17
彼女の美しさは毒だ、と男は思った。
男はこの老舗レストランで働いてもう40年になる男だった。
150年の歴史を持つレストランは、かつでの城壁作りにも使われたという煉瓦で組み立てられ、しっとりとした空気と毎朝花屋が届ける生花が放つ濃厚な蜜の香りで満たされている。今朝はバタースコッチという品種のバラが届いた。その名前の通り菓子のバタースコッチのような淡いベージュの蕾はいじらしい唇を尖らせるように、開花する瞬間を待ちながらしかし素晴らしい香りを放っていた。まだ珍しいこの品種は、なかなか家庭には出回らないものを大量に届けさせ、レストランの中を満たしている。ただし、料理の香りを邪魔しないほどに。
そのひっそりと、しかし誰の目をも奪うバラも、彼女の前では野草でしかなかった。
なんて美しい人だろうか、と男は思った。もはや60に手が届こうかという年の、そして支配人という地位や貞淑な妻を持ち、紳士が一体どんな美女をつれてきたとしても穏やかに笑みを浮かべて「いらっしゃいませ」と言ったこの自分の顔の筋肉がまるで自分のものではないようだった。女の持つ輝きは筋肉弛緩剤の毒となって、男の頬を惰性させた。
女の濡れたように輝く黒い瞳が自分を捕らえた瞬間、男は息を呑むしかなかった。
彼女の美しさは毒だ。老いていく肌の下に流れる血潮がまるで少年のようにカッと熱くなり、肉体を駆け巡っていく。きっと顔は赤くすらなっていない。むしろ青ざめているかもしれない。女の美しさの前で自分の40年というキャリアなど、ただ一瞬、目を閉じただけの記録となってしまった。―――こんな素晴らしい女性を、席へとエスコートする事ができる事は、神が私に与えてくださった最高の瞬間に違いない。男は惰性した表情筋をプライドの全てをかけて動かし、微笑んだ。女の毒が身体を巡っていく。神様が特別に愛して創ったような完璧な顔立ちは、まるで神話の中の女神のようだった。自分はもう、生涯この女性以外の女性を美しいとは思わないだろう。妻さえも。しかしそれは仕方のない事だった。
「ようこそ」
何も言わず微笑んだ彼女の瞳が笑みの形に歪んだ瞬間、男はこれが生涯最後の恋だと予感した。
付き人のわたしはエカテリーナさんとウィンチェスター卿がレストランのVIPルームへと入っていくのを見送った。
VIPルームのドアの前ではいかにもな黒服で恰幅の良い男ではなく、まるでビジネスマンや銀行員でもやっていそうなホワイトカラーの紳士が立ちはだかり、決して部外者を中に入れまいとしていた。あの人はボディガードではなく、秘書だろうか。ボディーガードたちはレストランの外や見えない場所、それからあのVIPルームの個室や調理場にまで待機しているらしい。この用心深さはまるで王様みたい。実際、ウィンチェスター卿はこのセントラルの影の王様だ。そしてこのレストランもまた王様を迎えるのにふさわしい。
このレストランは大昔からセントラルにあるレストランで、歴代の大総統や他国の貴族がやってきたという由緒あるレストラン。予約は来年までいっぱいというわたしには一生縁のない店だけれど、ウィンチェスター卿は簡単に席を押さえてしまえるらしい。しかも個室になっているVIPルーム。中に入れないわたしは、思わず突っ立っていたけれどすぐにウェイターさんが席を用意してくれる。
人目にはつかない二人掛けの席へと通されるけれどもうどうしたら良いのか分からない。
ここでワインメニューでも渡されたらどうしようか、と脅えたけれど、ウェイターさんはとても感じの良い笑みを浮かべて「エカテリーナ様から賜っております。当店自慢のブラッドオレンジで作ったノンアルコールの果汁酒をお持ちいたします」と言ってくれた。料理も既に注文されているとも。驚いたわたしは、けれども「お願いします」とぽかんと答えただけだった。だって、あんまり驚いたから。
エカテリーナさんは何もかもお見通しだったんだ。
きっとわたしがテーブルマナーで緊張しないように、人目につかない場所をとっておいてくれたに違いない。
そしてメニューも何を頼んだら良いのか、何を飲んだら良いのか分からないって事も気づいてくれていたんだろう。
敵わないな………
溜息をもらしたって、わたしはちっとも素敵な女性にはなれなかった。
