。それを大佐さんに告げると「そうか」と頷き、それから少し考えてからわたしに向き直った。
「君が思うエカテリーナや劇団員について、何か意外に思った事や、変だなと思った事はあるかな?」
「変なこと……うーん…あ、そうだ。あの、事件には関係ないかもしれないんですけど、エカテリーナさん、この沢山のプレゼントのほとんどを寄付するそうなんです。花は楽屋に飾ったりする以外は養護施設や施設の子供たちや図書館なんかに送るそうだし、チョコレートやワインも洋服も貴金属も転売してそのお金を寄付するんです。それでどの贈り物にも贈り物に対する興味はないようなんですけれど、でもずっとパトロンの一人を気にしてて…」
と、そこまで言ったところでわたしは慌てて浮気じゃないですよ!という意味を込めて訂正しようとしたけれど、大佐さんは全く気にしていない顔で「続けて」と冷静に言っただけで、わたしは少し恥ずかしくなりながらも言葉を続ける。
「そのパトロンの人、ウィンチェスター卿って言うそうなんです。貴族制度はありませんが、すごくお金持ちだから“卿”って呼ぶそうです。それでエカテリーナさん、忙しいだろうに何度か作業するわたしを見に来ては“ウィンチェスター卿からの贈り物はあった?”って。だからよっぽど素敵な人なんですねって、衣装係りの人にこっそり言ったら、彼女、顔をしかめて、七十過ぎた陰気なじじいよって教えてくれて、意外だなぁ…って。って、ごめんなさい。こんなのただのゴシップですよね」
すみません…と謝る声が小さくなる。
どうしてだか大佐さんに対してわたしは完全に萎縮してしまっている。
それは大佐さんがあのエカテリーナさんのパートナーだからだろうか。この劇団にいる沢山の綺麗で垢抜けた女の子たちの中にあって気持ちがすっかり萎縮しているからだろうか。それともせっかく大佐さんに仕事を任されたのに、何の役にも立てない自分を自覚しているからだろうか。全部だな、と思う。
ああ、挙句の果てにこんな芸能ネタ好きのミーハーみたいな発言までして…!!!
Evanesco!(消えろ!)と自分に呪文をかけたい気分!
「夢子…その男はとんでもない大物だ…!」
「は?」
「ウィンチェスター卿といえばほとんど表舞台には出てこないが、軍部上層部にも顔が利く、軍需産業で莫大な財産を作り上げた武器商人だ。」