20


――――あなたが憎い。そして、愛しい。


あなたが私をあの村から連れ去った時、私はあなたの腕に抱かれていた。
あなたの腕の中から、あなたの背中の向こうで村が燃えているのを見た。
それでも私は冷え切り、疲れ果て、しかしあなたに甘えるようにそのお首に腕を絡ませた。
あなたの乾いた肌に口付けを落とし、少女の私が駆けた野山が燃える熱風で火照った肌を摺り寄せた。
私は悟った。私はきっと、老婆にはならないだろうと。
私は悟った。私はきっと、母親にはなれないだろうと。



私には、あなた以外の人生なんて必要ないのだから。










そう耳に聴こえてきたのは、エカテリーナさんのアリアだった。
『落下の女王』のアリア。それはしっとりと濡れたような声色で、キリキリと張り詰めたような緊張感の中にあって、頭の奥からじんわりと古い思い出や忘れていた気持ちが零れ出していくような、とろりとした柔らかさがあった。胸の奥でキィンと硬質で冷たい水がじわりと溢れ、濡れていく。誰か愛おしい人を思い出さずにはいられない。愛されたい。奪ってしまいたい。抱き締めたい。この世界のどこかにいる、私を愛してくれる人を、強く抱き締めて、愛したい。そんな原始的な欲望い胸がうずいた。――――わたしは、泣いていた。


濡れた睫毛を瞬いたとき、隣に誰かが立った気配で顔を上げると、それは大道具係りのグレッグだった。
さっきまでの歌声の余韻を平気で振り払って、舞台で指示を飛ばすエカテリーナさんを観客席からぼんやりと放心しながら見つめていたわたしに、グレッグはにやりと顔を歪めて目を細め、「エカテリーナの魔法に掛けられたな」と笑った。魔法?と聞き返したわたしにグレッグはどこか誇らしげに頷いた。


「エカテリーナは魔女さ。それもとびっきり上等のな。エカテリーナの書く詩にはエカテリーナの魂と人生が篭っている。だから彼女は上っ面な技術で歌詞をなぞるんじゃない。歌に魔法を込めて歌い、その曲を聴いた俺達はもうエカテリーナの虜になるんだ」
もしここに本物の魔女がいたって、エカテリーナには勝てないだろうよ、とグレッグは笑った。



わたしは「ええ、まったく」と答えながら心の底から頷いた。勝てるわけがない。










ぼんやりロビーの椅子に腰掛けていたら、ふいに目の前に紙コップに入ったココアが差し出された。
いかにも暖かく甘い湯気を出すカップから顔をあげると、それはいつものキリリとした表情ではなく、優しいお姉さんの顔をしたリザさんだった。


「ほら、あったまるから」
「あ、りがとうございます」


お尻をひとつずらしながらリザさんからココアを受け取れば、リザさんが隣に腰掛けた。
リザさんは自分にも持ってきていたコーヒーに口をつけ、わたしもそれに倣って大人しくココアを飲んだ。甘いココアを舐めるように一口口に含むと、じんわりと細胞ひとつひとつに染み渡るように甘さが広がって、思わずほうっと息を吐いた。そうしたら、それまで凝り固まっていた緊張した気持ちが溶け出すように、溜息になって漏れていった。


「エカテリーナさんって、すごい人ですね」
リザさんは「そうね」と短く返しただけだけど、その一言の中には心の底から同意してくれた人間の意志があった。



「わたしは駄目。全然駄目なんです。……さっき、エカテリーナさんの歌を初めて聞いたんですけど、なんか、もう、敵わないなって。ううん。歌だけじゃなくて、全部駄目。わたしはちっともキレイじゃないし、地味だし、エカテリーナさんが持っているキラキラとしたものの欠片もない、つまらない人間なんです」


ココアがそうさせたんだろうか。リザさんが女の子みたいに「やだそんなことないよぉ!夢子だってすっごく可愛いよぉ!」とその場限りの無責任な言葉を投げなかったからだろうか、黙って見守ってくれていると感じる優しさのせいだろうか、わたしの口からはここしばらく胸につっかえていた悲しみがじんわりと漏れ出した。リザさんがコーヒーを一口飲んで、そして微笑んだのが空気で伝わった。


