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「さぁ、女王の秘密のハレムへと!!」
道化師役の誰かの声がそう高らかに宣言したかと思えば、パーティー会場はわっと溢れるような音楽の海だった。
アメストリス中の楽しいことを掻き集めたような、色と音の洪水!まるで昔の貴族のようなドレスや夜会服に身を包んだ紳士淑女のみなみなさまのそばを通れば、葉巻や香水や上等のワインの香りでくらくらとしそう!オーケストラが華やかで、でもエキゾッチクな音楽を演奏する。パーティー会場は宝石箱をひっくり返したような世界。『落下の女王』の演目にあわせ、中東風に、どこか神秘的で怪しげに落とされた証明の中、シャンデリアばかりがキラキラと夢のように輝き、ムスクを炊き、大理石の床に敷かれた絨毯の上で男の人が人形を操り、その隣ではまるで操り人形のように、人形の動きと一糸違えず踊り子が艶かしく踊る。千夜一夜の世界に放り込まれたような、不思議な世界。まるでロマのテントに迷い込んだみたい!イフタフヤーシムシム!!(開けゴマ)と思わず叫びたいほど、目を丸くするわたしも異国の衣装を着ている。
青いリボンが腰できゅっと結ばれた、シルクでできたドレスには大粒のガラスのビーズが散りばめられていて、中敷のないシルクの靴はぴったりとわたしの足にフィットして、丸いルビー色のガラス玉で作られた髪飾りで自分まで物語の一部になったように胸が高鳴った。無知な若い娘を舞い上がらせるには十分だった。
けれど、耳に飾られたエカテリーナさんからの真珠のイヤリングが、わたしを大人しくさせる。
真珠なんて高価なもの持っていないけれど、それ以上に、このイヤリングの持つ価値に震える。落としてしまったら、と考えると怖くてつけてられない。できる事なら耳から取ってしまって、宝石箱に入れてきちんと閉まっておきたい。エカテリーナさんが気が変われば、いつでも金庫から取り出せるように。
エカテリーナさんは、どういうつもりでこんな大切なイヤリングをくれたんだろうか。
エカテリーナさんを探すけれど、エカテリーナさんは沢山の人の輪の中でその髪の毛一本だって見つけることができない。
この舞台の演目で彼女は女王という役だけど、実際のところだって女王様だ。エカテリーナさんに一目会うためにこれだけの人が集まり、エカテリーナさんの特別な舞台を一夜見るために、とんでもない額のお金が軍に寄付される。目が合えばどきまぎするような、本当の王子様みたいな男の人達が、きっちりとタキシードを着込んで、少し緊張に顔を赤らめてエカテリーナさんに一言「舞台を楽しみにしています」と言うためにそわそわと輪の中に入ろうとしている。
付き人のわたしだって近づくことができやしない。
「おい、夢子」
すごいなぁ…と遠巻きに人の輪を眺めていたわたしの腕を引っ張ったのは、グレッグだった。
まるでアラジンみたいな裾がきゅっと結ばれたズボンに、ゆったりとした上着を着たグレッグは、プロテインなんて飲まなくても普段の仕事で鍛えられた生きた筋肉によく似会って、ばっちり着こなしていた。
「おぉ、なんか違う人みたいですね!」
「…あのな、そういうのは男の台詞だろうが」
「あらー、待ってたらよかったですかね?」
「エカテリーナの部屋から喉の薬を取ってきてやってくれ」
さらっと流したな、と苦笑したのも一瞬で「喉の薬?」と尋ねたわたしにグレッグは思いっきり「そんなこともしらねぇのか」という顔をする。その顔にはつくづく、お前どっから雇われた付き人だ?と黒マジックでしっかりと書かれていて、すみません…と謝るしかなかった。
「稽古中によく使ってるやつだ。多分鏡台にでも置いてあるだろ。タッセルのついた小瓶だ。こんだけ葉巻やらムスク炊いてりゃ空気も乾燥してくるから喉が心配だろう。普段ならこんな前夜祭は出ないんだが、随分気合が入っているみたいだからなぁ」
「エカテリーナさんが本当に好きなんですね」
思わずぼろっと漏らしてしまった言葉に慌てて口を抑えるけれど、いかに魔女といえど言ってしまった言葉を拾うことはできない。ぎょっとした顔をしたグレッグが、すぐに眉を寄せてくしゃりと顔を歪め、そしてぐしゃぐしゃと頭を掻いた。その顔には、しまったなぁ、と書かれているようで、わたしまでしまったなぁ、という顔になる。
「なんて言うんだろうな。好きだ、と言ってしまえるもんでもない。でもあの女が俺を求めたら、俺は全てを投げ出す覚悟がある。でも女としてだけ見てるわけじゃない。尊敬してる。人間としてこうありたいという目標ではあるけどな。アランのように崇拝している、ってのもちと違う。妙なもんだな」
