18


分かっている。分かっている。ちゃんと分かってる。


だってわたしはもうティーンエイジャーの女の子じゃない。成人した、大人の女だ。
たとえわたし以外の誰もそれを認めなくても、わたしはもう「女の子」じゃない。
目と目が合った瞬間恋に落ちて、そしてまったく清らかなまま、そこに一点の曇りもなく互いを愛し合うなんて物語は少女漫画の中だけのものだって、ちゃんと分かってる。
それなのに、ちゃんと分かっているのに、でも、やっぱり……分かっていない。



黒いシルクの手袋の上から、彼女の手を撫で回したウィンチェスター卿の瞳を見た瞬間、エカテリーナさんがまるで困った子供を宥めるようにあの皺に埋もれた額にキスをした瞬間、その一瞬でわたしは彼女とウィンチェスター卿が一体どういう関係なのか気づいてしまった。エカテリーナさんという一人の女性がプリマドンナになっていく事を応援するお金持ちのおじさま。陰日なたに彼女を助けてくれる、困ったときは手を差し伸べてくれる。そんな、心優しいあしながおじさん。そんなわけがない。ここは現実の世界。人間達が生々しく呼吸して生きている世界。御伽噺の世界じゃない。少女漫画の世界じゃない。


―――――莫大なお金の見返り。それは一体なんなのか…。




エカテリーナさんは、大佐さんが好きなのに。
あんな昔の新聞の切り抜きを今でもずっと大事に持っているのに。
大佐さんと並んで立つ彼女は、まるで映画のワンシーンのように幸福に輝いて、とても、キレイなのに。




エカテリーナさんの部屋に戻り、彼女が鏡台の前に座りイヤリングを外す顔と鏡越しに目が合った。
あ、と思ったときにはわたしはエカテリーナさんから目を逸らしてしまった。そして目の奥がむずむずと熱くなる。だって、そんな、どうして……



「その涙が私を侮辱する意味なら、私はあなたを一生憎むわ」



鋭く刺さった冷たい声に息を呑み顔を上げると、エカテリーナさんは燃えるような瞳でわたしを睨んでいた。わたしは慌てて浮かび出した涙をぬぐって、無理やりに口元に笑みを浮かべた。
エカテリーナさんが目指すものを、彼女が今までやってきた方法を、否定する権利なんてわたしは一グラムだって持ってなかった。エカテリーナさんはそんなわたしの頬に手を置いて、微笑んだ。


「いいこね。本当にいいこ。あなたみたいな娘が欲しかったわ」


エカテリーナさんは、わたしを通して未来の娘を見ているような、いとおしむような、「女」の先の「母」のような目をしていて、さっきまでの燃えるような瞳ではなかった。わたしは日本に残してきたお母さんも、わたしを産んだ日の朝はこんな目をしていたんじゃないだろうかという気がして、ぎこちなく浮かんでいた唇の笑みがだんだん本当の笑みになって、ちょっと俯いて照れた。
エカテリーナさんは「もう寝なさい。明日も早いから」とどこかで何度も聞いたようなありきたりな言葉を言ったけれど、それすらもなんだか特別に感じられた。



「あ、そうだ、あの、さっきの香水もリストに載せますか?」
贈られたプレゼントは全てリストにしておくようにと言われていた事を思い出して、でもそれはもっとプライベートな贈り物なのかもしれないしわたしが首を突っ込むことじゃないかもしれないけど、と内心で思いながら恐る恐る尋ねると、彼女は少し考えてから首を振った。




「いいわ、決して忘れない贈り物だから」



エカテリーナさんに贈られるプレゼントの数ははんぱじゃない。
彼女だって忘れてしまうようなものだってある。だから全てリストにして書き出しておいて、贈り主に会うときにリストを見直して相手の気分を害さないようにしている。けれどウィンチェスター卿からの贈り物は、決して忘れないんだという。それがまた意味深な気がして、わたしは「はい」と頷きながらちらっと大佐さんの顔が脳裏を横切っていった。





ベッドの中から真暗な天井を見上げながら、エカテリーナさんのことを考える。
美しい人に生まれたら、それだけできっと人生は万事うまくいくオールオッケーイージーモードなんて単純に思っていたけれど、もしかしたら彼女の人生は彼女のもつその美貌ゆえにわたしが想像するよりももっと複雑で、もっと困難で、そしてもっと制約の多いものなのかもしれないと思った。
もしかしたら、それはわたしがまだ知らない大人の女性の人生のことなのかもしれないけれど…。




