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―――――その美しい少年は、女王に囁く。
僕は誰にも掴まらない
僕は誰にも捕まらない
なぜなら僕の魂は僕のものでしかないのだから
そして僕の魂は未だ僕のものではないのだから
ねぇ 女王さま あなたの心は誰のもの?
ねぇ 女王さま ほんとはみんなお見通し
貴女の魂も肉体も 全て宇宙より偉大なあのお方のもの
この世界の万物はあのお方のもの
だけど僕はあのお方のものじゃない
だけど僕は貴女のものでもないんだよ
だって僕は貴女の宇宙だもの
落下の女王 第三幕 「女王と少年」より
フォッカー中将の目の中にわたしの姿が映っている。
写真で見たときは細く鋭い目だったのに、わたしを、いや、アラン少年を見下ろすフォッカー中将の目は大きく見開かれ、どこか濁ったような欲望の中に脅える少年がいる。フォッカー中将の声が聞こえる。「さぁ、アラン、答えを聞かせておくれ」と。嬉しそうな声。わくわくしているような声。それなのに、わたしの手首をギリギリと強い大人の力で握る力はその子供のように浮かれた声とは打って変わって、生々しいほど強い。
「な、んのことですか?」
「君はもう忘れてしまったのかな?いや、そんな筈がない。私は君に魂まで捧げると誓ったじゃないか」
―――――えっ?
アランの手首を握る中将はその腕を引っ張り、力に負けるままわたしは体を強かに床に打ちつける。そこへ中将が馬乗りになってわたしの髪を撫でる。その手つきは柔らかくて、まるで大切なものを慈しむような手だ。しかし、目は違う。濁った瞳は見開かれ、生臭いようなアルコール臭いような息が顔に降りかかり思わず顔を背ける。……なにこれ?なんだこれ?もしかしてフォッカー中将は……
「あの日の君の潤んだ瞳ほど甘美なものはなかった。楽しみを先延ばしにしようなんて、やはり君はなかなかどうして意地悪なんだろうね。去年のロッシーニの千秋楽も素晴らしかったよ。あの時君は第四幕でしゃっくりを我慢していたんだね。せっかくの美声が上ずっていたよ。緊張するとしゃっくりが出る君の悪い癖だ。でもとても愛らしい。…去年より背がいくらか伸びたかな。君がその完璧な美しさから大人へと駆けて行くようで私はとても寂しいよ。この完璧な美しさの皮がゆっくりと脱げていく…。できる事ならば君に魔法を掛けてこの美しさのまま永遠につなぎとめておきたい。いや、君にエーテルでもベンジンでもホルマリンでも注射して、美しい蝶のようにピンで飾ってしまいたい。あぁ、アラン、私が軍の接待なんてくだらない仕事を志願したのは他でもない君の為なんだ。アラン、君に近づきたい。君に名前を覚えてもらいたい。名前を呼んで欲しい。ああ、アラン、アラン、アラン、アラン………アラン…」
「愛しているんだ」
「おかしいな…あいつどこほっつき歩いてるんだ?」
そんな個性のない台詞を吐きながら俺は溜息を漏らす。
エカテリーナの部屋が足の踏み場もないほどの布やボタン、レースがみっちりと入った沢山の箱やトルソーやそれらの間を忙しく走り回る衣装係りの連中で溢れかえり、邪魔な夢子が暇に出されたことは聞いたがその夢子の姿がどこにも見えない。エカテリーナの部屋の隣の夢子に与えられた付き人の部屋にもエカテリーナの砂漠の王国を連想させるような新しい衣装や小道具で溢れかえっている。夢子と知り合いだと周りに知られちゃいない俺は大々的にあいつの居場所を聞いてまわる事ができず、夢子が足を運びそうな劇団員専門の食堂や休憩室、ロビーなんかを探したが夢子の姿は見つけられない。
劇場は大掛かりな舞台装置をセットするため地上だけでなく地下にも大きな空間と層があり、また城のような屋上やバレリーナたちの寄宿舎、スタッフたちの寄宿舎やフロアなどなど迷路のように上にも下にも広がっている。まるで蟻の巣のようだ、と餓鬼の頃図鑑で見た巣を思い出す。途方もないほど沢山の部屋がある中で、夢子一人を探すのはなかなか骨が折れる仕事だった。案外好奇心の塊のようなやつだ。珍しい劇場の裏方を上から下まで探検でもしているのかもしれない。そういうところがまだ子供だと思われる原因のひとつだな。
「ったく、伝言係が消えちまっちゃ仕事がつとまんねぇだろうが…」
今朝、大佐のところへ届いた書類や手紙と一緒に“それ”は入っていた。
白い封筒に白い便箋にタイピングされた言葉で「どれだけ捜査をしようと無駄だ。結末は仕舞いまで絶対にわからない」と書かれていた。まるで俺達の捜査が行き詰っていることを嘲笑うようなメッセージだ。そしてこの手紙が届けられたのがフォッカー中将でもハインケル議員のもとでもなく、大佐のところに届いた。犯人が他の誰でもない、マスタング大佐が調査していると知っているということだ。この調査は中将と議員の安全と名誉のために秘密裏に行われている筈だし、俺やブレダもそのために身分を偽って劇団に潜入している。それなのに調査をしているのが誰かバレちまっている。
そこで大佐は決断した。―――――夢子を安全圏へ戻そう、と。
元々夢子はエカテリーナからの要求で付けられた双方のメッセンジャーだったが、大佐が調査しているとバレている以上、秘密裏に動く必要はなくなったのだからこれから大佐が直接足を運ぶなり、エカテリーナのボディーガードである俺が報告をするなりすれば事足りる。エカテリーナも事態がここまで進んだのなら今更夢子を辞めさせたって文句は言わないだろう。ましてや相手は大佐が極秘裏に進めてきた調査の情報も掴むことができ、そしてあの日大佐と中将を呼び出したように軍内部にも精通している人物だ。
