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ダリウスがわたしに付けられた「教師」みたいなものだということを理解するのに、そう時間はかからなかった。
エルヴィンがダリウスと二言三言やりとりをしてから、通じないと分かっているだろうにわたしに何か言葉を掛けて、そしてわたしの目をしっかりと覗きこんで頷いた。その目は真剣で、わたしの中の浅はかさや狡さや嘘の肉をすべてそぎ落として、残った脆い骨という人間性を力強く握り占め、わたしに何か大事なことを託すような目だった。だから言葉も通じないのに、わたしは神妙な顔をして頷いた。この人がすることは、わたしにとって悪いことではないという信頼のようなものが自分の中にはっきりとあるのをわたしは感じた。頷き返したわたしに満足したようにエルヴィンも頷き返し、部屋を出て行った。

ダリウスだけが残されたけれど、このひょろりとした人が「拷問係」だとか「自白係」なんて物騒タイプじゃなさそうなのを感じて少しだけ安心するけれど、新顔といきなり二人っきりで残されたのは、すこし、こわかった。

「まずは言葉が通じなくてはね。森で拾った狼少女に一体いくらの教育ができるかは疑問だが…」

ダリウスは何かを呟いてから、部屋の片隅にあった椅子に腰かけ、わたしにも椅子を勧めた。
木箱をローテーブルのように間に置いて、向かい合ったわたしにダリウスは小さな黒板を見せた。



「では、授業を始めましょうか」








調査兵団の訓練施設を見下ろすことができる団長の部屋から、エルヴィンは体力測定に余念がない中堅隊員達を眺めていた。
まだ彼らに報告はしていないが、次の出兵計画は、来月と決まっている。今回の体力測定を満たしていない隊員は出兵計画案から除隊させ、後方支援へと回す。足手まといを連れていき陣形を崩すわけにはいかない。前線を外された隊員が受ける不名誉の数々は団長であるエルヴィンの耳にも届いていた。名誉しか尊むことができぬ調査兵団の隊員にとって、除隊は失うものが大きすぎた。それゆえ定期的に行われる体力測定は実践さながらの覇気が満ちている。
そんな隊員たちの様子から目を離さないまま、エルヴィンは「どう思う?」と客用の椅子に腰かけたままのリヴァイに声を掛けるが、リヴァイからの返事はない。


「調査兵団である我々の仕事は壁の外に出て、悪戯に巨人を殺すことじゃない。たったこれだけの人数で壁外に生きる巨人を一匹残らず殲滅することなど不可能だ。我々の任務は、壁外で人類の生きる道を、人類が再び食物連鎖の頂点に立つ術を、それらを見つけることにある。従って…、彼女から壁外の情報を得られるというのなら、人死にを出すこともなく何らかの情報が得られると私は考えている。」
仮に彼女が壁外から来たのだとすればだ、と続けながらリヴァイを振り返ったエルヴィンの目は燃えるような意思で瞳孔が開いていた。静かに、誰にも知られず地下で燃える黒々とした土壌。その凶暴さを僅かに垣間見せたエルヴィンを一瞥し、リヴァイは頷いた。


「部下を犬死させるよりは、女一人手懐ける方が話は早いだろう。だがそういった事に関しては俺は専門外だ。あのダリウスとかいう胡散臭い浮浪者に任せ、俺は俺の仕事をするだけだ」
「お前はどう思う?――あの娘にそれだけの知性と利益はあると思うか?」


女ひとりを隔離し、教育を与えるというものももちろんタダではない。
財政を圧迫する調査兵団に与えられる資金はそう多いものでもなく、その一部を裂いてまで、突然降って湧いたような小娘に貴重な教育と時間を割く意味。そして夢子を秘密裏に教育しようとしている以上、政府や市民にはこれまでと同じように活動を続けていると思わせなくてはならない。これまで通りの壁外調査と並行し、教育を続けるリスク。


