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「で、火曜の夜、フォッカー中将は自宅ではなくこの劇場に程近いオダリスクホテルの一室でここの舞台俳優アラン少年と密会していた、と」
掴もうとしていた中将の足取りは掴めたけれど、大佐さんの表情はもちろん晴れやかではない。
劇場の支配人から捜査資料を持ち込んだり、ジャンやブレダ少尉が使うために借りているという控え室には、ささやかなベッドや机や椅子のほか、彼らが飲み食いした後や持ち込んだ様々な雑誌、資料らしき書類の山のほか、色んな銃が置かれている。その事が、これが「お遊び」や「探偵ごっこ」じゃない事を今更ながらわたしに突き付けるようで、わたしは大佐さんの重い沈黙や眉を寄せたリザさんの表情、ジャンのぶすっとした表情に胃が痛くなる。
「私が何を言いたいのかは、分かっているね?」
ようやく口を開いた大佐さんに、わたしは頷く。
椅子に座った大佐さんの前に立っているわたしの服装を、大佐さんは半ば睨むような呆れたような顔で見る。大佐さんの近くに置かれたテーブルには、書類の山や新聞紙、コーヒーカップの他に小さな瓶が置かれている。ポリジュース薬を入れていた瓶だ。そしてグレッグの体型に合わせた男物の服を着たままのわたし。言い逃れなどできる筈もなければ、自分が何をしでかしたのかをはっきりと突き付けている。
ジャンの背中に飛び込んだわたしを見て、フォッカー中将はひどくがっかりとした顔をした。
けれどそれも一瞬のことで、すぐに「中将」の顔に戻り「いや忘れてくれ」といかにも人の上に立つ人間たらしい声で言うと、わたし達に背中を向けてさっさと歩いて行ってしまった。残されたわたしはジャンがいてくれた事に心底安堵したと同時に、「さて…何しでかしてくれたんだ、お前は?」と笑顔でわたしを睨むジャンに全て説明して、問答無用でこの部屋に連衡。そして本日二度目の自白をしたのだ。
ポリジュース薬の入っていた瓶を手にして、眺めたあと、顔を上げた大佐さんの表情は「怒っている」でも「呆れている」でもなく「大人」の顔をしている。そんな大佐さんの顔を直視できなくて、わたしは俯いて大きな靴のつま先を見つめる。体がどんどん小さくなって、最後にはミジンコのようになってしまえば良いと思ったし、実際にやろうと思えば私にはできる事だった。けれどそんな事、大佐さんにはできない。この世界の誰もできない。誰もできない「ずる」をしたのは、わたしだ。「ずる」をして得た情報は、大佐さんの調査報告書に書くことなんてできない。
「私は、君にしてほしいのは“調査”ではなく、“記録”だと君に言い含めた筈だね?」
「…はい」
「確かに君が掴んだ情報は大きい。フォッカー中将としてもアラン少年以外の他の誰にも話す事のない秘密で、我々とて掴めたかどうか分からない貴重な情報だ。……だが夢子、君はもう何もしなくて良い」
えっ、と顔をあげたわたしの視線と、大佐さんの視線がぶつかった。
大佐さんの目は、昨日の夜、一緒に踊ったときのような優しい目じゃなかった。言い訳もできない、取り付く島もない顔をしている。「大人」じゃない。「大佐」の顔をしているんだ、と理解する。
「君は家に帰りなさい」
荷物をまとめなくっちゃ、とぼんやりとした気持ちで部屋に戻ると廊下でエカテリーナさんとばったりと鉢合わせをした。
薄いメイクをしたエカテリーナさんは、普段のばっちり化粧をした顔よりもどこか幼くて「良い衣装ができそうよ」と子供のように嬉しそうに微笑んで、「よかったですねぇ!」となんだかわたしまで嬉くなって笑い返したのに、笑い返した瞬間、決壊するようにぼろっと大きな涙が零れて驚いた。
