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────ゆっくりと落下していくように、堕落と共に貴方を愛していくのです。
「落下の女王」第二幕女王のアリア
高級車に揺られながら、わたしの頭の中はぐるぐると必死に回転していた。
車の中はエカテリーナさんの纏う香水の、やわらかな乳香のような甘い香りと共に老人特有のいがいがとした臭いにタバコというより葉巻の苦く重厚な匂いが混ざり、更にわたしの頭を混乱させる。向こうの世界ならワーゲンのビートルだろうか。モノクロ映画にでも出てくるような黒くかわいらしいレトロな車の座席には革が貼られている。あっちの世界でこそ珍しくないふかふかのシートだけれど、この世界だとまだまだ珍しい座り心地に一体いくら掛けたんだろうか、と怖くなる。
後部座席の真ん中、わたしの右隣に座ったエカテリーナさんと触れ合う肌がじんわりと暖かくなっていき、エカテリーナさんがわたしとは逆の方向に向かって話す明るい声がどこか遠くから聞こえる。
エカテリーナさんの隣に座る人物────ウィンチェスター卿。
「そう。そうだとも。東の山は穴ばかり増やしてこれっぽっちの鉄クズだって出しやしない。だから私はモーリスに言ってやったんだ、あんな東部の田舎は捨てて、さっさと西の山を買えとな。大体東部は“左”寄りでいかん。あそこの市議会議員は私からの恩も忘れて、労働者の賃金を上げろと要求してきたもんだから工場を全て引き払ってやったよ。これであの村から若者はいなくなり、財政も苦しくなる。だから東部はいけない。エカテリーナ、西部は良いぞ。今度ロックウィローの小山を買い上げるよ。あそこは良い。あそこは素晴らしいぞ、エカテリーナ。深緑の中に小川が流れ、ゴルフでもハイキングでも好きなだけさせてやるとも」
なにが面白いのかひっひっひと引きつるような笑い声を立てる老人に、エカテリーナさんはふんわりと微笑みながら相槌を打ったりして、そうするたびに老人は満足気に潜めるような笑い声を立てて饒舌にべらべらと話を続ける。
苦手な人だ、とわたしは思った。
ウィンチェスター卿の写真は大佐さんから見せてもらっていたけれど、写真で見るのと実際のウィンチェスター卿は随分と印象の違う人物だった。写真の中の彼はいかにも厳格で精力的な経営者であり成功者の老人といった風貌だったけれど、実際の彼はこの世界の全てを斜め角度から眺めては批判し、罵倒する卑屈さで溢れている。ぎょろりと大きな瞳に見定められると息がつまるし、薄い唇が歪んで笑い声を立てるのはいかにも気味が悪い。エカテリーナさんよりも頭ひとつ分小さく小柄な彼は、グリンゴッツ銀行のゴブリンのように何を考えているのか分からない。同じ空間にいるだけで息が苦しくて堪らない。
マフィアのドン。
アメストリスの影の権力者。
武器売買でひと財産を作り上げた、死の商人。
最初に与えられた「ウィンチェスター卿」の知識がそうさせるのかはわからないけれど、わたしはまだ乗ったばかりだというのに一秒でも早く車を降りて逃げ出してしまいたい気持ちでいっぱいだった。それなのに、これから食事だなんて!
会員制レストランへの食事だから、とエカテリーナさんが貸してくれたシックなワンピースからは、エカテリーナさんの甘い香りが漂ってなんだか落ち着かない。表面上はとてもおだやかな二人だけど、わたしはまだ、このウィンチェスター卿とエカテリーナさんがどういう関係なのかも掴めていない。
エカテリーナさんのただのスポンサーなのか。
エカテリーナさんは愛人なのか。
もしくはウィンチェスター卿がエカテリーナさんの多くのボーイフレンドの中の一人なのか。
それともただのオトモダチなのか。
大佐さんからはウィンチェスター卿からの手紙や連絡があればよく調べておいて欲しいという指示はあったけれど、まさか付き人として食事に同伴する事になるとは思いもしなかった。
ああ、やっぱり一言大佐さんに連絡をした方が良かっただろうか。
いやいや、でもまさか食事に行くくらいでどうにかなるわけじゃないし…。いくらウィンチェスター卿がマフィアのボスでも、まさかいきなりただの付き人であるわたしをズドン!と消してしまう事もないだろう。で、でもわたしが軍に雇われて調査をしている人間だってバレたら……ああ、どうしよう!!
そんな具合にさっきからぐるぐると頭の中は、SOSでいっぱいだ。
今ほどメールがあったら良かったのに!!と思ったことはない!!