「あの女がただの詐欺師だとしても、あの女をこちら側に留めておく意味はあるだろう。仮にあの女がただの馬鹿だとしても、あの女の持つ技術を作りだしたなんらかの存在に近づく事ができるかもしれない。あれだけの者をあの素人臭い小娘一人で作りだせるとも思えない。タダ飯を食わせる必要なんてないだろ。奪える技術は全て奪う。それだけだ」
そう言ってリヴァイは立ち上がり、窓へと目をやる。外からは体力測定をする部下たちの必死の声が聞こえていた。リヴァイが守るべきは彼らだった。彼ら以外の何者もリヴァイは持っていなかった。そんなリヴァイの「もういいな?」という押し付けるような視線を受けてエルヴィンは頷き、言葉なく隊員たちを見つめ、何も言わずにリヴァイは部屋を出て行った。




「壁の中から手がかりを得られるというのなら、なんだって、安いものじゃないか」


呟いたエルヴィンの言葉は誰にも届かなかったが、エルヴィンの肩に伸し掛かる全ての生命を受けて重く、じわりと窓を曇らせた。












「わたし 夢子」
「わたし 女」
「わたし 寝る」
「わたし 食べる」


ダリウスの言葉に従って繰り返すわたしに、いくらかの発音を指導するように言いなおさせて、また言わせて、そして黒板に絵を描いて、ジェスチャーをして、何度も何度もダリウスは根気よく言葉を続ける。わたしはその言葉の一音節だって聞き逃さないように、必死でダリウスの言葉についていく。「わたし」は「I」だ。


わたし 夢子
わたし 女
わたし 寝る
わたし 食べる


続けて何度も何度も単純な言葉を繰り返す。でも新しい単語が出てくると、5分前の言葉が耳から抜け落ちてしまう。
ダリウスが食べるジェスチャーをして、わたしに言葉を言うように促すけれどそのひとつ前の「走る」という単語が新しく入ってきた耳は、「食べる」という言葉が出てこない。聞き慣れた英語や、耳障りが良く日本人が話しやすいと言われているスペイン語と違って、全く馴染みのないドイツ語のような力強い音とイントネーションを持つ彼らの言葉はすぐに耳から抜けてしまう。

えぇっと…と言葉の続かないわたしに、ダリウスは怒った様子もなく「食べる」と言葉を繰り返す。それを聞いて「そうだった」と思いだすと、今度は「寝る」が思い出せない。自分の意思疎通を図りたい。なのに耳がついていかない。せめてノートを取れたら良いんだけど……。無意識に手がペンを持ち、書き物をするように木箱の上を滑った。エルヴィンが筆箱を返してくれたらいいんだけど。


「君は字が書けるのですか?」


ダリウスの言葉に顔を上げると、ダリウスはすこし何かを考えたような顔をしてから、わたしに羊皮紙とインク、木製のペンを差し出した。うわ…映画みたい…と一瞬ばかなことを考えたけれど、これは使っていいってことなんだろうかと確かめるようにダリウスの顔色を窺うと、ダリウスが頷いたので、わたしはインクの蓋をあけて、ペンの先をインクに浸した。ルーズリーフならばかなことも沢山書けるけれど、羊皮紙を前に少したじろぐ。なんか、キレイな筆記体で、立派なことじゃないと書いちゃいけないって気がする…。

「さぁ、遠慮せずに使ってください。わたし たべる。…さ?」

ダリウスの言葉を受けて、わたしは日本語で今覚えたばかりの単語をカタカナで書きうつした。
丁度英語を勉強した時「アイ イート」と読みを書いたように耳で覚えた音節をできるだけ正確に書き始める。初めて書く羊皮紙は、木をとがらせただけの回転の悪いペン先が引っかかり、つけすぎたインクが滲み、血のように染みが広がり、とてもキレイだとは言い難かったけれど、文字にして単語帳を作り始めると頭の中が整理されてすっきりとした。これを見ればあとで予習だってできる。――今、切実に学びたいと思っている。どんな事でもいいから、どんな単語でもいいから、ひとつでも多くの事を知りたい!学びたい!
当たり前に辞書や書き心地の良い筆記用具を与えられていたのに、教室でくだらない事ばかりしていた自分に腹が立った。


わたしが大学でやっていたことの意味。


「驚いた…。これは初めて見る形の文字だ。規則性があるようですね。この丸みを帯びた曲線が主語となるのか…」
呟いたダリウスの言葉は通じない。けれど、分かるようになりたい。


知りたい!
学びたい!
そして伝えたい!訴えたい!!わたしの気持ちを――――!!!会話がしたい!!!