涙があふれる瞬間の、「あ、泣くな…」と予感するような鼻のつんとするような痛みも、込み上げる感情も、歪んでいく表情筋も、なんにもなかった。「よかったですねぇ!」と心の底から素晴らしい衣装に喜んだのに、その瞬間溢れた涙はわたしの気持ちとはまったく逆のもので、わたしは本当に驚いた。その間も、「えっ?えっ」と驚くわたしとは裏腹に、ぼろぼろと大きな涙が溢れては頬を転がるようにこぼれて、止まらなくて、ハンカチなんて気の利いたもののひとつも持ってなくて、ごしごしと袖で拭って、拭って、でも涙は拭っても拭っても止まらなくて、ただ大変なことをしてしまった、という気持ちが後から後からじわりじわりと込み上げて、いよいよわたしは顔をぐしゃぐしゃにした。
そうやって自分の感情に戸惑うわたしを、エカテリーナさんはとても落ち着いて見ていたかと思うと、「いらっしゃい」とわたしの手を引いて自分の部屋へと入れてくれた。
エカテリーナさんの部屋に入った瞬間、ふわりと品の良い香水の香りが漂って、まだ昼間の名残りの沢山の衣装に使う布やリボンの詰まった箱でいっぱいで、エカテリーナさんはわたしをお客さん用の椅子に座らせてお茶の用意を始める。
その間も蛇口を捻ったように大きな涙が粒になって頬を転がっていき、しゃっくりまで込み上げてしまう。
「甘くておいしいわよ」
エカテリーナさんが振って見せてくれた紅茶の缶は、なんとかという紳士の贈り物だと泣きながらも思い出す。わたしがリストにしていた贈り物のひとつだ。缶のラベルのデザインが可愛かったので覚えている。紅茶、と呼ばれるにふさわしい透き通った紅を真っ白で大きなマグカップに半分入れて、そこへ瓶に入った牛乳をどぼどぼと入れ、更に蜂蜜をたっぷりと入れて、ティースプーンでがちゃがちゃと混ぜたものをわたしの前に置いた。エカテリーナさんは自分の分を持って、スプーンをがちゃがちゃと混ぜながら、紅茶なのか紅茶入りホットミルクなのか分からないものの湯気をたっぷり吸い込んで満足そうに微笑む。
「これを作るとこの紅茶会社の専務に叱られるの。そんな事をしちゃ本来の香りが生きないって。あの人私に夢中なのに、紅茶のことになると反抗するのよ。でも良いの、これが美味しいんだもの」
にっと笑ってエカテリーナさんは、紅茶をすすって「うん、美味しい」と嬉しそうに笑った。
「おあがりなさい」と勧められるがままに、大きくて厚くてあったかいマグカップを両手に持って、ぐずぐずとした鼻で濃い牛乳の香りを味わってから、舐めるように一口飲んでみる。向こうの世界のように工場で完璧に「牛乳」というドリンクにされた「牛乳」よりも、「乳」というのを強く感じるような濃い味の牛乳と、さらっとした紅茶の苦味、濃厚で甘い甘い蜂蜜が混ざり合って、なんとも言えないほど美味しかった。
「おいしいです」とエカテリーナさんに笑いかけたのに、また涙が一粒ぼろっと零れた。
エカテリーナさんが「でしょう?」と得意そうに笑って、少し二人でくすくすと笑いあった。そしてぐしぐしと涙をぬぐうわたしを優しい目で見つめながら、エカテリーナさんが言った。
「あなた、ロイを愛してしまったのね」
ハボックの何か言いたげな視線をしっかり覚えながら、夢子の掴んできた情報を元に指示をしていく。
犯人の手がかりが非常に少ない今、夢子の掴んできた情報は大きなものだった。火曜の夜、フォッカー中将の本当のアリバイが掴めたことはありがたい。オダリスクホテルと言えば、ブレダが劇団連中から中将の目撃情報を掴み、私が調査をした通りのすぐ近くにあるホテルだ。伝統と古臭さを薄皮一枚で共有するホテルは、古いばかりで特別な魅力のないホテルだったが、フォッカー中将にとってはアラン少年の初出演映画の舞台という大切な場所だったらしい。