グレッグは、「ンなことお前に言っても仕方ないけどな」と、困惑しながらも、それでも気持ちが良いくらいの顔で笑った。つられてわたしも笑顔になる。素敵な関係だと思った。さぁ、早く走って取ってこい、と犬でも追い払うようにしっしと手を振ったのは照れ隠しだったに違いない。ダッシュしてきます!と軍人のように敬礼までして、わたしはエカテリーナさんの部屋へと走り出した。
エカテリーナを取り巻く崇拝者たちを掻き分け、彼女の前に顔を出せば、何も言わずともエカテリーナは私を見つけて微笑んだ。神が特別愛したような完璧な笑み。初めて彼女を見たのも、こんなパーティーの会場だった。あの時の息を呑んだ気持ちは決して忘れない。ああ、素晴らしい女性だな、とちらと思ったが口に出すことはせず、ひとつ小さく頷いて人の輪から離れれば、エカテリーナにはそれで全て通じていたらしい。崇拝者たちが「すぐ戻ってきますよね?」と口々に困惑した声を上げているのを、まるで蝶が気まぐれに花から花へと移動するような身軽さで「もちろんよ」と返している声が届いた。
何も言わず、振り返りもせずにパーティー会場を離れ、エカテリーナが確実に付いてこられるペースでゆっくりと、誰もいないポーカールームへと入れば、絶妙なタイミングでエカテリーナがするりと部屋に入ってきた。背後からふわりと燻るように漂う彼女の愛したイランイランの香水の匂いが胸に届く頃、ゆっくりと振り返ればどことなく嬉しそうな顔で、しかし読めない笑みを浮かべたエカテリーナが立っていた。腕を組み、胸の開いた異国風の、しかしスパンコールやごてごてとした飾りのないシンプルな黒いドレスを着たエカテリーナはそれだけで素晴らしい絵画ように、生命としての一瞬の絶頂で輝いていた。
「せっかくの前夜祭なのに、そんな冴えない軍服なんか着て。あなたならタキシードだってよく似会うのに」
エカテリーナの口からは、まるで晴れの日にちいさな息子が泥だらけの靴を履いてしまったことを咎めるような、そんな甘い母性のような声が飛び出してきて、私は「おや」と感じる。以前のエカテリーナならばこんな柔らかい声を出すことはしなかった。もっとツンと尖り、とても貴重で高価なガラス細工のような冷ややかで美しい声をしていた。―――夢子の影響だろうか。
二人は互いに影響しあったように思えた。
エカテリーナはそれまでのツンと尖った、まさに触れれば花弁を傷つけるバラのような繊細で落ち着くことのできない雰囲気から、まるで子供のようにとろりとした柔らかさが出てきたような気がする。茶目っ気だろうか。ひとつの芸術品のような女性の顔から、どこかあどけない少女の面影を感じるようになった。
そして、夢子も。
それまでまだ子供の世界に済み、陽の下で手足をいっぱいに伸ばして笑っていた頃とは違う。エカテリーナに手入れをされたんだろうか。彼女のちいさな手にはツヤツヤとした完璧なアーチを描く爪が輝き、彼女の瞳や、肌、そしてその健康な雰囲気によく似会う口紅にも出会ったらしい。女の子は口紅ひとつで随分変わってしまう。夢子のそれは、あどけない少女から今まさに大人になろうと、目を伏せた一瞬のような静かな女性美が垣間見えるようになった。きっと、これからもっと大人の女性になっていくんだろう。キレイになっていくんだろう。
「女性は分からないな」
そう漏らした声はごく小さな声だったはずなのに、耳敏く拾ったエカテリーナが怪訝そうな顔をした。
そう。女性は分からない。――――イシュヴァールの血が流れている、エカテリーナ。
イシュヴァール人とアメストリス人との間に混血が多く生まれたゲリンを中心に、再び戸籍を洗った。しかし、やはりエカテリーナなのではないか、という人間のものは出てこなかった。ハボックとブレダからその仮説を聞いたときは耳を疑ったが、しかしそう言われてみれば納得のいく事も多かった。エカテリーナの肌の色は、白系アメストリス人の肌よりも随分と暗い色をしている。オリーブの肌、というらしい。熟する手前のオリーブのような、緑ともブラウンとも取れる暗い黄色の肌。大きなアーモンド形の瞳は、色素の薄いアメストリス人の女性のものより、いくらも強い。意志の強い、印象的な瞳。筋の通った鼻の形も、セクシーな肉感的な唇も、どれもがどこかエキゾチックな要素を持っている。
アメストリスは多民族国家だ。
肌の色だって様々だし、人種とてひとつには絞れない。たとえ夢子が異世界のアジアという地域から来た少女だとしても、アメストリス人は彼女の容姿を異質なものだとは思わないほど、我々の血は多くの民族、多くの特徴を受け継いでいる。エカテリーナも、そうやって先祖の血を受け継ぐ女性なのだろうか。そうであって欲しい。そう、切実な気持ちを込めて口を開いた。
「エカテリーナ、君にはイシュヴァールの血が流れているのかね」
真っ直ぐに、エカテリーナを見た。
エカテリーナは少し目を見開いたかと思えば、肩を震わせ、崩れ落ちるように喉で笑った。
