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エカテリーナさんの歌声は、まるで魔法の霧のように、静かに、ゆっくりと、会場を満たしていく。
その霧を肌で浴び、肺に吸い込んでしまった人間は、もう一言たりとも声を発することはできなくなり、眼球が乾くほどに舞台へと釘付けとなった。差し迫り、人間の本能へと有無を言わせず魔法を掛ける。とろとろとした官能の喜び。胸が震えるように広がっていく女王の怠惰で終わりのない日々。故郷を奪った男を愛した恐れ。二十も年の離れた王を愛してしまった苦しみ。愛しているのに肉体として結ばれることのできないもどかしさ。ゆっくりと、果実が腐乱していくように熟されていく女王の肉体は、腐る一歩手前の、もっとも濃厚でどろどろとした色香で匂い、その匂いにつられてまた一人、女王のハレムへと足を忍ばせる。
――――――そして、女王に近づいた男は、残酷で嫉妬深い王に処刑される。
口紅を引き、きつい舞台メイクをされた自分の顔は自分ではないようだった。けれど、嫌いじゃなかった。
舞台の隣にある控え室では、この先に出番を控えた役者たちが最終チェックで入念に化粧を施している。すっかり準備の終ったわたしが隅に追いやられるようにして、誰の目にも留まらないようにぼんやりと、遠くから聞こえてくるエカテリーナさんの歌声に耳を傾けていれば、見知った顔が飛込み思わず眉を下げて微笑んだ。大佐さんだった。大佐さんの顔を見つけて、心の底からほっとしている自分に気づいた。
「夢子、少し話しがある」
ちらっと本番前に激励の言葉でもくれるのかな、と思ったけれどそうじゃない事は大佐さんの顔をみればすぐに分かった。
よくない話だということも。ずらっと並んだライトが取り付けられた化粧鏡や、男性俳優だっているのにおおらかにその豊かな胸を曝け出してデコルテにドーランを塗りこむ女優たちの波を掻き分けるようにして大佐さんに導かれるようにくっついていく。もうわたし達が顔見知りだという事を隠す必要もなければ、本番の中にあって誰もそんな事に目をやる人はいなかった。みんながみんな、プロの目をして鏡を覗き込み、台本をめくり、歌をなぞっていた。そんな控え室を出れば舞台からの音楽がより強く耳に届いた。大佐さんはこの劇場についてよく知っているように、すぐに人気のない用具室へとわたしを導いた。
部屋には溢れんばかりに木の板や箱や靴や像の人形が並べられ、大佐さんと二人で入ってしまうととても狭く感じられた。
「夢子、イシュヴァールの民のことは知っているね?」
大佐さんの表情は真っ白だった。
まるで、いろんな感情を塗り重ねて、重ねて、何度も何度も修正液で塗りつぶして、感情という感情を殺してしまったようだった。大佐さんは、そんな白い顔のまま「エカテリーナにイシュヴァールの血が流れている。そしてウィンチェスターの狙いは議員と中将だけでなく、彼女の命もだ」と早口に言い切った。エカテリーナさんの命が危ない。ごくりと息を呑み、指先は脅えているのに、足の裏からエネルギーがじわじわと上り詰めていくように体が熱くなった。
――――守らなきゃ。エカテリーナさんに一番近づけるわたしが、エカテリーナさんを守らなきゃ!