メールだったらちょこちょこっと打って送ってしまえるのに!メールが無理でもせめて携帯電話!!ちょっとおトイレ〜〜とか言ってすぐに電話してやるのにそれも無理!だってこの時代まだ交換手がいるんだもん!!電話だってフロントで借りるとか、外に出て公衆電話を探すしかない!いやそんな目立つことできやしない!!だってこの車の運転手はウィンチェスター卿の部下で、この車には前後左右にボディーガードの乗った車が走っているんだもの!!付き人といえどわたし一人が抜け出して軍に電話を掛けるなんてできやしない!!
ああ、ローテク社会が憎い!!インターネット!光ファイバー!Wi-Fi!無線LAN最高ッッ!!!
………なんて、無意味な現実逃避を始めたところで状況は何も変わらない。
いくら頭の中で「!」を連呼するように叫んでいても、わたしはマネキンのように押し黙って大人しくじっと座っているし、エカテリーナさんは相変わらず夢のようににこにこと綺麗な顔で微笑んでいるし、ウィンチェスター卿はわたしなんて存在しないかのように饒舌に喋り続けている。そしてそんなわたし達を乗せた高級車は、夜のセントラルを富裕層の集まる地区へと向けて流れるように走っていく。
ああ、大佐さん助けて!!
「出てこないんですよ、どうしても」
表情を曇らせて報告したのはファルマン准尉だった。
彼に調べさせていたのは、エカテリーナとウィンチェスター卿が知り合った経緯、そしてエカテリーナが舞台女優となり華やかな世界に現れるまでの経歴だ。確かにエカテリーナの言う通り、犯人が『落下の女王』を標的とするならば、その対象となるものは劇団きってのプリマドンナであるエカテリーナだ。犯人たちの言う通り『落下の女王』が破廉恥で怠惰で社会に悪影響を与える劇だとすれば、その主役を殺すことは彼らにとって制裁行為であり、またエカテリーナの死はセンセーショナルなニュースとなりアメストリス中を駆け巡るだろうし、そうすれば犯人グループの組織としての株も上がる。
もちろん標的となっているフォッカー中将とハインケル議員の経歴も洗っているが、そうすると必然的にエカテリーナの経歴も洗うこととなる。――――しかし、出てこない。
「彼女が以前、その…」
「ファルマン准尉、続けたまえ」
「…ティファニー劇団に入団する以前は、南部の小さな炭鉱町でストリッパーをしていたようです。その町に工場を持っていたウィンチェスター卿が彼女と接触し、彼女のスポンサーとなってティファニー劇団に入団する事ができたようです。あの劇団は音楽学校やコンクールで賞を取ったような人間ばかりを集めているので、ウィンチェスター卿の後ろ盾がなければ彼女にはプリマドンナはおろか入団すらできなかったようです。と、これが5年前の記録です。しかしこの記録以前の彼女の経歴はどう探っても出てきません」
ファルマン准尉が私に憚るように報告書を読み上げる声を止めたが、それを促す。
公私混同はナシだ、と言い切っているが、それでも部下達にとって上官の“ガールフレンド”の一人である人間の経歴を報告することは躊躇われるらしい。しかし私もエカテリーナも互いに大人であり、そして社会的地位にありついている人間だった。お互いが清廉潔白な聖者である筈がない事は分かっている。ストリッパーか。確かに堅気の娘であればその経歴だけで十分に嫁入りはできないものだろうが、しかし彼女は純粋純朴な処女でもなければ、女学生でもない。
ストリッパー程度の事はやっていてもおかしくなかった。
「戸籍は洗ったのか?」
「はい。しかしそこにあったのは“ヘレン・マクブライド”という娘のものです」
「エカテリーナ・ダーエは芸名ってんじゃねぇのか?」
「その可能性はあります。彼女が納めている税金から手繰り寄せた戸籍は、このヘレン・マクブライドという女性のものですが、しかしこの戸籍と住民票以前のものは先の内乱で焼失しています」
ブレダの言葉をすぐにファルマンは否定し、戸籍謄本の写しを見せた。
そこには確かにヘレン・マクブライドという名前の娘のものだったが、それは以前住んでいたどこかの町からの住民票を移したものをベースに作った新しい戸籍であった。確かにあの内乱では、役所などの公の施設へのテロが多く行われ、多くの戸籍や書類が焼失していたからエカテリーナのように戸籍が新しく作られたというものは珍しくなかった。そうなると、その炭鉱にでも行かない限りエカテリーナの経歴は調べがつかないという事だった。ファルマンから告げられた町は、セントラルから列車で一週間はかかる僻地だった。実際のところ人員を裂く時間がない。一週間もたてば舞台は始まってしまうのだから…。
「しかしウィンチェスター卿とハインケル議員の関係の手がかりは掴めました」
