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ロイ、あなたはもう、収容所で見た少女のことなんて、覚えちゃいないでしょうね。


わたしが生まれたのは、イシュヴァール人とアメストリス人が平和共存していた町、ゲリン。
朝焼けが町を取り囲む岩肌がその太古の地層までも真っ赤に燃やし、荒野の硬質で清潔な乾いた風が眠る子供の頬を撫でていく。子供の肌の色は、アメストリスの白でも、イシュヴァールの褐色でもない。どちらにも属さず、どちらにも属す、混血の子供。私のちいさな弟。もうあの子の名前を呼ぶ人はどこにもいない。あの子の規則正しく眠る、やんちゃなちいさな体に毛布を掛けてやる人は誰もいない。あの子が愛した小さな秘密の屋根裏部屋も、先祖から伝わる暖炉も、かくれんぼをした父のとうもろこし畑も、もう、どこにもない。ナツメヤシを強請ったあの子に、どうして溺れるほど与えてやらなかったのか。あの子があの小さな手で掴もうとしていた未来も、夢も、もうどこにもない。

今はただ、灰燼と化した町の灰が、取り囲んでいた太古の地層のひと重ねとなるばかり。



ハインケル市長が町を守ってくれると思っていた。
多民族国家、アメストリスを象徴する平和な町。わたし達の間には、肌の色も、目の色も、風習も、宗教的価値観の違いだって横たわっていたけれど、その大きな川を越えていく事は容易かった。私たちは互いに愛し合って生きていける。
無学で素朴な民であった私たちは、裏切られるその瞬間まで、あの人を英雄だと信じて疑わなかった。


私たちの一体何が憎かったのか。何を怖れていたのか。
フォッカーが町を草の根ひとつ残らないほどに焼き尽くしたとき、ゲリンの灼熱の大地は黒く焦げあがった。
たんぱく質の燃える匂い。あなた、よく知っているでしょう?



軍が町へ押し入ってきたのは、学校だった。
勉強していた私たちを運動場へと引きずり出して、男の子も女の子も年長も年少も構わず、どんどん、どんどん、押し込めるだけトラックへと収容した。何も聞かされないまま、出荷される家畜のように、座るスペースだってないほどに詰め込まれ、トラックは走り出した。子供達の泣き声の中にも、激しい銃声や悲鳴が聞こえていたのを覚えている。蒸し暑さと息苦しさに喘ぎながら、私はなにか恐ろしい事が起きた事に気づかざるを得なかった。やがてトラックは収容所についた。私たちは降ろされ、典型的なアメストリス人の子供たちばかりが救い出されるかのように連れて行かれた。軍人達はアメストリス人の子供を抱き、頭を撫で、次々に列車へと乗せていくのを見て、私は何が起こったかを理解した。


私は6歳年下の弟の姿を探して、パニックに泣き叫ぶ子供達を押しのけ掻き分け、その手を掴んだ。
あの子を守ってやれさえすれば、きっと大丈夫だと思った。あの子の傍にいさえすれば怖くなかった。小さな乳の匂いがする身体を抱き締めていれば、不思議と勇気が沸いてきた。そうしている間にも無慈悲に、不条理に、子供達は選別されていく。いよいよ私達の番だった。私の手を握っていたあの子を、誰かが悲鳴を上げる私の腕から引きちぎるように奪っていった。あの子の名前を叫びながら暴れる体を軍人達はいとも簡単に抱きすくめ、私の顔を掴んで無遠慮に眺めた。でもすぐに会えると思った。弟と一緒だから、と。早く追いかけなくっちゃ、と思った。


「少佐、この少女は?」


そこにいたのは、あなただった。
あなたは無表情だった顔から、苦痛のような顔をして言った。────アメストリス人だ、と。










すぐに、エカテリーナの部屋へと飛び込んだ。
今行動を起こせるのは私しかいなかった。すぐにでもエカテリーナとウィンチェスター卿のやり取りの証拠のようなものを見つけなくては、と部屋を引っ掻き回そうとした時、彼女がいつも使っていた鏡台の上に手紙が置かれているのを見つけた。宛名は私宛てだった。破るようにそのEの文字の蜜印をはがし、分厚い手紙に走るように目を通し、崩れ落ちそうになる膝を奮い立たせて、広い劇場を恨めしく思いながらまた走り出す。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ、エカテリーナ!────もう戻れなくなるぞ!!


まるで夢の中を駆けているかのように、手も足もばらばらで、走っても走っても景色がスローモーションで、まるで水の中をもがきながら走るように、すべてがもどかしかった。肉体を持っていることをもどかしく感じるほどに喘ぎながら、そしてウィンチェスター卿がいる個室の前にたどり着いた。入室を拒もうとする屈強な護衛たちも、この逃げも隠れもせず身元を保証できる私には渋々ドアを開けようとする。顔が売れていたことをここまで感謝したことはなかった。乱暴にドアを叩いてウィンチェスター卿の名前を呼んだが、しかし中から彼の返事はない。


礼儀などかなぐり捨てて乱暴にドアを開けて、勝手に部屋に立ち入れば、カーテンの向こうにいる己の主の返事を待ちかねていた護衛たちが銃を構えるのも無視して、部屋に立ち入り、乱暴にカーテンを開けた。