手の空いたファルマンとフュリーをツーマンセルにして、オダリスクホテルへ調査に向かわせれば、ホテルにいた中将に電話を掛けてきたのは、彼の家の執事だということは三十分と掛からずに分かった。無から有を掴むことは途方もない作業だったのに対して、この確認作業のあっけなさだ。そして執事も我々に嘘の供述をしていた、という事になる。「大佐」などに彼の至極プライベートな趣味を話すはずがないとは覚悟していたが、どうやら中将側から与えられる情報はより一層真偽を確かめる必要がありそうだ。
フォッカー中将の本来のアリバイは分かった。
次は「なぜ犯人は、火曜の夜に我々を会わせたのか」という問題が残っている。
――――中将の予定に何か犯人にとって不都合な事があったからだろうか、というのが私個人的な印象だ。
しかしまだまだ「?」ばかりの状況であって、現状我々ができることはフォッカー中将とハインケル議員の身辺警護と舞台が成功するように祈るのみ、だ。
上の連中は軍に恨みを持つ者の嫌がらせではないか、とまだ見えない敵に苛立っているようだが……
「本気で夢子をこの件から外すんですか?」
アラン少年の資料をまとめていたハボックがようやくそう口を開いた。
言いたいことは分かっていたが、私の決断をどこか咎めるようなハボックの口調に「おや?」と思う。最初に夢子を安全圏に戻そうと話したときは、「夢子は嫌がるでしょうけど、それが一番っスよね」などと嬉しそうにしていたというのに、今度はどこか腹立たしげだ。ひとつの事柄に対してよくこうも感情が変わるもんだな、と感心する。
夢子が行動を起こしたのは「少しでも力になりたい」という控えめな気持ちを行動に移しただけだ、という事はよく分かっている。夢子は何も言い訳をしなかったし、この手柄に対して恩義背がましい事をなにひとつ言わなかった。それがまた夢子のしたかった事を痛々しいほど伝えるようで、彼女のいかにも子供っぽい親切心をよく表していた。
「上層部は喉から手が出るほど彼女を欲しがるだろうな」
ハボックは私の言った一言で全てを理解したらしい。目を見開いてうろたえる。
ポリジュースという薬を飲む事さえできれば、誰でも他人の肉体になれるという。しかし夢子の口ぶりからすると、この薬を作ることは大した労力でもなければ、彼女にとってとても難しく貴重な薬だという風でもなかった。まるで腹痛に効く薬をちょっと調合した位の価値のような、ごくごく当たり前のものだった。……つまり、彼女はもっと何かができる。
フォッカー中将の性癖と密会相手、程度のことは報告書にいくらでも偽造して書くことができるが、今後も夢子が今日のような方法で情報を掴んできたのならば、いずれは誰かの耳に入るかもしれない。完璧なスパイになれる薬。そしてそれ以上の事をたやすくできる娘。上層部の連中が彼女の存在に気づけば、どんな手を使ってでも夢子を手に入れようとする。
その後の夢子を想像するのはあまりに残酷だった
そして、夢子の力を欲しがるのは上層部ばかりではない。……この私とて同じ事。
夢子を子供だと思うところは、私という「大人」を「立派な大人」だと思い込んでいるところだ。大人の腹の内を知らない。夢子よりいくらも年下のエルリック兄弟と夢子の違いはそこだ。特別な能力を持つ子供、という点で彼らは似ているようだが実際は全く違う。エルリック兄弟は自分たちの力の意味を知っている。その力の生み出す結果を知っている。大人の脆さを知っている。
だが彼女は知らない。彼女は何も知らない。
夢子の中の私はきっと「やさしい大佐さん」なんだろう。