「私にもそんな頃があったわよ」
「うそ、リザさんに?」


だってこんなにキレイで、格好良くて、頭だって良くて、大佐さんをしっかり補佐できるのに。わたしは駄目。全然駄目。大佐さんを補佐するなんて百年生きたってきっと無理。足を引っ張ってばかりだもん…。
今回のことだって、せっかく大佐さんがわたしを思い出して使ってくれたのに、余計なことしてばかり。



「私の作る料理は完璧なの」
「完璧?」
「そう、完璧。レシピ通り、完璧に調味料を量り、完璧な大きさに野菜を切り、完璧な量の肉を、完璧な時間と温度できっちりと煮る。そうやってできた料理は完璧で、写真みたいにきっちりとしているけれど、でも、おいしくはないのよ。まるでキレイな写真を食べているみたいに素っ気ない味がする。……でもきっと、あなたが作る料理は違うと思うの。肉の大きさが不ぞろいでも、野菜が生煮えでも、ちょっと塩辛くても、それでも食べた瞬間思わずにっこりしてしまうような料理ができる筈。不器用でも、完璧じゃなくても、あなたは誰かを想っていつも一生懸命で、だからつい好きになってしまう。私はお人形のようにキレイでソツがない女の子より、一生懸命な夢子が好きよ」



思わずリザさんを見れば、リザさんがにっこり笑うから、わたしは首の辺りがカァッと熱くなっていくのを隠すようにココアを飲んだ。耳まで熱い。なんだか泣きそう。ココアのカップでにやけた顔を隠したつもりだったのに、つい小さく照れ笑いが漏れて、リザさんも優しく笑った。



――――憑き物が落ちたような気がする。
エカテリーナさんと出会ってから、ずっとわたしは自分がキレイじゃないとか、そんなことでぐじぐじしてたけど、でも彼女とわたしは違うDNAでできた違う人間なんだもの。憧れることはできるけど、エカテリーナさんに成り代わる事はできない。わたしは、わたしのままで良いんだ。



「リザさん」
「ん?」
「ありがとう」



リザさんが「良い子ね」と頭をそっと撫でてくれて、まるで子供扱いなのに、もうちっとも気にならなかった。リザさんの目に映るありのままの自分で良いんだって気がした。わたしは、わたし。大丈夫。きっと大丈夫。
















夜になって、エカテリーナさんが部屋に戻ってきた。
もう本番まで日がなく、最後の通し稽古を終わらせてきた表情は疲れきっていて、わたしはエカテリーナさんがいつか好きだと言っていたホットミルクにたっぷり蜂蜜を溶かした飲み物を作って出迎えれば、メイクを落とした顔で微笑んでくれた。そうすると、キラキラとした大きな瞳が優しく歪んで、メイクをして舞台で歌っていた時よりもどこか幼く見えた。


「ありがとう。ねぇ、夢子。あなた何か欲しいものはないの?」
「欲しいもの、ですか?」


………魔法省にはもう少し優しさとか労わりの精神とか部下を愛する心が欲しい、ですかね!
異世界に流れた魔法生物だの魔法使いだのの調査をこんないたいけな新人に丸投げするサディストな組織なのは間違いない。早く予算が下りて、わたし以外にも人員を割いて経費をもっと……って、そういう話じゃないか。特にないですねぇ、と答えながら明日エカテリーナさんが履くストッキングにアイロンを掛ける。この時代のアイロンって、日本で使っているようなコードレスどころか、まだ炭火アイロンを使っているから集中しないとあっという間に絹のストッキングが灰になる。片手鍋みたいな鉄の容器に熱した木炭が入っているの。それで皺を伸ばしていくんだけど、これはなかなか集中力が必要だ。


「欲がないわねぇ。前の付き人は私のクローゼットからいくつもシャツやコートを盗んでいったわよ?」
「……前の人がクビになった理由ってそれですか…」


そらクビになるわ、と内心で呆れた溜息が漏れたわたしに、エカテリーナさんは前任者がいかに上手に彼女のアクセサリーやコートを盗んでいったのか、その手腕をまるで探偵小説のあらすじでも説明するように楽しげに言葉を続けた。しばらくそんなおしゃべりをしながら、わたしもアイロンをすっかりハンカチにまで掛け終わってしまい、木炭を暖炉に捨てたり、アイロン台を畳んだりしていれば、エカテリーナさんがわたしに手招きした。


