長い長い練習と打ち合わせで少しピリピリとした様子だったエカテリーナさんが眠ったのは、深夜1時を過ぎてからだった。
本気で練習をした後は神経が高ぶっていて、へとへとに疲れているし、お腹も空いているというのに眠れないし何も口に入らないらしい。だから深夜まで私は起きているけど、あなたは寝てしまいなさい、とエカテリーナさんが言ってくれていた。確かに練習は11時には終わったのに、彼女の部屋からはイライラとするように足を踏み鳴らす音や、カチャカチャと何かガラスが触れ合うような音がずっと聞こえていた。スキンケアでもしていたのかもしれない。


それらの音がようやく静まった頃には、わたしの瞼はすっかり重たくなってきていたけれど、その瞼の重みと比例するように頭は冷たい興奮と共に冴えていた。―――さぁて、わたしの本業だ。





エカテリーナさんが寝静まったのを確認すると、わたしは部屋を抜け出した。
深夜、寝静まった豪奢な劇場はまるで夜に取り残されたお城のようにひっそりとしていて、夜の空気に緊張するような硬質な空気が流れている。今にも壁に掛けられた絵画が「夜遊びはいけないぞ」と声を掛けてきそうな気がするほど、深夜の劇場はホグワーツの廊下に似たひっそりとした雰囲気があった。



正門は深夜になると鍵が掛けられてしまう。
まぁ鍵なんてちょちょいっと開けて外に出て行くこともできるけれど、ここの噂好きの連中に見られでもしたら面倒なことになるに違いないから、裏道から出て行くことにする。そもそも秘密のことをするのに、正面からっていうのも変な話だし。
裏道とは、コーラスガールやダンサーたちが門限の後に恋人と逢瀬をするために使うといわれている通路だ。本当は、美しい劇場で働く使用人の姿を煌びやかな客たちから隠すための使用人用の通路だったらしい。この使用人通路は劇場中を血管のように取り巻いているそうで、劇場のありとあらゆる秘密や陰謀は筒抜けなのかもしれない。



あーあ、透明マントでも借りられれば仕事は楽だったろうなぁ……でも新人にそんな高価なものは貸してくれないしな。
そう内心で愚痴りながら暗い使用人廊下の角を曲がったとき、わたしは派手に誰かにぶつかって尻餅をついた。まずい!逢引帰りの誰かかしら!?慌てて顔を上げると、勢いよくぶつかったわたしとは裏腹にきょとんとした顔からすぐに怪訝そうな顔でわたしを見下ろしていたのは、あの大道具係りのグレッグだった。



うっわ、顔見知り!!面倒だ!!



「あれ、夢子、こんな時間にこんな場所で何してるんだ…って聞く方が野暮か?いやぁ、お前もなかなかどうして手が早いじゃねぇか」
「ま、まさか!家へ着替えを取りに行くだけです。そっちこそ、誰かとデートでも?」
「言ったろ?聞くのは野暮だって」
グレッグはにやりと笑って肩をすくめる。
高い身長に、力仕事でついたんだろう自然な筋肉の隆起が簡単なシャツによく似会う。グレッグの差し出す大きな手につかまって立ち上がると、ちょうど目の前、彼のシャツに髪の毛がついているのを見つける。……大道具係りで、顔の広いグレッグの髪の毛………ラッキー!!


「グレッグ、ここに髪の毛がついてたわ」
「ん?ありがとうな」
怪しむでもない彼のシャツから髪の毛を取って捨てるふりをしてポケットにしまいこむと、わたしは「じゃあこのことはお互い内密に」としっかりと言い含めて、「夜道は気をつけろよ!」というグレッグの声に「ありがとう!」と手を振って、出口へと走った。



グレッグには悪いけど、ポリジュースはグレッグの髪の毛で作らせてもらおうっと!!









そしてなんだか久しぶりに感じる我が家に帰り着き、早速グレッグの髪の毛でポリジュースを作ったわたしは、それを小瓶に詰め、魔法省から至急で送ってもらったグレッグの背丈に合う男性用の服をカバンにつめて、意気揚々と上機嫌でアパートを出た。
深夜のちょっとした冒険のせいか、これから始めることのせいか、それとも深夜の満月がそうさせるのか、わたしは鼻歌を歌いながら少し浮かれ気味に夜道を急いだ。自分のアパートからティファニー劇場までの夜道の中、夜風が頬を触っていき、良い感じに酔っ払ったおじさんたちが何かを歌っていたり、猫が家と家の間へと姿を消したり、ちょっとガラの悪い男の人たちの間をそそくさと通りすぎる。


「学べよ 脳みそ 腐るまで〜♪」


そんな懐かしい鼻歌を歌って角を曲がったとき、また顔面に何かがぶつかり、後ろへよろめき尻餅をつきかけたわたしの腕を誰かがぐいっとひっぱった。また誰かにぶつかったらしい。けれど今度は顔を上げる前にその誰かの「夢子!」という声に驚く。わたしとぶつかり、尻餅をつきかけたわたしの体を引っ張りあげてくれたのは、大佐さんだった。
突然の遭遇に間抜けに口をあけているわたしと、寄せた眉をほどいてにっこりと笑みを浮かべた大佐さん。