大佐さんはそんなわたしの感情など見透かしてしまったように、少し表情を和らげた。
「出番が終れば、すぐに舞台を離れなさい」
これが最後の命令だ、と大佐さんは微笑んだ。
大佐さんは、わたしの気持ちをすっかり見透かしていたのに!どうして、と吐き出した自分の声は震えていた。どうして、と聞きながらその理由もすっかり分かっていた。大佐さんが「大人」の顔をして、わたしが素人だとか、ジャンが率いる軍の部隊が警護をするからとか、ウィンチェスター卿がどこまで危害を加えるか分からないから、君を安全な所へ避難させたいとか、そんな事を話した。わたしがちゃんと理由を分かっていると知りながら、それでも駄々を捏ねる子供を納得させるように、諭すように、大佐さんはゆっくりとそう話した。けれどわたしは納得できなかった。そんなこと、できる筈もなかった。
「わたしにあの人の付き人をやれって言ったのは大佐さんです。わたしは、最後まで、あの人の傍にいたい」
真っ直ぐに大佐さんを見上げた。
大佐さんはふいを付かれたような顔をしたけれど、小さく舌打ちをして、自分の頭を乱暴に掻いた。それで答えは決まっていた。勝手にしろ、だ。わたしはにっと笑い返す。大佐さんはわたしの肩に手を置き、「それでも危険だと思ったら逃げろ」、と言った。やさしい目をしていた。ホグワーツのことを思い出した。先生たちがわたし達を見つめていた目。深い親愛を持って、わたし達を守ってくれていた目。大人が子供を、慈しむ目。涙が出そうだと思った。大佐さんがわたしをどう思っているのか分かった。一人の当たり前の大人として、庇護する子供だった。
それが嬉しくて、ありがたくて、そして、さみしかった。
「大佐さん、わたし、大佐さんが好きです。一人の男の人として、大佐さんが好きです」
あ、と思ったけれどもう取り返しは付かなかった。時間を戻すことはできなかった。
杖を置いてきてしまったから、わたしはただの夢子だった。魔女でなければ、山田夢子というどこにでもいる人間だった。でも、それで良かった。わたしは大佐さんがイシュヴァールの英雄だから、恋をしたんじゃない。この人だから、恋をしたんだ。そして大佐さんも、わたしが魔女だからこの素晴らしい世界に連れてきたんじゃない。大佐さんは、魔法は使わないようにと忠告してくれていた。魔法の力で事件を解決させようとここに呼んだんじゃなかった。わたしに大佐さんが一言「使え」といえば、わたしはいくらでも魔法を使ったのに、それをさせなかった。魔法がなければ、わたしはただの、山田夢子だ。でも、それでも、わたしだったから、ここへ連れてきてくれた。魔法を使わなくても、特別な力がなくても、夢子という人間として、わたしをエカテリーナさんに会わせてくれた。沢山いるであろう大佐さんの知り合いの中から、わたしを選んでくれた。
だから、わたしは嬉しかった。
少し目を見開いて、驚いた顔をしていた大佐さんは、わたしの肩に置いていた手をそっと離した。
それで答えは分かってしまった。大佐さんが、とても柔らかい目をして微笑んだ。もう答えは分かっていた。わたしもせめて泣くまいと、しっかりと大佐さんを見上げて微笑んだ。
「ありがとう、夢子」
泣いちゃ駄目だ、と思っているのに胸がすんすんと痛んだ。
じくじくとわたしを責める胸が、容赦なく涙腺を刺激するのをぐっと堪える。部屋に帰りたい。部屋に帰ったら、涙を止める薬だってあるのに。あ、でもニガヨモギを切らしてたかもしれない。また魔法界に戻って仕入れてこないと。薬のストックってどれだけあっても足りないなぁ。そうだ、緊張を殺す薬だって結局飲んでないもん。でも、もう大丈夫。………きっと緊張なんてできないから。
一生懸命違うことを考えようとするのに、経験の少ない自分はこういう時、どうやってこんな気持ちをやり過ごせば良いのか分からなかった。せっかく化粧をしてもらっているのにとか、ああ、これから気まずいなぁ、とかそんな現実的なことを考える冷めた意識もあるのに、大佐さんの言った「ありがとう」が耳から離れなくて、くそやっぱり格好良いな、とか、好きだなとか、そんな気持ちが溢れていく。
「ちょっと、邪魔なんだけど」
用具室に座り込んでべそをかいていたわたしの頭上に、容赦ない現実の声が落ちてきた。
慌てて顔を上げ、そして視界に飛び込んできた相手はわたしの顔をみてぎょっとし、わたしもその相手を見てぎょっとした。―――――アランだった。