「夢子がウィンチェスター卿と接触している?」
ホークアイ中尉からの報告に一足遅かったことについ眉間に皺がよる。
できる事ならばウィンチェスター卿には夢子の存在を隠しておきたかった。夢子もあの魔法薬の件で自分の立場を理解したのだから、まさかあの男の前で自らが魔女であることをバラすような愚かなマネはしないだろうが、しかしもし彼女の力が分かればあの老獪のこと、夢子を手に入れようとする事は間違いなかった。たとえ魔女である秘密を守れたとしても、夢子が私の命令でエカテリーナと接触している事を知られることはまずい。あの過剰に用心深く、それだけ敵の多い老人のことだ、今頃夢子のことは調べてあるのだろう。
しかしエカテリーナが傍にいる事も事実。
あの老人が野生の獣のように用心深い男だとしても、軍から送り込まれたという事実だけの少女をどうにかする事まではしないだろう。ウィンチェスター卿に夢子の存在を知られたことは面倒なことには違いないが、そう慌てることもない。なによりこちらとしても、ウィンチェスター卿について調べておきたかったのだから好都合といえば好都合。彼女にはエカテリーナとウィンチェスター卿がどういう関係にあり、ウィンチェスター卿が劇団にどのような感情を持っているのか感じ取って欲しかった。
「ウィンチェスター卿は目下一番怪しむべき人物だ。今回の件も、舞台の趣旨とは関係なく彼の個人的な恨みかもしれない。ハインケル議員に大損をさせられ、彼の顔に泥をぬられた事をあの執念深い男が忘れるとも思えん。しかしフォッカー中将との関係についてはいまだつかめていない。相手もこういった暗躍のプロだからな。証拠隠滅はお手のものだろう」
ホークアイ中尉はその言葉に頷く。
わざわざ念を押すまでもなく、彼女もまたあらゆる手をつくしてウィンチェスター卿とフォッカー中将の関係を洗っている。まずは情報を待つしかない。私の方でもいくらか軍のツテを頼りにフォッカー中将のゲリンでの行動を探るしかなかった。
「夢子が戻ったら私のところへ来るように伝言を頼む」
ホークアイ中尉にはそれで十分だった。
彼女はそれでもう私が夢子から何を聞き出したいのかわかっていた。上司には恵まれなかったが、優秀な部下に恵まれた事は最も素晴らしいこともひとつだ。いや、恵まれたのは部下だけではなかったな。
「ついでにヒューズにもウィンチェスター卿の過去の犯罪の情報提供を頼むとしよう」
エカテリーナさんが気をつかってくれたから、あんな高級なお店でもくつろいで料理を味わうことができた。
ウェイターさんも感じがよくて、わたしがああいったお店に慣れていないことをよく見通してくれていたおかげで、ツンとした態度とお上品な言葉遣いで呪文よりも呪文らしい名前の料理をつらつらと説明するのではなく、「このトマトは農園から今朝届けられたからすごく甘くて瑞々しいよ」とにっこりと教えてくれて、わたしは一人でも寂しい思いもせずにすんで本当に楽しい食事になった。
けれどもまた、あのウィンチェスター卿と一緒に車に乗り込むと足元からじわじわと嫌な緊張が体中へと登ってくる。
ウィンチェスター卿の目にはわたしは映っていない。わたしみたいな付き人、それもきっと歴代の付き人に比べてうんと地味で平凡なわたしなんて特に空気よりも目にみえない存在らしい。ウィンチェスター卿はあんなに美味しかった料理なのに「味が落ちた」としきりに話しているのをエカテリーナさんが「でもワインは流石だったわ」とフォローしていく。わたしの頭の中は一分一秒でも早く劇場へと戻りますように、と祈るので必死だ。できる事ならばこの車にスポーツカーのような馬力をくっつけてやりたいくらい。
嫌いだ、と思った。
ウィンチェスター卿は嫌いだ。
どうしてだかわからないけれど、この男は全人類を見下してると思った。馬鹿にしてる。
彼はこの世界の王様で、わたしたちは彼の王国で生きさせてもらっている存在でしかないような気にさせる。彼が意識的にしろ無意識にしろ、彼の言動からは他人を見下していることしか感じられなかった。
「ブラッドレイも随分温厚になったもんだな。春先になればドラクマ相手に一発起こしてくれんとこっちは儲からん。寒冷地仕様の火薬の開発が遅れておるから、早く実験場が必要だというのにな。実際、戦争にならんとなかなか実験がすすまん」