身を守ることに関してど素人の夢子を置いておくのは危険だ、と大佐が判断した。
夢子は軍に籍があるわけじゃねぇからまだどこの誰かは掴まれちゃいないだろうが(そもそもアイツがこの世界に国籍や住民票を持っているのかすら怪しい)、いつ俺達との関係が知られるとも限らない。身分がバレていないうちは安全だっただろうが、相手がどこまでこちらの情報を握っているのかわからない今、夢子の立ち場をスパイだと思われても厄介だ。
支配人がエカテリーナにはプロの付き人をつけると言っているし、急で悪いが夢子には手を引いてもらうつもりだった。
……アイツのことだからふくれっ面になりそうだが、そもそも俺は夢子が現場に入ってくること自体反対だったんだから万々歳だ。早く安全な場所に生きる普通の女の子に戻してやりたい。
「…って、その当の本人が見つからないんじゃどうしようも……まさか」
まさかもう身分がバレちまったのか?
いつもどこかしら俺達の視界に入る場所にいた夢子がいない。それも犯人側からの手紙が届いた同じ日に!
急に思い立った結論にいやな汗が滲んだ俺は、それまでたらたら歩いていた足取りからすぐに夢子の名前を呼んで走り出した。
や、やっぱりそうだ…!この人、このアランって子を…!!
まずい。まずいまずいまずいまずい!!フォッカー中将は片手でわたしの両手首を握って押さえつけているというのに、大人の男に加えて現役軍人の力が強すぎていくら男といえどまだ少年のアランの力じゃ敵わない。まるで中将が言った標本の蝶のように縫いとめられて、身動きがとれない。けれど自分がとんでもないヘマをしでかした事だけはよく分かった。
このマグルの腕から逃れられるなら魔法を使っても良いとさえ思ったのに、慌てて荷物をカバンに突っ込んでしまったせいで杖までカバンの中だ。しかもカバンはドアの近くに落ちたまま…この体勢じゃ届かない!名前を呼ぶ中将の声が耳に振ってきてその気持ち悪さに体がぶるりと震える。中将が少年の体を抱き締めて、うわーっ!!と目を閉じたとき、中将の体がぶるぶると震えているのに気がついた。
「…駄目だ。やっぱり私にはできないッ!」
止めていた息を吐き出すようにそう言い捨てると、中将はわたしの体を勢いよく撥ね退けて、頭を抱えて震え出した。
それはさっきまでの欲望に満ちた姿でも、軍人として中将まで上り詰めた男のプライドも何もない、脅え切った子供のようで、わたしは思わず息を呑む。体を起こすと打ち付けた背中や握り締められた手首が痛んだ。けれど彼を刺激しないようにゆっくりとカバンを引き寄せて中から杖を取り出して握り締める。
「……私には出来ない。出来ないんだ…アラン…アラン赦してくれ…私などが君に恋慕する事自体おこがましいというのに、私は一体…」
噛み殺すような唸り声と一緒に跪いたまま頭を抱えてしまったフォッカー中将にわたしは戸惑う。
この人はやっぱり、アランが好きなんだ。それもとても深く…。こんなところで思わぬ人様の恋愛事情に立ち入ってしまった事もそうだけれど、中将の信仰にも似たほどの片思いにどうしたら良いのか分からない。いや、わたしはアランの体になっているけれど全くの第三者なんだから、何もしちゃいけない。
それに…たぶん、この人はこの事を誰にも言わないだろう。というか言えないだろう。
うっすらとだけど分かったのは、中将がアランを崇拝するように愛していること。アランの完璧な美しさをあがめていること。そしてそれを汚そうとしてしまった自分をひどく悔いていること。
「あの日掛かってきた電話は君の純潔を守る為に神が送ったものかもしれない…それなのに私は…」
「あの日?」
「アラン、こんな初老の男の告白は君の心には残らなかったのかな…。崇拝者からの告白は君にとって珍しいものではないだろうからね…。あの日だよ。あの火曜日の夜、私が権力にものを言わせて君をホテルに呼び出した日だ。君に詩を読んでいる時だったね…君は退屈そうにリュートを弄んでいた…そして詩を読み終えた私がおこがましくも君に愛の告白をした時、丁度軍からマスタング大佐に呼び出されて行ってやったんだ。でもあの電話がなければ、私はあのホテルで今日のような過ちを……」
くどくどと後悔している中将の言葉は耳に入ってこなかった。
火曜日の夜!!大佐さんがはめられた日だわ!フォッカー中将と大佐さんがお互いがお互いに呼び出されたと鉢合わせをした日!けれど、中将は自宅にいたって証言していたのにホテルだって?それじゃあ中将は大佐さんに嘘の証言をしたってことになる。でもこのセントラルに家があるのにセントラルのホテルの一室を取っていたって言えば誰といたかって問題になるから、それは中将にとって知られてはいけない秘密だったんだ…。
わたしは誰が誰を好きでも良いと思うし、宗教的戒律もないから同性を好きになっても良いと思うけれど、彼のような地位のある人にとっては知られてはいけない秘密だったのかもしれない。ましてやこの世界は、向こうの世界のように同性婚が認められているような社会でもないみたいだし…。
「あの夜は……僕は、どこのホテルに行ったんでしたっけ?」
「君が初出演をしたトーキン映画の『貴婦人のバカンス』で紅茶を飲んでいたオダリスクホテルじゃないか」
―――――火曜日の夜、フォッカー中将は自宅ではなくこのアラン少年とオダリスクホテルにいた!!
