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寂しい部屋、と思った。

エカテリーナさんの部屋は、あのパーティー会場の音楽も色も匂いも、全てひっくり返したような不思議な世界の弾けるような騒ぎとは打って変わり、しんと静まり返っていた。今日までずっと、絶えず誰かが部屋に居て、衣装のサイズを測ったり、アイロンを掛けたり、エカテリーナさんと話し込んでいた部屋からは、衣装もプレゼントも花束も全てが運び出され、まるで湖の底のようにひっそりとし、どこかひんやりとした空気ばかりが余所余所しく横たわっていた。明日になれば、もう二度と入ることもなくなるこの部屋。衣装やプレゼントがすっかりなくなった部屋は、物理的に広くなった感覚よりもずっと広くなってしまったかのよう。嵐の前の静けさ、とでも言うんだろうか。



自分の着ている異国の衣装も、ずっと遠くから細い糸のように微かに聞こえてくる前夜祭の声も、まるで現実味が感じられなかった。
ゆっくりとエカテリーナさんの部屋に入り、グレッグに言われたように鏡台の前に立つ。
鏡に映る自分の耳にちゃんと真珠のイヤリングが収まっていることに安堵して、それから鏡台の前にちゃんとグレッグの言った通りの瓶を見つけてまた安堵する。まるで昔の女優さんが使った香水の瓶のようなポンプやタッセルのついた瓶を手にして、急いで立ち去ろうとした時、視界の隅に映ったもうひとつの瓶に足を止める。



――――それは、あの夜、ウィンチェスター卿が贈った香水だった。


他の信者たちからの贈り物には目もくれず、大事にしていた香水。
エカテリーナさんがいつもつけている香水はこれなのかな。まるで香水の香りに導かれるように手を伸ばした時飛び込んできた声に驚いて手を引っ込める。「何するの!!!」と悲鳴のように叫んだ声はエカテリーナさんのものだった。その顔はそれまで見た事もないほど怒っていた。人の鏡台で、勝手に人の香水に触ろうとした自分の不躾さを思い出して慌てて謝罪するけど、エカテリーナさんはそんなわたしの声は無視して、奪い取るように香水瓶をひったくった。


「ここで何しているの?」
「ご、ごめんなさい。あの、グレッグから喉の薬を取って来いって言われて、それで、その、つい、どんな匂いがするのかなって…。あの、本当にごめんなさい」
「馬鹿馬鹿しい。匂いなんてなんだって良いじゃないの」


エカテリーナさんはわたしが抱えていた薬の瓶を見て苦々しげに吐き出し、そしてウィンチェスター卿からの香水を金庫にしまった。そしてまだガチガチに体を硬直させて、血の気の失せた顔をしているだろうわたしの前に立ったかと思えば、ぎゅっと抱き締めた。驚いて目を見開くわたしの体中に、エカテリーナさんの体の柔らかさが飛び込んだ。


「大きな声を上げてごめんなさい。でも、ちょっとびっくりしたから。……だってほら、前の付き人がね…。あなたまでそんなのだったら私、もう誰も愛せなくなるわ」


前の付き人はエカテリーナさんが部屋を離れている隙に、こっそり、エカテリーナさんへの贈り物の宝石や毛皮のコートを盗んでいた。それを考えるとエカテリーナさんの反応も無理がないような気がして、そしてそうやって付き人に裏切られていた彼女に嫌な思いを再びさせてしまった事を恥じた。恥じながら、恐る恐る、でも、日本にいる家族にするようにゆっくりと抱き締め返せば、わたしを抱き締める力が強くなった。そしてエカテリーナさんがわたしの額に唇を落とした。そして驚きに体を強張らせるわたしを、痛いほど強く抱き締めて、唇を額にくっつけたまま言葉を漏らした彼女の吐息に、額がじんわりと暖かく濡れた。



「好き、好きよ。好きよ、夢子。あなたがとっても好きよ。愛しているのよ。―――あなたは私の半身。私がなりたかった、私だもの」




「私は、あなたになりたかった」









エカテリーナと別れ、血脈のように張り巡らされた薄暗い廊下を歩いていれば、前方からやってきた人物に思わず足が止まった。ウィンチェスター卿だった。
屈強な護衛を二人連れ、タキシードを着込んだその老人は、向かいから来た男が私だと認め、足を止めた。
私も自然、ウィンチェスター卿と向かい合うように足を止める。奇妙な静寂が落ちた。背後に立つ屈強な護衛の肉体がそう対比させるのだろうか。ウィンチェスター卿の体は、その肉体の持つ悪名や伝説とは程遠いほど、小柄で脆い、老人の肉体をしていた。きゅっと首を絞めれば、まるで鶏の首の骨を折るように、簡単にパキリと乾いた音を立てて折れてしまいそうだった。しかし、黄色く濁った瞳がさも愉快そうに私を見上げている。



「アレは素晴らしい女だ、そうだろう?」


沈黙を破ったのは、ウィンチェスター卿の奇妙に高揚した声だった。
うっそりと仄暗く、前時代の王宮のように蝋燭で明かりの灯された古い廊下に住み着く、蜘蛛のような声だと思った。黙っている私を怪訝に思う様子もなく、ウィンチェスター卿が黄色い歯を見せてにたりと笑う。夢子は言った。この男を「嫌いだ」と。それを上回る憎悪を覚えた。