「あら、それじゃあドラクマと戦争になったとして、その目的は火薬の威力を試す実験なの?」
「そうともさ。軍に資金援助をしてやってる理由のひとつが、軍が戦場を実験場にしてくれるからだよ」
「じゃあイシュヴァールはさぞ良い実験場だったんでしょうね」
エカテリーナさんの声はいつもの優しく甘い声だった。
けれどふと目に入った彼女の手は震えていた。
太ももの上に優雅に乗せられていた両手が互いを握り締めるようにして、小刻みに震えている。夜のせいかもしれないけれど、どこか顔色も青ざめている。しかしウィンチェスター卿はエカテリーナさんのそんな様子にも気づかず、ペラペラとイシュヴァールで巨額の富を得た話をさも武勇伝のように話している。それは耳を覆いたくなるような残酷な話だった。戦場で新型の兵器をいくつも投入して、新しいデータを得た話。自分の会社が発明した火薬が人体に与える影響。エカテリーナさんの口元には笑みが浮かんでいるけれど、その顔色はもはや真っ白だった。
エカテリーナさんは優しい人だから、気分が悪くなったのかもしれない。確かに、胸糞が悪くなるような話ばかりだ。
「しかし、あのマスタングとかいうお前が贔屓にしているあの男。あの国家錬金術師。あいつはいい加減目障りだよ」
どきっとした。突然出てきた大佐さんの名前に、わたしは脅える。
この危ない権力を持った男が「目障り」ということは、まさか大佐さんに何かする気じゃないだろうか、と身構える。もし、なにかする気だったらこいつを今すぐにでも百味ビーンズに変えて暖炉に放り込んでやりたいところだ。きっと過去最低の味になるに違いない。
「国家錬金術師なんて人間兵器が戦場をのさばるようになればこちらは大損だ。なんせあいつらの維持費はわずかな給料と食費だけで済むんだからな。うちの戦車のように高価なガソリンもいらなければメンテナンスもいらない。しかも小回りも利く。路地裏だろうと建物の中だろうと、平気で入っていく。最高のコストパフォーマンスだ。……心底目障りだ。とくにここ最近のブラッドレイの政策は国家錬金術師の育成に力を入れているからな。戦場では兵器よりも国家錬金術師が重宝される」
「特に、焔の錬金術師。あいつは私の商売敵だ。よりにもよってあんな男を愛人にするとは、私への嫌味としか思えない」
心底忌々しいといったように吐き出したウィンチェスター卿の言葉は、人間の醜い面を凝縮したような冷たい声だった。わたしはもうこの男が大佐さんに何かするんじゃないかと青ざめたり、内臓がカッカッと熱くなったり、体中が混乱していた。怖かった。怖くてたまらなかった。だってこいつは、アメストリスの黒幕で、マフィアのボスで、軍にも政治にも顔が利く男。そんなやつが大佐さんに手を出したら……。
その時、エカテリーナさんがわたしの手を握った。
その手は優しくて、やわらかくて、あたたかくて、無意識のうちに震えていたわたしの手を暖かく包んでくれた。はっとして顔を上げたけれど、エカテリーナさんの顔はウィンチェスター卿に向いている。微笑んでいるのか、怒っているのかはわからなかった。ただ、彼女の手からは無言の同情とわたしへの親愛で満ちていた。
「いくらあなたでも、ロイをいじめたら許さないわよ」
エカテリーナさんが言ったのはたったそれだけだった。でもそれだけで十分だった。
ウィンチェスター卿が「それは怖い」とひっひと肩で笑って、その話はそれでおしまいになった。もしかしたら今までにも何度もこんなやりとりを繰り返していたのかもしれない。ウィンチェスター卿は何度も、エカテリーナさんに大佐さんを憎む言葉を吐いていたのかもしれない。
────エカテリーナさんは、それを一体どんな気持ちで聞いていたんだろうか…。
やがて車は夜の劇場へと到着した。
さっと車を降りたエカテリーナさんに、ウィンチェスター卿が小さな箱を差し出した。ラッピングのされた小さな箱は、アクセサリーが入るには大きくて、バックが入るには小さい箱だった。エカテリーナさんはわたしの前でその箱を開けた。中には香水の瓶が入っていた。エカテリーナさんがそれをバックへとしまった。エカテリーナさんはウィンチェスター卿の額にキスを落とした。
わたしはそれを直視できなくて、じっと足元の石畳を睨んでいた。