この情報はきっと大佐さんの役に立つんじゃないか、と思ったわたしの心は飛び跳ねるようにどきどきとした。
「君はどこか宙を歩くような、夢を見るような瞳で生きている。私との記憶など君にとっては目の前を通り過ぎた虫のように取るに足らない物なのだろうな」
けれど、目の前でうな垂れている初老の男を見下ろして、わたしはなんだかこの人の事をとても可哀想に思った。
軍人でないわたしにはこの人が持っている「中将」という地位は意味がないものに等しく、跪いたまま顔を上げて、なにか憧れのような光を湛えてわたしを見上げるこの初老の男の人が、とても小さくて可哀想な人のように見えて、胸が締め付けられるような気持ちになった。
わたしには、こんなに焦がれるような瞳で誰かに見つめられた経験がない。
そしてわたしはもしかしたら、こんな目で大佐さんを見ているのかもしれない。
大佐さんとお付き合いしたいなんて、そんな大それた事なんて考えてない。
だって大佐さんにはエカテリーナさんがいるし、そうでなくったって、英雄でなくったって、あんな魅力的な大人の男性が自分みたいな小娘を相手にしてくれるとは思えない。けれどできる事なら、ほんの少しだけ、ほんの少しで良いから、大佐さんの心や記憶の中に夢子という女の子がいた事を覚えていて欲しい。
そして時々笑いかけて欲しい。
夢子、と名前を呼んで欲しい。
わたしには、憧れと共に恋をしているこの初老の男性の気持ちが少しは分かるような気がした。
ふいにつま先や指先や頭の天辺がむずむずとするのを覚えた。
指に目をやると爪の形がうねうねと動き始めている。………ポリジュースの効果がなくなってきている!
あわわわわ、と慌てて手をポケットに突っ込んで、ゆっくり後ずさりを始めたわたしに中将はまた寂しそうに微笑む。
「君に軽蔑されたって構わない。だが君の名誉と純潔の為に、この事はなかった事にはしてもらえないだろうか……そんな事を言い出すなんて、私はどこまでも醜い大人だ」
「……いえ、この事はあなたにとっても不名誉の筈。さっきの事はお互い忘れてしまいましょう。あなたも今までとなんら変わらない態度でいてください」
ポケットの中で急速に指が短くなっていく事や、膝の骨が丸く、小さくなっていく感覚を覚えて、わたしはそのままくるりと背中を向けて、逃げるように部屋から飛び出した。アラン!と名前を呼ぶ彼の声が聞こえたけれどそれにも答えずにドアを閉めて走り出せば、前方から見知った顔が飛び込む。―――――ジャンッ!!!
ドアが開いたのとわたしがジャンの背中に隠れたのはほぼ同時だった。「ふぉ、フォッカー中将!」ジャンが聞いた事もないような改まった声と共にビシッと敬礼したのを感じてやっぱり中将って偉い人なんだな、と思った。体が熱くなる。骨がとろとろと溶けて小さくなっていくのと同時に視線が低くなっていく。
「君はマスタング大佐の…いや、それよりアラ…少年が飛び出していかなかったかね?彼と話がしたい」
「えっ、い、いや、しかし…!」
どこの誰とも分からないけれど自分の背中に逃げるように隠れた少年を「中将」から守ろうとするジャンの背中に腕を突込み、引きずり出した人間を見て中将の表情が強張る。そして振り返ったジャンまでも。
「あ、あの、男の子ならさっきすごい速さで走っていきましたよ」
そうか、と脱力したように返事をした中将にまた胸が痛くなったけれど、それよりも素早く状況を理解したのかジャンの顔がみるみるうちに変化していく。その顔には黒字の太字のマジックインキでしっかりはっきりと「おまえ何やらかしたんだ!?」って書いてあって、わたしは身体を小さくした。