わたしがポリジュースで変装してしまった美少年は、本番を目前に控え、まるで牛飼いの少年のような麻でできた粗末な衣装を着ているのに、華やかな舞台で生きる人間特有の輝きを放っている。そうだ、アランの役は女王を翻弄する謎の少年の役だった。魔法の力で少年に姿を変えた王様。
「ちょ、なに?なんなの?ひっどい顔!…あ、もしかして失恋?」
ぷー、だっせ、と笑ったアランに押さえていた涙腺が、うっ、と込み上げ歯を食いしばる。
そんなわたしの情けない姿に「うそ…ほんとに…?」とアランは顔色を変えて、開いていたドアを閉めてわたしと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「なんか、ごめん…。ごめんな、無神経なこと言って。…よくエカテリーナさんにも叱られるんだ。あなたは軽率すぎるって」
「ううん、いいんです。それよりこの部屋に用事だったんじゃないですか?ごめんなさい。すぐに向こうへ行きますから」
アランは、いつかわたしに「ぶーす!」と言った時とは全然違う、心の底から気の毒そうな顔をして、親身になってくれようとしているのがよく分かった。涙をぐいっと拭こうとしたわたしの手を止めて、自分の衣装の袖で小さく繊細に叩くように目元を拭ってくれた。
「こうしないとメイクが落ちるんだよ。……僕も、この間はそうやってぬぐって、瞼に塗っていた金粉が目に入って随分苦しんだ。そういえば金粉って怖いんだね。僕達役者はよく体に塗りたくるけど、あれって皮膚病になるんだってね。装飾品にできないほどの粗悪な金を塗すからだってさ」
ほんと、ヤになるよね、とアランは早口にそう誤魔化すようにあっけらかんと話した。
お礼を言ってできるだけ笑おうとするわたしに、アランは溜息ひとつ漏らして、隣にしゃがみ込んだまま膝を抱えた。
「僕も、この間逃げられた。まぁ気づいてるかもしれないけど、僕が好きになる相手は男だったから。この世界に多いとはいえ、相手が舞台俳優でも振り付け師でもメイクでもなく、粗野な大道具だったから、男じゃ駄目だったんだね。女が好きだってのは分かってたんだ。だからもう諦めようって思った。最後に、思い出が欲しかった。抱き締めてくれるだけで良かったのに、抱きついた僕を慌てて引き剥がして逃げてったよ。しかも次の日にはよっぽど顔を合わせたくなかったのか、普段はしないのに外に仕事に行くしさ」
その人は…と聞かなくても相手が誰だか分かった。グレッグだった。
あの夜、秘密の通路でグレッグとすれ違った、あのすぐ前に起こった出来事だ、と直感した。あの時のグレッグはどこか慌てていて、だからわたしと勢いよくぶつかったんだ。だからグレッグの服にアランの髪の毛がついていたんだ……。アランはグレッグを思い出しているのか、自嘲するように、苦悶するように眉を寄せて無理に作った笑顔で言葉を続ける。
「でもさ、でも、仕方ないよ。僕だって逃げたんだ。覚悟はできてたと思ってたんだけどね。アンタはエカテリーナさんの付き人だから言うよ。どうせ耳に入るだろ。軽蔑するなら軽蔑してくれ。キャスティング・カウチ(枕営業)だよ。僕は顔には自信があっても、歌はてんで駄目。緊張するとしゃっくりがでる癖も直らない。声変わりが始まれば歌える声域だってずっと減る。この落下の女王は大抜擢だ。最後のチャンスだ。ようやく認められたと思った。
……でも、そうじゃなかった。僕の崇拝者が口出しをしたらしかった。フォッカーとかいう軍のお偉いさんだった。
最初はちょっと食事に付き合ってやれば満足していたけれど、どんどん要求がエスカレートしてきた。次は駄目だ、と分かっていた。きっと今までより進んだことを求めてくるって。エカテリーナさんは反対したよ。でも僕は聞かなかった。キャスティング・カウチなんて珍しい事じゃないから平気だって、これから先も役が貰えるなら、そんな事は容易いことだって。この体なんてタダみたいなもんじゃないか。……でも、本当は怖かった。バージンだから、すごく、怖かった」
アランはそれまで胸につっかえていた事を急いで吐いてしまうように、早口でそう捲くし立てた。