「目と目が合った瞬間、目元にぱっと朱が走り、朝一に手折られたバラのような頬が綻ぶ。そしてあの肌。まるで吸い付くように、アレのはちきれんばかりの肉体を皮一枚で押しとどめているよ。実のところ、人間なんてものは面の皮一枚剥げば皆同じなのだよ、ああ、全くのところそうだろう。しかし、エカテリーナは違う。アレの美しい肌を一枚剥いでやっても、その肌の下には美しい血潮が隠されている。骨だって、オーロラ色に輝く、貝が隠した真珠のように光る事だろう。アレはそういう女だ。そういう素晴らしい、私の最高傑作だ。君は、その事をよく分かっている筈だ。――――私達を抱いた女の事だからな」



思わず殴りかかりそうになった。
しかし、それを寸での所で押さえるには、あまりに甚大な精神の疲労と引き換えだった。
噛み締めた奥歯がギリリと鳴り、歯のエナメル質が砕けるような気がし、噛み締めた顎から骨が震えるようだった。若い娘を集め、途方もない金を掛け、自分の作品として育てていく。金持ちの道楽の中で、そうやって少女である時代を奪われ、無理やりに大人にされた娘達が一体幾人いたというのか。この人間の悪意の塊のような男を手玉にとって出世しようとした無知な娘たちの、一体幾人がこの男に勝ったというのか。私は男だ。男としての動物的な本能が、この男を憎んだ。



「どんな結末を迎えれば、あなたは満足するのですか?」



忘れるな。忘れるな。……忘れていたわけじゃない。
それでも24時間、あの日々のことばかりを考えている訳じゃない日常が、突然突きつけられた過去に窒息していく。いや、既に“過去”と捉えているこの脳が、そうではなかったと突きつけられ、呼吸する方法を思い出せない。エカテリーナが、一体どんな人生を送ってきたというのだろうか。どんな気持ちで私に抱かれていたというのか。生き延び、どこかで普通の娘のような青春を送る選択肢だってあった。それを何故、この闇のような男に委ねればならなかったのか。いや、初めから彼女にはもう、普通の青春なんてあり得なかった。それはもう得る事のできぬ幻となって、奪われた。この私が、この手で奪った。
この怒りは、決してウィンチェスター卿にばかり向けられるものではなかった。



「退屈とは、脳髄をどろりと溶かしていく惰性のようなものだとは思わないか?実のところ、これから三百年、ガウン姿でソファーに座り、ブランデー片手に愛人に奉仕させていたって過ごせる程の富を得た。もはやこの手に得られるもの全て得てしまい、あとの人生は消化試合とでも言うのだろうか。もう、欲しいものは何一つないのだよ、マスタング君」
一歩歩きだした男を焼き殺さなかったのは、発火布が内ポケットに入っていたからだった。



「それでも、あの女は私のものだ。誰にも渡さない。一生、私のものだ」



頭の中にいつまでも、ウィンチェスター卿が狂ったように笑う声がこびりついていた。








昨夜の前夜祭は、いつまでもいつまでも続いていくかのように輝いていたけれど、会場からは一人、また一人と役者たちが、踊り子たちが、オーケストラたちが抜け出していった。彼らにとっては今夜は余興でしかなかった。最後まで残っているのは、気まぐれな政治話に華を咲かせる政治家や軍人たちばかりとなった。軍と議会の顔合わせと社交の役割も担うパーティー。訳すのに一苦労するような難しい専門用語が飛び交い、皮肉が頭上を飛び超えていった。


普段なら真っ先にパーティーを抜け出すエカテリーナさんが、その夜は最後まで残り、信者の一人ひとりに愛想よく笑いかけてやり、「どうか楽しんで頂戴」と言葉を掛けてやっているのを、グレッグは不思議がっていた。よっぽどこの舞台に気持ちを込めているようだった。華やかな人々の輪の中で、エカテリーナさんは誰よりも輝いた。



穏やかで、暖かくて、キレイで。うっとりと、まるで夢のようだと思った。
それなのに、どうしてだか胸が締め付けられて、キリキリと震えるようだった。
ああ、神様、と祈りたくなるほど、泣き出して、全てを放り出してエカテリーナさんの腕に飛込みたくなるような気持ちで胸がいっぱいだった。濡れた睫毛でシャンデリアの明かりが乱反射して、エカテリーナさんを取りまく世界がより一層、ぼんやりとした光で曖昧に輝くのを、どこかずっと遠いところから眺めていた。





今、この場の空気はキリキリに引かれた弓のように張り詰めていた。
舞台の上には、スポットライトを浴びる瞬間を、重厚な幕が開く瞬間を、今か今かと待ち構える役者達が息を潜めている。舞台装置の一番端、アリシアや他の寵姫たちと一緒に立つわたしのそばでは、グレッグが無言のうちに手のサインだけで他の大道具係りに指示を飛ばしている。



ああ、会場から拍手が響く。
太陽が飛び込んできたように眩しい光が刺さる。




今、「落下の女王」の幕が上がった。