急に何を言い出したの、と笑い出した声からは本音が見えない。相手は女優だ。アメストリスの女王だ。そして、この私にとてその秘密を隠し続け、このまま何事もなければ、この関係が終るまで、エカテリーナはその秘密を隠していたに違いなかった。
「エカテリーナ、例え君にその血が流れているとしても、君に危害は加えない」
「イシュヴァール人を殺して英雄になったあなたが?」
だから安心して欲しい。そう続けるつもりだった。
だがエカテリーナは、それまでケラケラと笑っていた明るい声の持ち主とは思えぬほど冷たい声で、突き放すようにそう言った。エカテリーナの瞳には軽蔑で満ちていた。今までその胸に貯めていたであろう、苦しさと恐れ、怒り、その全てを詰め込んだ瞳は薄暗く、それでいて強烈な光で満ちている。その瞳だけで十分だった。もうこれ以上の言葉は必要なかった。
―――すこし、気分が悪かった。吐きそうだった。
「ウィンチェスター卿から不興を買った記憶はあるかね?」
ようやく、ゆっくりと吐き出した言葉に答えは必要なかった。
エカテリーナの唇がきゅっと弧を描く下弦の月のように歪んだ。知っているくせに、と笑った。知っている。知っていた。私はよく知っていた。重火器を主力商品として巨額の富を得たウィンチェスター卿にとって、国家錬金術師は最大の商売敵だった。わずかな給料と食事さえ与えておけば、戦場では小回りが利く最大の兵器。民家へも、屋根裏へも、地下室へも、足音ひとつ立てず、重火器のガチャガチャとした金属の音もさせず、影のように静かに効率よく人間を殺すことが出来る。武器商人の敵。
イシュヴァール人との混血であり、田舎の炭鉱町でストリップのショーガールだった娘を拾い、戸籍と教養を与え、自らの「作品」としてここまで育ててきた老人にとって、許せない事だっただろう。若く美しい自身の花に虫が寄りつく事は想定していた。だがしかし、それが憎い国家錬金術師となれば、それは老人への裏切りだった。彼が巨額の金と、時間を掛けて育てた花を簡単に掻っ攫った。
女性であれば男を奪った女を憎む。しかし、男は違う。男は自分を裏切った女を憎む。それが真理だった。
「母がイシュヴァール人だった。遺伝子の法則って言うそうね。娘は父親に、息子は母親にってやつ。あなた、お得意でしょ?典型的なアメストリス人の父親に似た私は生き延びた。けれど、典型的なイシュヴァール人の母の血を引く弟は死んだわ。どこでどうなったのか、もう、何も分からない。何も。」
エカテリーナはそう言って瞳を細めた。
もうそれ以上何も聞きたくなかった。ただ、むき出しになった内臓に黒く冷たい地下水をぶちまけられたように、厚く着込んだ軍服の下で筋肉が震えるのを覚えた。血管まで太くなったんだろうか。耳の辺りで震えるように、心臓が逞しいポンプとなってこの肉体全てに血液を送り込もうと躍起する音まで聞こえてくるようだった。
「あなたの手が好きだった。私を抱きしめる力強い手。あなたの腕の下で怠惰な猫のように身体を伸ばす時、世界中から守られたような気がした。幸福だった。あなたに抱かれている時、よく家族を思った。私の肌を抱くあなたのその手は、母を、父を、弟を、同胞たちを焼いたのね。私の髪を撫で、肩を抱き寄せたその手は、私達から全てを奪った手だった」
「私が憎かっただろう」
エカテリーナは顔をくしゃりと歪め、私へと一歩歩み寄った。
無意識に一歩後ずさりした私を咎めるように、エカテリーナは腕を伸ばし、私を抱き寄せた。腕の中によく馴染んだエカテリーナの柔らかな肌や脂肪、髪の匂いが飛込み、思わず抱き返しそうになる手を意思の力で押しとどめた。前夜祭を祝う人々の声が、百年も遠い場所から聞こえてくるようだった。
「分からない。それは分からない。あなたを憎いとも思わない。怖いとも思わない。―――でも、愛しているとも思わない」
エカテリーナはそうぽつりと呟いて、体を離し、私を見上げた。その瞳が懇願するように震えていた。
「お願い。明日の舞台、絶対に見に来て頂戴。何があっても、最後まで。そうしたら、あなたを愛しているのかどうか、きっと分かるから。一生のお願いだから」
エカテリーナは微笑んだ。
まるで夢を見るように高揚した頬と、赤い唇。そして女性的な柔らかさに輝く頬には、憎悪はひと匙たりとも認め得なかった。それでも、その意思の強い瞳が不安げに震えていた。彼女が普段気まぐれにする「お願い」ではなかった。懇願だった。哀願かもしれない。震えるほど切実で、差し迫った瞳に抜き差しならなくなった自分達を思った。
「舞台へ出ればウィンチェスター卿に殺されるかもしれない」
「それでも、あなたが守ってくれるんでしょう?」
エカテリーナからの口付けだった。
エカテリーナの体を抱き寄せながら、これが最後のキスになるだろうと思った。
このまま何事もなく、この無責任な関係を続けていくには、私達はあまりに矛盾した場所に来てしまっていた。