招かれるまま、言われるがまま、エカテリーナさんの鏡台の椅子に腰掛ける。
まるで小さな頃に憧れたお姫様の鏡台みたいなそこには、ところ狭しと口紅やブラシや化粧水の瓶が並んでいる。それらはとてもキラキラとして、高価なものに見えたけれど、エカテリーナさんにとってはこれっぽっちも価値がないもののように無造作に置かれていた。


「目を閉じて」


そう言われるがまま大人しく従い、エカテリーナさんの細い指がわたしの耳たぶを触ったかと思えば、甘い痛みのような締め付けを感じて目を開けそうになる。でも「まだだめよ」と悪戯でもするように笑う声に大人しくし、ようやく女王様の許可を得て目を開けると、鏡に映るわたしの耳にはちいさな真珠のイヤリングが光っていた。


「思ったとおり、夢子の黒髪によく映える」
「あの、これ…」
「このイヤリングは私からの小さなお礼よ。あなたは本当によくやってくれたもの。でも、このイヤリングはちっとも高価なものじゃないし、新品でもないの。悪いわね。あなたが欲しいって言うならこの部屋のどんな宝石だってあげるけど、でも、私はどうしてもその真珠を貰って欲しかった」
鏡越しに目が合ったエカテリーナさんに「どうして」と尋ねるわたしの髪を撫でながら、エカテリーナさんが薄く微笑んだ。その笑みの向こうに見つめているのが、わたしではない誰か遠くの人だと分かった。



「これ、私の母のものなのよ。母の母のそのまた母の、ずーっと続くものなの。厭でしょう、重くて?」
「そ、そんな大切なもの…!駄目です!無理です!貰えないです!だって今度はエカテリーナさんの娘にあげないと!」
そんな大事な家宝、もらえる筈がない!と慌てて耳から取ろうとするわたしの手を、やさしく、でもきつく握って制止させたエカテリーナさんは、鏡越しに真剣な表情をしていて、わたしも思わず大人しくした。



「私は母にはなれないわ。―――私は女王だもの。
母親という崇高な存在より、エカテリーナという生き物である事を選びたいの。でも、そうやって生きるにはこのちっぽけなイヤリングが足枷になるのよ。母の母の、そのまた母親がしたように、愛した女の子の耳にイヤリングを飾ってみたいのよ」



私の最後のわがままだから、とわたしの髪を撫でるエカテリーナさんに、わたしは「NO」とは言えなかった。おずおずと頷くわたしに「大好きよ」と囁いて、エカテリーナさんはわたしをぎゅっと抱き締めた。抱き締めたまま「明日は、前夜祭があるわ。その時にはきっとこのイヤリングをして頂戴。わたしがうんとおめかししてあげるから」と楽しそうに、歌うように囁いた。



前夜祭を終えれば、落下の女王がいよいよ始まる。
事件のことも、あの脅迫状の犯人だろうウィンチェスター卿の証拠もなにも掴めないまま、幕が上がってしまう。そうしたら、エカテリーナさんともさよならだ。



「寂しくなります」
「そうね。あなたとお別れするのは寂しいわね」
でもまたきっと会えますよね?と聞きかけて、それは無理だろうなと勝手に分かってしまう。
今は特別の状況だから、こうして会えるけれど、本当なら一生口をきくことだって出来ない相手だ。でも、でももしかしたら、ひょっとしたら、大佐さんにお願いしたら会わせてもらえるんじゃないだろうか。わたしが会えなくても、大佐さんならエカテリーナさんと会える。その時に手紙くらい渡してもらえないだろうか。デートにくっついていくような野暮はしないから。


背後からエカテリーナさんのつける香水の柔らかな匂いがして、それを胸いっぱいに吸い込んで、わたしもぎゅっとエカテリーナさんの腕を抱き返した。



「ずっと、ずっと大事にします。結婚式にはこのイヤリングをつけます」



もっともっと強くエカテリーナさんの腕を抱き締めた。胸に溢れるのは、香水の匂いばかりじゃなくて、エカテリーナさんへの気持ちでいっぱいだった。エカテリーナさんが「必ず見に行くわ」と笑うのを、なんだか眠たくなるほど幸せな気持ちで聞いていた。