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劇団に用意させたのは、会員の中でも特に選ばれた人間だけが座ることの出来る二階のボックス席だった。
劇場の二階部分に面したバルコニーのようなボックス席。普段ならば紳士淑女がオペラグラス片手に、じっと舞台を見守る高貴な席。しかし、今夜は違う。この席からならば舞台上だけでなく、客席も全て見通すことができた。
ウィンチェスター卿の席は、劇団の中でも最も高い、正面に面した個室だった。
あの席は彼個人が年間契約し、所有しているウィンチェスター卿のプライベートスペースだ、という事は支配人きら聞いていた。部屋の見取り図も頭に叩き込んでいる。奇妙なことに、ウィンチェスター卿は、他の資産家連中が莫大な金をはたいて見物にくるこの劇を見ることもせず、カーテンを閉め切ったまま、中に引っ込んでいる。個室の中はカーテンで区切られ、ちょっとしたワインバーや、ソファの置かれた応接室、その奥にボックス席と続いている。カーテンで閉ざされているため、ウィンチェスター卿がそのどちらにいるのかまでは分からないが、彼自身の護衛二人とあの部屋に篭りきっているのは分かっていた。部屋の前には、軍人を立たせ、護衛という名目の下に彼を監視していた。あの男がこちらサイドに気づかれずに、あの部屋から出ることは不可能だった。
しかし、あの男が直接手を下すとも思えない。誰か金で雇った人間を使うだろう。
客席にはタキシードに身を包んだ軍人や、イブニングドレスを着込んだ女性兵を何組も紛れ込ませていた。そして劇場のいたる所に警備体制を敷いている。あの男とて、軍と議会関係者で締められているこの舞台で、エカテリーナを傷つけるような事はしないだろう。そんな事をすれば、愛人への報復が自分の首を絞めかねなかった。
どうする?どうするつもりだ?幕は上がった。お前の忠告を無視して、舞台は始まったぞ。
あの手紙一枚で議員と中将をここ数日脅えさせただけで満足するような人間じゃないだろう?さぁ、どうする?
「――――貴方は忘れてしまった。
少女の頃の私を 貴方はもう覚えていない。泥臭かった田舎娘を 貴方はもう忘れてしまった。
貴方の目に映るのは 宝石と乳香でこの肌を守る 愛に脅える一人の女の姿だけ。
貴方がその燃える手で焼き尽くしたのは 少女の私。少女の記憶。
貴方に焦がれる娘は 私ばかりではない。貴方に魂を燃やす 哀れな処女たち。
私より若く林檎の花のように愛らしい娘たち 無垢な娘達 貴方が奪った、少女の記憶」
エカテリーナの歌声と共に、舞台の隅から、華やかな踊り子たちと一緒に、寵姫たちが現れた。
美しい姫たちに紛れた夢子の表情は、昨日、舞台の隅で青ざめ、台本を持って震えていた顔ではなかった。先輩分の寵姫の腕をしっかりと握り、舞台の空気に合わせて微笑み、しかしどこか燃えるような目をしていた。エカテリーナとは正反対の女の子。まだ自分に幾千幾万という可能性を秘めている事も、自分に素晴らしい未来が待ち構えているだろう事にも気づいていない、女の子。人を真っ直ぐに見る純粋な目。この世界に存在する不条理や、怒り、醜悪さ、やるせなさ、虚無。そんなものを知らない、すくすくと慈しまれ、愛され、伸びていく当たり前の子供時代をすごした、当たり前の女の子。何故そんな女の子を、こんな自分が抱き締められるというのか。夢子はまだ子供だ。何も知らない、小さな女の子。ちょっと大人の男に憧れてみるだけの、そういう年頃の女の子。
守ってやりたいと思っていた。
おこがましいかもしれない。だが、一人の人間として、一人の年長者として、この世界で彼女を庇護してやりたいと思っていた。夢子は言っていた。自分の親だって戦争を知らない社会で生まれ育った、と。だからだろうか。よっぽど治安の良い社会で、国家や親や教師に守られてきたのだろう。夢子は時々驚くほど無知で、無邪気だった。彼女にはいつか、誰か違う男が現れる。この不条理な社会で生きていくためには、夢子のあの純粋さでは耐えられない事のように思えた。いつか、力強い男の庇護がいる。朝、目が覚めた夢子のあの黒髪を撫でてやる男が現れる。――――しかし、それは私の役目ではなかった。
私には、夢子のような娘を愛してやる資格なんてなかった。
いや、そもそも自分は本気で誰かを愛していたんだろうか。
エカテリーナを愛していたとは思えない。気に入っていた、というのがしっくりくる。彼女が気まぐれに選ぶハイヒールやバッグのように、気まぐれに愛するだけだった。あまりに人間を殺しすぎた。あまりに多くの人間の愛する人を奪った。夢子よりも、幼い命を…。後悔はしていない。する権利もなかった。その上で、今私は生きている。なすべきことがある。誰かに強要されたわけじゃない、己が選んだ人生。
だから、今更当たり前の人間のように生きる事はできなかった。そんな方法、すっかり忘れてしまった。
ふいに乱暴にノックされたドアに、ハボックでも来たか、と急いで駆け寄り、ドアを開ける。そこに立っていた男には見覚えがあった。確かグレゴリー…グレッグとかいう大道具係の人間だった。グレゴリーは私の顔を見て安堵したように、くしゃくしゃに握り締められた紙を突きつけた。
「夢子からだ。アンタに至急、と。いいな、俺は渡したぞ?」
「ああ、確かに受け取った。ありがとう」
そう言って紙を受け取った私に、グレゴリーが顔をくしゃりと歪めて、胸倉を引き寄せた。