わたしは、美人じゃない。
本当に普通。魔法という個性がなければ、大佐さんの前で「山田夢子」という人間なんて、その他大勢の一人に過ぎない。きっと、このセントラルで大佐さんに恋するその他大勢の女の子のひとり。
きっと大佐さんはわたしを見つけてくれない。
町ですれ違っても、きっと目にも留まらない。――――でも、絶対にエカテリーナさんは違う。
そういうことが、わたしにはたまらなく寂しかった。エカテリーナさんに嫉妬しているんじゃなくて、つまらない自分がただ、寂しかった。前の自分だったら、もっと明るく天真爛漫だったのかな。自分にこんなにがっかりすることはなかったのかな。あの学校にいた頃はきっと自分はなんでもできるって気がしてた。どんな可能性だってあると思ってた。でも一日一日過ぎていく度に自分のレベルがわかってしまう。5歳のわたしならクィディッチのシーカーになれたし、キャビンアテンダントになれたし、素晴らしい大人の女性にもなれたけれど、20歳のわたしになれるものは結局20歳のわたしだけ。



「大佐さんに釣り合えるような人になりたいな…」



呟いた声はそのまま睡魔と一緒にとろとろとした眠りの中に沈んでいった。
















「で、ウィンチェスター卿にはどんな印象を持った?」



大佐さんに昨夜のことを報告し終われば、大佐さんは目を細めてわたしの言葉を待った。
秘密の隠れ家と化したジャンたちの寝床には、わたしと大佐さんしかいない。その事にどきどきするよりも、つつがなく、支離滅裂じゃない言葉で、冷静に、きちんと、大佐さんに状況報告できるか心配する気持ちの方が大きかった。ここで感情に任せて擬音語擬態語いっぱいのいかにも「女の子」の言葉で話しを続ければ、大佐さんに呆れられてしまう気がしたし、そんなことは大人の女性のすることじゃないと思った。


「嫌いです」


あ、しまった。ちがうちがう!やりなおし!!
目を丸くする大佐さんに、あわてて「ちがうんです!」と取り繕うもさっきまでの背伸びしたわたしのポーカーフェイスは崩れてしまう。ちがうちがう!こんな予定じゃなかった!!


「いや、だからその、……うん、嫌い。やっぱり嫌いです。あの人なんかおかしいです」


でもそうだな。やっぱりあんな人嫌いだ。なにもかも嫌い!むかつく!ほんっとむかつく!!あのスケベ爺ィ!!目をまんまるにしていた大佐さんは、普段の「クール」って印象からは一変、もともとの童顔が際立つ。そんな大佐さんが「嫌いねぇ」と小さく笑うように呟いて、続きを促した。



「理由は?」
「あの人はまるで全人類を小ばかにしてる。それにどこかで戦争が起こることを期待してる。自分の商品である武器が売れるからじゃない。武器の性能を実験したいから、どこかで悲劇が起こることを望んでいる。他人の悲劇を足がかりにして、もっともっと高性能の武器を作りたがってる。……だから、国家錬金術師を目障りだと思ってる」
大佐さんは「だろうね」と分かっていたように頷いた。



「ウィンチェスター社は作っている銃器から軍靴などのものはともかく、目玉であった大砲や重火器などの多くは国家錬金術師にとって代わった。その影響からウィンチェスター社の株にも影響が出たというし、我々国家錬金術師は商売敵だ。同じ組織内でウィンチェスター製の重火器を支持するものや、国家錬金術師を支持する者などで利権争いが起こっている。敵は他国ばかりでなく足元でも互いを潰しあっている。そのせいだろう。特に、焔を操る私などはまさしく目障りの代表さ」


わたしが全部言わなくても、大佐さんは分かっていた。ウィンチェスター卿が大佐さんをどう思っているのか、を。
わたしは俯いて、いろいろ言葉を捜したけれど出てきたのはやっぱり「嫌いです」という一言だった。そりゃフィルチのことだって嫌いだったけど、でもフィルチはまだ可愛さがあった。多少愛すべきところがあったから、わたしたち学生はフィルチをよくからかったもんだ。でもウィンチェスター卿は違う。