「こんな夜中にこんな場所で一体何をしているのかな?」



怒ってる。この顔は怒ってる。大佐さんがにっこりとした時は怒っている!!!
い、いやいや、待て。わたしはもう未成年じゃないし、大佐さんの保護下にあるわけでも監視下にあるわけでもないんだから好きに深夜出歩く人権があるはずだ…!
「き、着替えを取りに行ってたんです。ほら!」
カバンを開けてみせるとグレッグのものだけど、そうとは知らない大佐さんは服が入っているのを確認して大佐さんは溜息を漏らした。



「“あの事件”が落ち着いたとはいえ、深夜のセントラルは女性に優しい街とは言えないんだぞ」
「あの、大佐さん、腕が…」
大佐さんが視線を落とすとまだ握っているわたしの腕がある。ああ、失礼、と大佐さんは言って離してしまった腕だけど、何故だか大佐さんの体温や力が残っているようで、離れてしまった大佐さんの手がどこか寂しかった。…変なの。男の人に触れられることになれていないわたしの肌は、大佐さんの握った力強さや、わたしを引っ張りあげた腕の強さに戸惑った。



ぐ…ぐぅ〜〜〜きゅるるぅ〜〜〜…



盛大になったのはわたしのお腹だった。
ああ!!恥ずかしい!!!!あまりのみっともなさに顔を覆って「うわーっ」ともらしたわたしに追い討ちを掛けるようにまたお腹が空腹を主張する。そういえば今夜、この冒険に向けてどきどきしていたせいかあまり夕食に手をつけられなかったんだ、と思い出す。ああ、こんな事ならしっかりがっつり食べてきたのに!!今が夜中でよかった!触れた顔がすごく熱いもの。
それなのに大佐さんは「ぷっ」と笑い出して、恨みがましく大佐さんを睨めば大佐さんは「実は私も少し空腹だったんだ。」と微笑んだ。今度は怒っていない、ちゃんとした笑みだ。



「近くによく行く店がある。エスコートさせていただけるかな?」












大佐さんのよく行くという店は、石畳を少し歩いた住宅地の中にある小さなレストランだった。
まさに隠れ家的なお店って感じ。こんな場所があったなんて知らなかった。セントラルに住んで早数ヶ月。それでも、まだまだお気に入りのお店のないわたしにはとても羨ましく見える。


「ここはシチューがとても旨いんだ」


大佐さんが嬉しそうに微笑んでドアを開けた瞬間、中から賑やかな音楽が爆発するように弾け出した。
驚いて大佐さんの背中からひょいっと中を覗くと、男の人たちがギターやアコーディオン、クラリネットを吹き鳴らし、椅子をどけた店の中央で綺麗なドレスを着た女の人と立派なシャツを着崩した男の人が手を取り合って賑やかに踊り、飛び跳ねている。それをまわりの人たちが手拍子をして、歌を歌って、取り囲んでいる。何かのお祝い事があったみたい。



「お邪魔のようだね」
大佐さんがドアを閉めようとしたとき、奥から「マスタング大佐!気にせず入って!」という男の人の声が投げられた。みれば店の奥から太った男の人がこちらを手招いている。ここの料理長でオーナーのジョゼフだよ、と大佐さんが教えてくれて、そのままわたしは大佐さんにくっついて店の奥のカウンターに腰掛けた。
ジョゼフという料理長は、鼻の下に立派な黒い髭を生やしているけれど、頭は随分後退していて、それでいて丸々と太ったお腹がなんだか店のマスコットにはもってこいなほど、どこか愛らしいおじさんだった。



「どうするかね!?」
「ふむ、まぁ勤務外だからな。…私にはウィスキー。彼女には…なにが良いかね!?」
「なにがあるんですか!?」
「うちの家内が作る蜂蜜のリキュールをソーダで割るってのはどうだい?」
「おいしそう!」
じゃあ決まりだ、と大佐さんが微笑んでわたしに確認を取ってからこの店一番のお勧めだというビーフシチューやサラダ、パン類を頼んでくれた。その間も背後ではお祭り騒ぎの大騒ぎで、わたしたちの注文はまるで叫ぶようにやりとりをしなくっちゃいけなかった。



カウンターに対面するキッチンでドリンクを作り始めたジョゼフに大佐さんが「何のお祭りなんだね?」とまた叫ぶように投げかけると、「結婚式の続きさ!」と満面の笑みと一緒に声が返ってくる。「あの中央で踊ってるのが花嫁で、あのだらしねぇ顔をしたのがうちの倅さ!あいつにゃ分不相応な美人で働き者の嫁さんをもらったアメストリス一の幸せもんさ!」大佐さんがウィスキーグラスを掲げて「おめでとう!」と言ったのに習ってわたしも蜂蜜ソーダの入ったグラスを掲げて「おめでとうございます!」と叫んだ。
振り返ればお店の中央で新郎新婦が踊りながらキスをして、周りから歓声が飛び交う。