これです、とファルマンが差し出したのは、古い新聞の切り抜きだった。
『ゲリン市、ハインケル市長、平和条約制定により武器産業から撤退を表明。ウィンチェスター社がゲリンに持つブローニング式銃の工場全て閉鎖となり、ウィンチェスター社に5億センズの赤字となり、ウィンチェスター社社長は市を相手取り裁判を起こすも、敗訴は濃厚である』
それは、イシュヴァールの内乱が始まる一年前の地方新聞社の記事だった。
当時、内乱が起こるという事を察知できていなかった世論は長年続くドラクマやアエルゴとの小競り合いを憂い、大国アメストリスを軍事国家ではなく平和国家として国際社会に貢献しようという動きがあった。その波に乗ったのがゲリン市だという。特にゲリン市はアメストリス人とイシュヴァール系民族が共存し、共にコミュニティを作っていた地区だから、『平和共存』という言葉のシンボルとして祭り上げられたのだろう。
しかし『平和』をアピールするためには、銃を作る工場などがあってはいけない。
そこでゲリン市市長であるハインケルは、戦争に加担しないという条約をつくり、そのために武器工場は地方の法律違反となり閉鎖の憂き目となった。更に記事は続き、結局ウィンチェスター卿は裁判に破れ、5億センズの負債を負うこととなったという。
5億センズ。人間が人間一人を殺してやりたいと思うには十分すぎる額だった。
「しかしなんでまたそんな昔のことを…。ウィンチェスター卿といやぁマフィアの黒幕なんスよね?だったら議員一人、チンピラ雇って殺しちまうくらい簡単なもんじゃないっすか」
ハボック少尉の言葉にブレダが苦々しい顔をする。それは私とて同じだった。
ウィンチェスター卿の殺しの性癖を知っているからだ。
「ウィンチェスター卿はただ殺すようなマネはしない。また死因としては残酷な殺し方もしない。ただ、人間が一番大切にしているものを捻りつぶすようなやり方で殺す。恨みは長く、蛇のように執念深いと対立しているマフィア組織には怖れられている。恐らく、ハインケル市長がハインケル議員となり、しがない田舎の市長から国家の中枢に携わる権力を持った今、人生の絶頂になった今のこの頃合を見計らって動きだしたんだろう」
あくまでウィンチェスター卿がこの事件の黒幕であればな、と付け足したブレダの言葉にその場はしんと静まる。
さすがのハボックも顔をゆがめて「悪趣味な野朗だ」と漏らした。もちろん、まだウィンチェスター卿が犯人だと決まったわけではないが、彼こそ聖人のごとく立派な人間では決してありえない人物なのだから、叩けば埃ばかりがでるだろう。
しかし、軍の中枢に携わり国家にすら影響力を持つこの男を、ただの恐喝容疑で引っ張れるだろうか?
この男にとって、他人に恐怖を与えることなどはちょっとした娯楽に過ぎないのではないだろうか?
事実、ハインケル議員もフォッカー中将も自分や家族の生命に危険が及ぶのではないかと眠れぬ日々を送っている。不安で生気の抜けた青ざめた顔をした彼らを眺めることが、あの男の楽しみなのかもしれない。
「ファルマンは引き続きウィンチェスター卿のエカテリーナ、フォッカー中将、ハインケル議員との関係を洗ってくれ。ただし決して深入りはするな。ウィンチェスター卿に感づかれれば面倒なことになる。この男の手が清潔で真っ白だとは決して言えないが、今、我々の任務は『落下の女王』の成功だ」
yes'sir!!と敬礼するファルマンの表情にも緊張が走る。
アメストリスの影の支配者を探る危険さをよく理解しているからだろう。
「決してウィンチェスター卿に深入りするな」
大物の可能性に緊張の面持ちの面々を睨むように、しっかりと言いつけ、そして夢子のことを思い出す。
ウィンチェスター卿がエカテリーナのパトロンだとすれば、いつか必ず接触の機会がある。しかし、夢子の存在は少し探れば彼女が軍に雇われているのかすぐに判明してしまう。ウィンチェスター卿が自分の持ち物に付属する人間を調査しないとは思えない。ウィンチェスター卿ともなれば常にスパイや政敵に囲まれているのだから、むしろ調査しない筈がない。とすれば、エカテリーナの付き人を軍に雇われた人間が行っている事の意味を調査するだろう。もし彼が犯人だとして、この脅迫が彼のちょっとした遊びだとしたら、自身が容疑者に上げられている事をどう思うだろうか。
諜報戦とは先手を打つことが必要だ。
ウィンチェスター卿がただのエカテリーナのパトロンであった段階では夢子との接触もそう怖れることではなかったが、彼がハインケル議員に恨みを持つに十分の理由があると分かった今、あの男と夢子を遠ざける必要がある。
すぐに夢子とウィンチェスター卿を接触させないようにしなくては。