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「ち、ちがいますよ!!!」


まさか!!と思わずひっくり返りそうなほどに驚いて否定するわたしに、エカテリーナさんは猫のように愛らしく瞳を細めてくすくすと笑い声を立て、女王さまの前ではわたしの拙い否定や嘘や偽りなんてまるで意味のない透明のガラスケースの中の秘密のように透けて見えてしまっているらしいと知って、わたしは観念するように肩を落とした。だってそんな、大佐さんの恋人の前でいきなりそんな…ま、まさか修羅場?いやいや、修羅場ってのは相手が対等であるからであって、わたしが片思いしたところで全く痛くも痒くもないっていうか、そもそもわたしさっき、その大佐さんからクビ宣言されたし…



あ、墓穴、だ。
またぼろっと涙が零れて、エカテリーナさんが笑い声から溜息に変える。




「なにも泣かなくても良いのよ。別に怒ったりしやしないから」
「いやなんていうか、もうほんと……自分の不甲斐なさに呆れて…」
「もう、なんだか、あなたがもっと刺激的な恋敵だったら面白い展開だったのに。三角関係ってとっても刺激的なスパイスじゃない。なのに、不甲斐なさだなんて、ちっともロマンチックじゃないわ。何かもっとこちらの闘争心をメラメラ燃やさせるような事を言って頂戴よ」
「と、闘争心〜?」


………あ、あなたがわたしに???
目を丸くして自分を指差して口をゆがめるわたしに、エカテリーナさんは「それこそ恋の醍醐味よ」とにこにこと笑って頷く。よ、余裕たっぷりじゃないですか…。闘争心なんて一ミリたりとも感じない。そもそもこの完璧な女性の一体どこに、わたしみたいなちんちくりんの餓鬼に闘争心を燃やす必要があるというのか…。エカテリーナさんのフランス人的な恋愛感にわたしは鼻白む。どういう理論デスカ?




「あなたを一目見た時、不思議だったのよ」
「わ、わたしがですか?」
エカテリーナさんがさっきまでのちょっとふざけたような声色でなく、今度は自然な声でそう呟いた。
「不思議」の心当たりは沢山あるわたしはごくりと息を呑んで顔をあげる。アメストリスには珍しい、このアジア人然とした容姿のことだろうか?だったらシン系のアメストリス人ってことにしておこう。それとも大佐さんとの関係?まさか。だって大佐さんはわたしを「軍の掃除婦」として紹介したもの。


一体どんな言葉が続くんだろうか、と少し不安に身構えるわたしに、エカテリーナさんはカップの中のすっかり冷めただろうミルクを一口飲むと、やわらかく微笑んだ。




「あなたが“イシュヴァールの英雄”に恋をしていなかったことよ」




―――――――イシュヴァールの英雄に恋をする。
エカテリーナさんが大切にファイリングしている冊子の中に、軍人の顔をした大佐さんの古い新聞記事がスクラップされていたのを思い出す。あの記事には大佐さんの活躍を華々しく「英雄」と書いていた。今でも時々、清掃スタッフの仲間内で「夢子はあのイシュヴァールの英雄と仲が良いから」なんて言われる。それに昨日の夜だって、大佐さんと一緒に踊ったレストランでも「イシュヴァールの英雄」と誰かが大佐さんを呼んでいた。そしてエカテリーナさんも、わたしの爪を磨きながら、『セントラルの若い女の子はみんな、イシュヴァールの英雄に恋しているのよ』とわたしに微笑んだ。


そのイシュヴァールの内戦のことも知らなければ、戦争だって知らない幸福な世代に生まれたわたしにとって、内戦とか戦争の英雄なんて言葉はピンと来ない。だから大佐さんが英雄と呼ばれているとどこか遠い気持ちになる。アメストリス人でないわたしは、「英雄」という言葉の裏に隠れている言葉に気づいてしまう。


戦争で英雄になるっていう事が、どういう意味なのか、考えてしまう。





「初めて会った日、あの人の隣に立っていたあなたは、ロイがどういう人間なのかまるで知らない顔をしていたわ。ロイと一緒にレストランに行けば、プロの給仕の女の子だって耳を朱色にしてそわそわするのに、あなたにとってロイが全く特別でなかった事がとても不思議だった」

えっ、と声を漏らすわたしに対して、エカテリーナさんの瞳は本気とも微笑んでいるとも取れるような瞳をしている。「女」の目だ、とふと思った。さっきまでのはほんのおふざけ。でも今は本気だ。



「それは…」
と口を開くけれど、わたしには次の言葉が出てこない。
だって、大佐さんは、大佐さんだったから…。大佐さんも、わたしを異世界の人間だからと特別視しないから。だからわたしと大佐さんの間にあるものは、当たり前の年齢や社会的地位から来る上下関係と、そこにほんの少しの親しみだけだ。