私より目線ひとつ高いグレゴリーの不躾さに、そしてその目に宿った若々しい怒りに眉を寄せた私に、グレゴリーは何か言い出そうと口を開くが、しかしあまりに多すぎる言葉をうまく吐き出せずに、顔をくしゃくしゃに歪め、瞳孔を震わせた。それで十分だった。この若者が何を言いたいのか、私にはよく分かった。この胸倉を掴むグレゴリーの手を諌めるように上から掴めば、ぶるぶると震えるほどに握り締めた手をゆっくりと離した。
「私には、もうエカテリーナと関係を続ける資格はない」
瞬間、グレゴリーは泣き出しそうな顔で唇を噛み締めた。
ハボックのようにどこもかしこも頑丈に出来た青年が、一瞬、泣き出す手前の少年のような表情を見せ、そのまま走り去っていった。その背中を羨ましく思った。私がもう持っていないものを持っていた。
夢子からという火急のメモに急いで目を通す。
『いっと いず しー ざっと はず てれふぉんど ざっと ないと』
台本だろうか、スクリプトやあの青年のものらしいメモ書きの書かれた紙の隅にそう走り書きされていたのは、紛れもない、夢子の字、そして夢子の国の言葉だった。公用語で書けば良いものを、彼女の母国語で書いてきたという事にすぐに自体が深刻である事を察した。―――あの青年にすら見られてはいけない内容だという事だった。すぐに頭に叩き込んでいた夢子の国の言葉を思い出し、翻訳する。そして、気がつけばボックス席を飛び出し、走り出していた。
――――It is she that has telephoned that night. (あの夜電話してきたのは、彼女だ)
舞台の上で、わたしはひどく冷静だった。
緊張を殺す薬なんて飲んでやしなかったのに、とても冷静で、練習よりもずっと上手に末の寵姫を演じていると分かった。凍っていた血潮は溶け出したかと思えば、今度は爆発するような勢いで、溢れるマグマのように熱く燃えたぎり、毛細血管までが膨張するように膨れ上がり、体が火照った。けれど頭の中はとても冷静で、二階のボックス席に大佐さんがいることさえ気づくことが出来た。スポットライトがこんなに熱いものだなんて知らなかった。アリシアにならって、エカテリーナ…いや、女王の前に跪いた。
「この胸を焼き尽くす感情が愛ではないと神がおっしゃるのならば、私はそれまでの信仰さえ捨てるでしょう。
もう、何も怖れることはなかった。神はこの小さな魂を取り零してしまったのです。救いなどない。
その宇宙をつくりたもうた父が、もう二度とその手をこの身に差し出してくださる事がない事を知っている。
私は愛してしまったのだから。
父を殺し、母を殺し、弟を殺し、同胞を殺し、国を焼き払った、あの炎のような男を。
これ以上の苦痛があるでしょうか。これ以上の罪があるでしょうか。なんと浅ましいこの身の上。
嗚呼、私は富も美貌も名誉も欲しくはない。
――――私は、ただ、無邪気に愛を求める無垢な娘でありたいだけだったのです」
涙だ、と思った。
エカテリーナさんの瞳がきらきらと光っていた。それは瞼にたっぷり塗られた金粉でも、スポットライトでもなかった。エカテリーナさんの大きな瞳がきらきらと濡れて光っている。魂の底から震えるように、決して力強く、荒々しく神に訴えるような歌い方じゃなかった。弱弱しくて、悲しくて、まるで駄々を捏ねる子供のような、切実に求める声だった。地底の底、明かりの差し込まない闇の中、小さく揺れる炎がわずかな空気の流れに頼りなく踊るような、チリチリとした声。エカテリーナさんの、願い。
わたしの知らない人生を知っている、エカテリーナさん。
こんなわたしみたいな、取り立てて美しくもなければ賢くもない娘を捕まえて、わたしになりたいと言った、あの人の人生。あどけない娘ではいられなかった、彼女の人生。イシュヴァールの血。母にはなれないと言った、宝物のイヤリング。エカテリーナさんの部屋で見つけた、大佐さんの記事の切り抜き。今よりも少し幼い顔をした大佐さんは、子供を抱きながら、笑おうとしているのに決して笑えない、くしゃりと泣き出す手前のような、それでいて鋭い目をしていた。まるで感情がばらばらだった。丁寧に皺が伸ばされ、何度も何度も取り出していたように、新聞の粗悪な紙は随分毛羽立っていた。エカテリーナさんは、あの写真を、あのイシュヴァールの記事を、どんな思いで取っていたのか。
大佐さんを、憎んでいたのか。
大佐さんを、愛していたのか。
エカテリーナさんの額の汗が跪いたわたしの元まで飛んできた。
魂を燃やしている。今、この一瞬、この舞台の上で、エカテリーナさんは魂を燃やして、女王を生きている。泣き出しそうになる気持ちを殺すために、唇を噛み締めた。エカテリーナさんは、笑っていた。夢みたいにキレイに笑っていた。楽しそうだった。心を麻痺させるような甘い声、目に見えない、自分を救ってくれない神を憎み、呪い、それでも縋ろうと葛藤する悲しいシーンなのに、悲しい顔をしているのに、エカテリーナさんがその魂の全てをかけてこの舞台を楽しんでいるのが分かった。
そうか、あなたは、本当に舞台を愛しているんだ。
寵姫が立ち上がり、わたしもそれに続いて舞台をはけた。
皮膚を焼くほどに熱いスポットライトの当たる舞台から、暗い舞台袖へと引っ込みながら、わたしは涙を抑えることができなかった。震えていた。胸がいっぱいで、その場にへたり込んだわたしの腕をアリシアや、駆けつけたグレッグが引き上げるように抱き起こした。耳にはまだエカテリーナさんの声が届いている。
大佐さん、お願い……お願いだから、あの人を助けて!!!