「まぁ、いずれにしても何もなくてよかった。あの色ボケ爺は若い女の子が好きだからね」
「まじアウトオブ眼中でした!」
ぐっと拳を作ったわたしに大佐さんはまた苦笑する。



「それは彼に見る目がないだけだ。君はこれから大人の女性になっていくし、その過程で好きな男性も現れるだろう。そしたらまたどんどん綺麗になっていくとも」
「……大佐さん、そんなあむゎーい言葉よく出てきますね」


ジャンだったら逆立ちしたって出てこないですよ、と付け加えると「私は正直者だからね」とウィンクが返ってくる。キザだって言葉は大佐さんのためにあるのかもしれない。お世辞でもなんでも、そのまさしく『好きな男性』からこうも直球に言われると恥ずかしい。首が熱くなってくる。いやいや、相手は大佐さんだ、大佐さん。そんなあむゎーーーい言葉は千回も言ったに違いない。



「にしても、ここの連中は秘密ばかりだな」
大佐さんはさっきのあむゎーーい台詞を吐いた人間と同一人物とは思えないような苦々しい顔で吐き出す。
「スラムへの聞き込みほど、証言に信憑性がない」



確かに…。みんながみんな、互いを蹴落としあうコミュニティだもんな。みんな手を取り合って、仲良くゴール!みんなが一番!白雪姫が13人、王子様は18人!小人も悪い魔女もみんな先生がやってくれるの!…なぁんて、そんな甘くて優しくてなんの責任もない世界じゃない。舞台にあがれるように、「Aye,ma'am」(かしこまりました)というたった一言の台詞をもらえるように、一瞬でも観客の目線を独占できるように、そして、舞台を支配する女王になれるように…みんな誰ひとりとして油断しない。突然女王の侍女として現れたわたしに、まだ劇団の人たちは”警戒”しているから、わたしとの間には一線がある。けれどもそれはわたしがまだ海のものとも山のものともしれない、どこから出てきたのか分からず、どういう人間なのか分からないからだ。もしかしたら噂は本当で、わたしがどこかの有力者の娘で憧れのプリマドンナに付きまとっているのかもしれないとか、支配人の愛人の娘だから、いじめたら自分の首が飛ぶとか、そういうデマがデマなのか見抜いていないからだ。


わたしが舞台なんて無知のどん底で、楽譜だって読めやしないちょうド級のど素人だと知ったら………うわぁ、想像したくない。




露骨に苦い顔をしていたのが分かったのか大佐さんが苦笑する。
「しかし何もなくてよかった。君をウィンチェスター卿から遠ざけようとした途端に接触しているんだからな。相変わらず肝を冷やしてくれる…」
「ほ、ほんとご迷惑をおかけしてます…」
「まったくだ」
「う゛っ」



すぱっと言い切ってくれる大佐さんが笑ったとき、部屋にジャンが入ってきた。
ジャンがわたしの顔をしてちょっと困ったという表情を隠すような表情をする。なにか深刻な話があるに違いない。
「じゃあわたしはエカテリーナさんの傍に戻ります。何かあったらまた呼んでください」
「ああ、そうしよう」


ごくろう、と大佐さんはひらひらと手を振り、ジャンが「悪ぃな」とわたしの頭を撫でてった。















あからさまにそそくさと部屋を出て行った夢子の背中を見送れば、大佐の表情は一変する。
それまでのへらへらとした表情から、すぐにいつもの馴染みの抜け目ない顔になる。女子供はこの顔を知らねぇから、無責任にきゃーきゃーはしゃぐ事ができるんだろう。


「あいつも随分気ィ遣うようになりましたね」
「元々人の感情の変化に敏いところのある子だったからな」
「大佐が思ってるよりよっぽど、子供はみんな大人なんスよ、夢子もエルリック兄弟も」
大佐がまるで日向で孫でも眺めているじじいみたいに目を細めるもんだから、思わず噴出しそうになるのを堪えながらそう言えば、大佐は「かもしれんな」と素直に苦笑した。確かに、ここの連中のなにが嘘でほんとかわかんねぇ話ばっか聞いてると、夢子くらい馬鹿正直な部分には随分救われる。
しかしそんなのほほんとした話は終わりだ。