そして二人の友達らしい若い男女がまた輪の中に加わってくるくると踊る。とても幸福な光景だった。




そして届けられたシチューはとびっきりおいしい。肉は厚くて、奥歯で噛み締めるとじわっと肉汁があふれる。わたし達はすっかり夢中になってシチューやパンやサラダを平らげ、いつの間にか音楽はすっかり落ち着いたムードの曲に変わり、二人や周りの人たちは手に手をとって寄り添いながらゆっくりと踊っていた。その頃にすっかり叫ばずに会話ができるようになっていた。



「そういえば、大佐さんはこんな夜中に何をしていたんですか?」
「ハボックから聞いたと思うが、私がはめられた夜、彼をここらで見たという目撃情報があったからね。…結局空振りだったが」


大佐さんは多くを語ってはくれなかった。
それはわたしが部外者だからだろうか、それともわたしに話しても役に立たないからだろうか。たぶんどっちもだ。
ジャンやリザさんの仕事をみている時、本当に自分がど素人だと感じる。大佐さんがいなくても、目の前に大佐さんがいるように的確に、迅速に行動をする彼らはプロだ。それなのに、当然だけどわたしはおろおろとするばかりだし、エカテリーナさんに一番近い場所にいるのに、なんのヒントも手がかりも得られない。ウィンチェスターとエカテリーナさんの関係だって掴めない…。
わたしだって、少しは役に立ちたいのに……。


―――――――――――――カバンを触れる。この中には、ポリジュースが。





「しかし、こんなおめでたい日に私達がいてよかったのかな」
大佐さんがジョゼフに声を掛けて、彼が「祝福は多いに越したことはない」と微笑んだとき、「じゃあ一緒に踊りましょうよ!」と声が投げられた。振り返ると花嫁さんがこちらに手招きをしている。お、踊る!?わたしがSOSを求めるように大佐さんをみれば、大佐さんは微笑んで立ち上がり、わたしに手を差し伸べた。……ず、ずるい!!こんなことされて…断れる人なんていないじゃない…。


椅子から降りて、わたしは大佐さんの手を取った。








「わ、わたし本当に踊れませんよ?」


ホグワーツのクリスマスパーティーやダンスパーティーに向けて、ミスマクゴナガルから教えてもらってちょっとは練習したことがあるけれど、でもそんな華やかな経験と記憶はすでにテストの結果と一緒に忘却の彼方だ。拍手で迎えられるわたし達、いやわたしの耳に「マスタング大佐だ」「イシュヴァールの英雄だわ」という囁きが届く。ああ、そんな人に恥をかかせることなんてできない!
本日二度目の大佐さんの体温を覚えるわたしの手は、緊張でそこから石化してくよう。
大佐さんに促されるまま、大佐さんの肩口に手を置き、もう一方の手は彼に握られる。そして大佐さんがゆっくりとわたしの腰に手を置き、微笑む。どうしよう、耳から熱くなって、息ができなくなる。



「大丈夫。私に合わせてゆっくり足を踏み出して。…そう。怖がらなくて良い。深く一歩踏み出して。足元を見なくて良い。顔を上げて、私の目をみて」


耳に届く声に従うけれど、あげた自分の顔が真っ赤になっているだろうことは明らかだった。でも大佐さんは笑わないし、意地悪もしない。伸ばした手から伝わる大佐さんの肩の筋肉。細身かと思っていたのに、実はしっかりとした男の人の肩。ティーンの頃、ホグワーツで踊った誰かの肩とは違う。大人の男の人の体に、戸惑う。「そう。…そうだ。上手くなってきたじゃないか」微笑む大佐さんは、より強くわたしの手を握る。アコーディオンの、明るくて綺麗な旋律なのに、どこか悲しい音に胸が痛くなる。




――――――わたし、この人のことが好きだ。好き。すごく好き。どうしようもなく、好きだ。




気持ちは爆発するように現れたんじゃなく、じわりじわりと水が満たされるようにゆっくりと湧き上がる。
この人の役に立ちたい。この人のために何かをしたい。
もっと名前を呼んでほしい。もっとお喋りがしたい。手を握っていてほしい。





まわりからは賑やかで幸せな音楽があふれて、大佐さんが微笑むようにわたしも微笑んだ。



でも、この人には、エカテリーナさんがいる。
わたしよりずっと前から、大佐さんの新聞の切り抜きを大切に取っていて、大佐さんを好きなエカテリーナさんがいる。そして大佐さんもエカテリーナさんのそばにいる。



気づいた瞬間から、失恋が決まっているなんて……なんて空しいんだろう。





ああ、わたし、もっと綺麗になりたい。
綺麗になって、いつか自分に自信をもって、そしてエカテリーナさんと大佐さんのように、素敵な人と出会いたい。いつか彼女のように、自分にしっかりとした芯を持った綺麗な大人の女の人になりたい。



じんわりと熱くなる胸を隠すように、わたしはつま先でくるりと回った。