「だけど今、少し嬉しいのよ」
エカテリーナさんが微笑むと、ラテン系の少し気の強そうな瞳が柔らかく歪んで、少女のように甘くなる。
28歳だと聞いていたけれど、その色気と知性に溢れた表情の中に、どこかまだ少女の面影が残っている。エカテリーナさんが漏らした「嬉しい」の意味がわからなくて、わたしはただ彼女の顔を見つめる。



「あの人を肩書きでなく、あの人の本質を愛する同士を見つけたんですもの」


あ、と意味を理解した。
けれどすぐに照れ臭くなる。
エカテリーナさんとわたしは同時に小さく笑い出して、わたしはすっかり涙が消えている事に気がつく。




「けれどライバルはライバルよ?それでこそ恋の醍醐味だもの」
「で、でもわたしは…その、エカテリーナさんの事も好きなんです。お二人のこともお似合いだと思うし、この気持ちをどうこうするつもりは……ぅぶっ」
そこまで言いかけてエカテリーナさんに鼻をつままれてなさけない音が出る。な、なにを!?
ちょっと身を乗り出して、悪戯をする少女のように微笑んだ美しい人の手を振りほどく勇気もなくて、目だけを大きく見開いて息を呑むわたしから手をはなし、エカテリーナさんはその長い指でわたしのおでこをピンっとつっつくと、また満足そうに歯をみせて笑う。



「自分の気持ちを自分で制約してどうするの?恋を制御することなんて誰にもできやしないの。恋はどこまでも自由だわ。
あなたはロイが好き。でもそれは、“英雄”だから好きなんじゃない。
ロイ・マスタングという一人の男が好きなのよ」



それで十分じゃない。
そう微笑んだ彼女に、けれどわたしはやっぱり一生勝てないって気がした。












「大佐さん!!」


そう声を掛けると、大佐さんは足を止めて振り返り、やがて段上にいるわたしを見つけて顔を上げる。
リザさんと一緒に玄関ホールから出て行こうとする大佐さんの表情に、わたしは奥歯を噛み締める。いつもわたしの事を「夢子」と呼んでくれた大佐さんの表情はどこにもない。「大佐」の顔をしている。ひどく事務的な、大人の顔をしている。その表情にひるむけれど、でも、ここで言わなきゃもう二度と言えないような気がして、わたしは階段を走り降りる。まるでシンデレラが駆けた階段のような美術的にも素晴らしい階段なのに、まだるっこしい一段一段がわたしには永遠のように長い距離に思えて、シンデレラでもなければお姫様でもありはしないわたしはスニーカーで大理石の段差をジャンプして降りていく。
足を止めていてくれた大佐さんの前に走りよれば、すっかり息が切れていたけれど、大佐さんはそんなわたしを無表情に見下ろしている。


大佐さんのそんな表情に胸がじりじりと痛くなるのもかまわず、わたしは顔を見上げてしっかりと大佐さんの目を見て、そして勢いよく頭を下げた。




「ごめんなさい!!!」



大佐さんからなんの言葉も降ってこないけど、そのままわたしは言葉を続ける。
大佐さんの命令を無視して勝手な事をしてしまったこと。
この世界に不用意に介入してしまったこと。
誰も使えない力でズルをしてしまったこと。


大佐さんの手駒である自分が勝手な行動をすれば、それは大佐さんの意志とは違う動きで、大佐さんの計画や捜査プランをぐちゃぐちゃにしてしまうことだった。それなのに、わたしは軽い気持ちでポリジュース薬を使った。それも成功していたならまだしも、爪が甘くて全く別の少年になってしまった。薬ひとつ満足に作れなかった自分が、人の命の掛かった現場を無茶苦茶にしてしまったことを謝りたかったのに、いつもならすらすらと出てくる英語がこんな時ばかりうまく出てこない。つっかえつっかえしながら、たどたどしい言葉しか出てこなくて、胸の中には沢山の言葉があるのに、喉でどろどろに溶けて舌を押さえてしまう。


その上、自分のしでかした事や、無言の大佐さんに涙まで出そうになるんだからたまったもんじゃない。
この上涙なんて流したら泣き落としだって思われてしまうかもしれない。


そんなの嫌だ!