「大佐、エカテリーナの件ですが、どんだけ洗ってもショーガール以前の経歴が出てこないんスよ。銀行口座から訴訟を起こして、あとは法的に暴く…ってな荒業なら残ってますけどね。偽装戸籍で口座を作ることは法的に禁じられてますからね」
「それは最終手段だな。軍部はこの舞台さえ成功し、舞台目当てに投資がされ続けるのならば彼女の戸籍が偽装だろうと興味はないだろう。第一、そんな荒業使えば今まで秘密裏に調査しているのが全て無駄になる」
「経歴については、もうちょっと粘ってみましょう。」
大佐はすぐに当然だといわんばかりに頷いた。にしても、仮にも”恋人”の経歴をこうも冷静に受け止め、そして当然のようにその経歴の明らかに不可解な点を調べ上げようとするこの人の精神構造は大したもんだ。大佐になるだけある。




「それから、こっから本題。ウィンチェスターとフォッカー中将が同時期にゲリンに滞在していた事が分かりました」
途端に大佐の目が光る。さっさとそれを言わんか、と言わんばかりだ。
おっかねぇな、と内心で溜息を漏らしながら報告書を読み上げる。




「フォッカー中将はどうもウィンチェスター卿を裏切っていたようです」




ウィンチェスター卿がゲリンを撤退する原因となったのは、ハインケル市長が平和条約を制定したせいで自身の持っていた武器工場が禁止されたからだ。アメストリスは各州が独自の法律を持つことができる。州法だ。その独自のローカルルールのせいでウィンチェスター卿は5億センズもの不利益をこうむった飢えに工場は倒産。


そしてその後、イシュヴァールの内乱が勃発。ハインケル市長は雲隠れ。
そしてうやむやになった平和条約は軍部によって停止され、イシュヴァール文化と共存していたゲリンはあっという間に最前線となった。そしてそこへやってきたのがフォッカー中将だ。戦場になれば武器が必要となる。土地勘もあり、また地域にコネクションもあったウィンチェスターがフォッカー中将に擦り寄ってきたのは当然のことだった。また彼もウィンチェスター卿の財力や影響力を持って随分うまい汁をすすったらしい。彼が現在の地位にあるのはウィンチェスター卿のコネクションを利用したこともある。だがフォッカー中将が最後に選んだのはよりにもよってウィンチェスター卿のライバル社だった。
内乱に便乗し、古巣であるゲリンを取り戻そうとしていたウィンチェスター卿は激怒した。


しかしフォッカー中将はさっさとライバル社の武器を採用してしまった。そしてウィンチェスター卿とフォッカー中将は仲たがいをしたまま、喧嘩別れとなり内乱は終結。結局ゲリンを取り戻せなかったウィンチェスター卿の恨みは根深い、と。





「なるほど。今回この『落下の女王』の担当をしているのはフォッカー中将だ。この舞台が潰れ、軍への資金援助が滞れば彼の面目は丸つぶれ。優雅な年金暮らしとはいかんだろうな」



っとに、敵にしたくない相手だ。ウィンチェスター卿も大佐も。一を言えば十を理解しちまう。
ウィンチェスター卿はこの自分の手腕を十分に発揮できる舞台というテリトリーを利用して、ゲリンにまつわる因縁の人間二人を捻りつぶそうとしているらしい。まるで蛇みたいに執念深い男だ。



「ウィンチェスター卿は軍部のアキレス腱だ。“大佐”ごときでは、“やんちゃ”が過ぎないよう見張り、中将と議員を守り、この舞台を成功させることしかできないだろうな…」


大佐が自嘲するように言ったが、確かにそれしかないだろう。
よりはっきりとウィンチェスター卿があのくだらない脅迫文の犯人だと掴めば、あとは上層部にまわしちまう。そうすりゃ上の連中たちのコネクションでこの脅迫文だって軽いジョークなんてことになるんだろう。大佐としてもへたな正義感でウィンチェスター卿や上層部に噛み付いて出世の妨げになるのは避けたいところだろう。俺たちは軍人であって警察じゃない。

「こんなくだらん事で人死にを出すわけにはいかん。中将と議員の身辺警備を強化しろ。それからウィンチェスター卿からはくれぐれも目を離すなよ」
「Yes'sir!」


何事もなく舞台が終わっちまえば良いんだけどな…