アランの目はわたしを見ていなかった。俯き、じっと木目の床を睨むようにしながら、時々鼻で笑いながら話した。わたしがこの男の子の姿を借りたとき、わたしの腕を掴んだフォッカー中将の濁った瞳や、生臭い息、抗えない程の強い力を思い出して、体が冷えていく。怖かった。逃げられないと思った。でも、この子は自分から、その小さな体を恐怖と恐れでいっぱいにしながら、その体を差し出し、そんな世界へと飛び込もうとしていた。そうまでしないと生き残れない世界だった。
「あいつがさ、迫ってきた時、やっぱり嫌だって思った。あいつが圧し掛かってきた時、ママの顔を思い出した。ママはこんな僕を情けなく思うだろうって思った。もう胸を張ってママに会いにいけないって思った。どんな端役でも、ママはいつだって喜んでくれたのにって。助けてって思った。叫んだ。―――そしたらさ、電話が鳴ったんだ。リンリンリーンって!!それであいつは軍に呼び戻されてった。馬鹿みたいだけど、でも、ママが助けてくれたんだって思ったんだ」
アランはようやく強張っていた表情を溶かして「子供みたいだろ」と笑った。
けれどわたしの胸はどくどくと高鳴っていた。もしかして、という得体の知れない、突拍子もない考えにつま先から血の気が引いていき、足が痺れるように感覚がなくなっていった。胸がどくどくとする。唇が乾いていく。それなのに、頭の中ばかりがすっきりとして、一本の道が見えたようだった。
「……フォッカー中将に会うことは、エカテリーナさん以外に誰かに話した?」
「まさか。こんな情けない話するもんか」
馬鹿なことを聞くなよ、とすっかり元気を取り戻したアランは形の良い鼻をつんと上向けて、唇を尖らせた。頭が痛かった。アランは、よいしょ、と立ち上がり、いつもの軽薄でとびっきりキレイで生意気な顔でドアを顎で示した。もうおしゃべりは終わり。そろそろアンタも出番だろ?さっさと出ていってよ。……本番前はこの部屋で考え事をしないと落ち着けないんだ、こういう気の弱いところも駄目なんだろうなぁ、と誰に言うでもなく溜息を漏らすアランの声に引き上げられるように立ち上がりながら、五感が遠く感じられた。膝が震える。
――――あの夜、欲しかったのは大佐さんと中将の時間じゃなくて、アランを守るためだとしたら?
ドアを開ければ、アリシアがわたしを見つけて「どこに行ってたのよ!すぐに出番よ!!」と怒鳴った。
わたしは「ごめんなさい」と答えながら、きゅっと唇を噛み締めた。一緒に舞台に上がる寵姫役の女優たちが集まって、舞台へと近づいていく。大きくなっていく音楽。異国の音楽。頭が真っ白だった。アリシアが腕をぐいぐいひっぱってくれなきゃ、歩けなかった。
「夢子、がんばれよ」
どんとわたしの背中を叩いたのは、グレッグだった。
あ、と見上げるわたしにグレッグは「アリシアに全て任せとけ。お前がドジってもカバーしてくれるだけの才能がアリシアにはあるからさ」とアリシアを立てて、アリシアが嬉しそうにはにかんだ。わたしはそれをどこか遠くで眺めながら、頭が痛くて仕方がなかった。……知らせなきゃ。大佐さんに知らせなきゃ!!間違っていても、突拍子なくても、大佐さんに知らせなきゃ!!でも、どうやって!?杖は置いてきてしまった!わたしはもう舞台から離れられない!!!
ふいに、グレッグが台本を持っているのが目に飛び込んだ。
わたしはグレッグから台本をひったくり、もうおわったシーンのページを破って、「おい!」と声を上げるグレッグが握っていたペンを奪って、白紙の部分に字を書きなぐり、急にトチ狂ったような行動を起こしたわたしを目を丸くして見ていたグレッグにメモを押し付けた。そうだと思った。もうそれしか考えられなかった。あの人が何かをしようとしている。頭の中で「プロットは得意」と微笑んだ、あの人の美しい顔が浮かぶ。駄目だ。駄目。絶対に、駄目だ。そんな事しちゃいけない!!!
「お願い。これをマスタング大佐に渡して!!一刻も早く渡してくれないと、取り返しがつかなくなる!!」
大佐さんの名前を聞いて、グレッグの顔色が引き締まる。
ここ数日、この劇場で何かが起こっていることに、劇場の隅々にまで目をやっていたグレッグが気づいていないわけはなかった。乱暴なわたしにも不満の声を上げたり、理由を聞くことなくグレッグがメモを握り締めて真摯な目をして頷く。音楽が変わった。寵姫たちが舞台へと踊るように歩き出した。アリシアがわたしの腕を引っ張る。もう一度グレッグに「絶対に!」と言いつけて、前を向いた。
凶暴なほどのスポットライトと、異国の世界がわたしを飲み込んだ。