手元を照らす蝋燭の明かりだけを頼りに、エルヴィンは昼に行われた体力測定の結果をまとめていた。
四十路を過ぎた中堅隊員のドーソンはいよいよ体力が追いついてきていないらしい。二十歳前後の若者が多い隊内ではかなり高齢の部類ではあった。彼の作戦にない行動を起こす奇行種を前に、慌てる事無く柔軟に判断できるベテランの判断力をエルヴィンは買っていたが、それでももはや追いついていない体力を持った男を部隊に留めることはできない。「離脱」の判を押した後、少し考えて付け加える。―――前線離脱後、壁外調査専属の馬の調教師とさせる、と。馬というものは本来は音に敏感であり、臆病でデリケートな生き物だった。壁外で巨人の立てる地鳴りに驚き、棹立ちになったまま騎手を振り落して逃げる馬も多い。そうなってしまえばいくら鞭を使おうともはやどうしようもできなかったが、ドーソンが育てた馬は肝の据わったものが多かった。巨人にも、兵団の立てる空砲の音にも怯えず常に走り続けられるメンタルを持っている理想的な軍馬ばかりだ。後方支援であっても教官職であれば名誉を損ねるものではない。あの年まで生きて任務を全うした者にとっては栄誉を守る役職であるだろう。


そうやって一人一人の成績や性格、特色を考えながら次の壁外調査のためのチームを組み立てるエルヴィンの眉間には深い皺が刻まれていた。
エルヴィンのこの人選が、彼らの命を握る。だからエルヴィンは隊員のプライベートには深入りはしない。ハンスの新妻が懐妊したと知っても、彼はハンスを前線に送らなくてはならないのだから。



どこからか入った夜風に、とろけていく太い蝋の上で低温の炎が揺れた。
書き物机専用の蝋燭は太く、燭台の上を溜まっていた蝋がぼろろっとこぼれた形のまま冷えて固まり始めていた。そのすぐそばで照らされていたのは、羊皮紙の束だった。ダリウスが送ってきた羊皮紙の束。あの夢子が書いたものだという羊皮紙。そこには、字を書くことは知っていたが、まるで道具の使い方が分からない、紙を与えられたばかりの子供のような不慣れな字が並んでいる。自分たちの文字とは似ても似つかない歪な文字。興奮気味に話すダリウスに、夢子が持っていた書物を出してやればそれを見比べてすぐに同じものだと彼は言った。


「あの娘はすごい!あれは私が求めていた者、そのものですよ!あの娘の文字には規則性がある!決して出鱈目に書いたものではないのです!私はあの娘をもう何十年も待っていたのです!」


酒場で転がっていた油臭い浮浪者だったとは思えない、まるで子供のように目を輝かせていたダリウスの様子を思い出してエルヴィンは苦い顔をする。研究者という生き物は自分の好奇心を満たすモノに「過ぎる干渉」を行う。ハンジがその良い例だった。ダリウスが夢子に過ぎる刺激を与えなければいいのだが…と溜息を洩らしたが、夢子の文字の羅列を眺めると、その興奮が分からないでもなかった。


人類の生きる道を、あの娘なら切り開いてくれるのかもしれない。
神が突然、何の啓示もなくこの壁を作りたもうたような、突然の奇跡がひとつ起こっているというのならば――――


祈る神を持たないエルヴィンだったが、それでも何かに祈らずにはいられなかった。
彼女にできる教育は、惜しみなく、全て行う。
エルヴィンにできる事はダリウスの申請する予算にサインをする事だけだった。