「本当に、ごめんなさい!」


そのまま頭を下げて、ぎゅっと目を瞑るわたしの頭上に、沈黙が落ちてくる。
言うだけ言った!!
言わないよりずっと良い!
やがて長い長い沈黙のあと、頭上から溜息が落ちてきた。



「まったく、私と君は他人という事になっているんだぞ」
「あっ、そ、そうだった!!」


あわてて顔をあげてきょろきょろと辺りを見回すけれど、近くに役者さんたちの姿はなく、観光客らしき集団がなにかあったのか、とばかりにこちらに目をやったり、天井のフラスコ画の写真を撮ったりしているばかり。胸を撫で下ろすわたしの耳にまた大佐さんの溜息が聞こえてそちらを見れば、大佐さんの表情が変わっていることに気がつく。
………さっきまで、「大佐」で「大人」の顔をしていたのに…今は…今は「大佐さん」の顔だ。
そんな変化まで見分けてしまうくらい自分が大佐さんを好きなんだ、と気がついて首が熱くなっていくのを自覚するけれど、わたしはそのまま大佐さんの顔を見ていられなくてまた目線を落としてしまう。
駄目だ。ちゃんと最後まで、目をみて謝ろうと思っていたのに…。



「……これではまるで私が悪者みたいじゃないか」


なぁ、中尉、と溜息まじりこの声が聞こえて、顔を上げると大佐さんが頭を掻いている。
その一歩後ろでリザさんが眉を下げて苦笑している。





「ひとつだけ言っておく。軍の目に入る場所にいるのなら、力を使うのはやめなさい。軍は国家錬金術師として12歳の少年に少佐相当の地位を与えるような場所だ。上層部が君の存在とその力に気づいたとき、私の力では君を守りきれないかもしれない」



言いたいことは分かるね?と確かめるように促され、わたしはごくりと息を呑む。
……大佐さんが言っているのは、エドのことだ。
国家錬金術師が戦争になったら「人間兵器」として戦争に召集されるということは聞いている。もし、エドが国家錬金術師になったばかりの12歳の少年だったときに戦争が起こっていたのなら、軍は12歳のエドを戦場に引っ張り出すつもりだったのかもしれない。ううん、かもしれない、じゃなくて「つもりだった」んだ。マグルだって歴史の中で何度も魔法族を軍事利用しようとしたって授業で習った。向こうの世界のマグルはいかにもマグルらしいマグルだけれど、この世界のマグルはちょっと違う。錬金術が使える。それもわたしが把握しきれないような力の……。


そんな軍がこの力に気づいたら、どう利用するつもりなのかは想像だってできやしない。
……杖を取り上げられればただのマグルであるわたしなんて、どうとでもできてしまう。
その可能性を忘れていたわけではないけれど、どこか遠いもののように考えていた。
それをいきなり大佐さんからつきつけられて、わたしは息を呑む。





「…次からは気をつけなさい」


大佐さんがそう一言言い残して、コートを翻して玄関ホールを出ていき、リザさんがやわらかい笑みひとつ投げてくれてそこでようやく大佐さんの言葉の意味に気がついた。…次?次だって!?














「大佐さん!!ありがとう!!!」


夢子が懲りずに大きな声で手を振っているのに、しーっと指を立てれば、またあわてて口を抑える。そんな夢子に肩で溜息を漏らして車に乗り込み、それでもまだ溜息が漏れる。だから、私と君とは他人という設定だとなんど言えば……まったく先が思いやられる…。



「やっぱり選択肢を誤っただろうか?」
「いいえ、忠義な部下を一人得たと思います」


ミラー越しに中尉を見れば、その完璧な唇に薄く穏やかな笑みが浮かんでいる。
ま、私も中尉も甘すぎだな。…それにエカテリーナも。
胸ポケットから上等の封筒に入れられた手紙を取り出すとエカテリーナが愛用している香水の香りがふわりと広がる。中には彼女の流れるような美しい筆記体で夢子のことが書かれている。夢子がいかにど素人で舞台に関して無知のどん底か。いかに仕事ができないか。そして、いかに可愛い友人か書かれている。



『―――夢子は確かに仕事はできないわ。でも、あの子は素直でまっすぐよ。
舞台で張り詰めている私の気持ちをやわらげるのは、貴方のくれる完璧な愛の言葉より、夢子の純粋な笑顔。私から夢子を取り上げるなんてしたら、もう食事だってしてあげないわよ?』



国が抱える一流劇団のプリマドンナともなれば、敵も多いのだろう。
前の付き人に対してだって、彼女が愚痴を漏らしていたのを聞いている身としては、エカテリーナがようやく得た「素」でいられる相手にほっとしているのがよく分かる。ど素人であるが故に、無欲だ。エカテリーナにとってはある意味愛玩動物のようなポジションなのかもしれないが…。



「エカテリーナに脅迫されたからってわけじゃないぞ。確かに舞台中枢に布石はしておきたいからであって…」
「誰も咎めてはいません」



その声に笑いが含まれていたことに安堵して、私も微笑んだ。
また夢子が無茶をしようとする前に、事件を解決させるしかないだろうな。