ロイ、あなたは、私を生かしてしまった。
どうして、弟と一緒に死なせてくれなかったのか。
どうして、アメストリス人を殺して、殺して、殺しに殺したあなたが、たった一人、あきらかに混血の少女を助けようとしたのか。



そんなことはあなたのエゴだ。自己満足だ。私は生きていたくなんかなかった。
あの子の小さな手が「おねえちゃん」と叫びながらこの指から弾けるように引き剥がされた瞬間に、私には覚悟ができていた。あなたが無責任に生かした混血の少女が一体どれほどの覚悟をしていたのか、あなたに想像できて?暴力に満ちた社会に放り出された混血の少女に、一体どんな人生が待ち受けていたか、あなたに想像できて?戸籍もなく、家族も、頼れる人もなく、国家的に抹殺された民族の混血児が、一体どうしたらまっとうな生き方ができたというのか。日の光を浴びて、愛情を受けて生きていくことができたというのか。家族と共に殺してやる事が親切ではなかったのか。あなたは自分が救われたかっただけの偽善者だ。夢見の悪さを逃げただけだ。生を与えておきながら、その後の人生にはなんの責任も持たない、神のように傲慢で独善的な人だ。




すぐに新聞の切り抜きであなたを見つけた。
私の命の恩人は、私たち同胞を焼き殺した人だった。誰かの母を、誰かの父を、誰かの弟を、焔の名の下に容赦なく焼き殺した人。戦場で英雄になるという事は、いかに効率よく、多くの敵を殺したか、という事。私たちはあなたの敵。あなたが殺すべき存在。出会った場所が違えば、あなたは少女の肉体を焼いただろう。直接家族を殺したのがあなたでなかったかもしれない。でも、連日収容所の新聞で目にした英雄はあなただった。華々しくあなたの“戦歴”を伝えるラジオの声。そうしていつしか、全てのイシュヴァール人を殺したのはあなただと刷り込まれた。あなたがアメストリス国軍の代表となって、わたしの憎しみの対象となった。


あなたを憎んだ。
殺したいほど憎んだ。


戦争孤児となった少女がいきなり社会に放り出されてできる仕事なんて、想像がつくでしょう。
そうした混乱の中、私はいつかの日、愛しい男が抱く筈だった処女を失い、若さも楽しさも失い、それでも生きようとした。そうしてあの闇のような男の庇護下に入った。惨めな生活だった。愛を夢見る少女には、あまりに苦痛だった。人生が苦痛であればあるほど、あなたを憎んだ。あなたが与えた人生を恨み、呪った。


でも、舞台の上では、私は幸せな娘でいられる。
きらきらとした青春の輝きに頬を染める少女達の中で生きる事ができる。もっと、もっといたい。こんな醜い現実じゃなく、あのスポットライトが当たる美しく幸福な世界に一秒でも長くありたい。爆発するような拍手をこの身体に浴びるとき、私はこの身体が弾け飛ぶような幸福を知った。もっと上手くなりたい。もっと輝きたい。もっと幸福を知りたい。ああ、拍手と歓声。私を愛してくれる声。私を認めてくれる声。この世界に私という女が生きていることを祝福する声。



あなたが私を助けてくれたから。



愛してる。この命を救ってくれたあなたをたまらなく愛している。
苦しくて堪らない顔で私を「アメストリス人」と言ったあなたを、愛している。
この穢れた身体も、罪も、業も忘れ、あなたの腕に飛び込みたい。この胸に一点の曇りもなく、純真な心であなたに抱かれたい。あの少女の頃のような、健全な気持ちであなたに恋がしたい。――――でも、それはもう不可能なこと。あなたはあまりに多くのイシュヴァール人を殺しすぎた。あなたはあまりに多くのものを奪った。そして、与えてしまった。


あなたを憎んでいる。
あなたが与えたこの命、この人生、この愛、もうなんにもいらない。もう十分。素晴らしい夢を見た。
あの男は連れていくわ。あの男は法では裁けない男だもの。あの男もまた、私の業。あの男は私の親で、私の男で、そして私にエカテリーナという人生を与えた神。だから私が連れて行く。だってあの人、私と一緒じゃないと拗ねるんですもの。




ロイ、ありがとう







舞台袖では、みんながじっと、クライマックスを見守っていた。
誰も身動きひとつしなかった。音楽も、エカテリーナさんの声も、王の歌も、しっかりと聞こえてくるのに、舞台袖は水を打ったように、キツく張られたピアノ線のように静かに張り詰めていた。互いに手と手を取り合い、寄り添いあい、眼球が干からびてしまうほど、瞬きだって惜しいほど、一瞬たりとも聞き漏らすことのないよう、息を殺して舞台を見守る。



魔法の力で少年の姿に変わっていた王がいよいよその正体を現し、女王を追い詰めていく。
王は女王を罵り、蔑み、憎み、呪いの言葉を吐きかけていく。しかしその言葉と比例するように女王の顔が光り輝いていく。王と女王のフーガ。王が癇癪のように激しく怒鳴れば怒鳴るほど、女王の声は甘い母性と愛の喜びに震え上がった。だが王は女王を許すことはしない。どんどん女王を宮殿の天辺へと追い詰めていく。自分を裏切り、美しい少年を愛した女王を王は決して許さない。女王は泣きもしなければ、弁明もしない。まるで今この瞬間、万物の真理を見出した賢者のように、楽園を約束された聖者のように、そして愛を知った少女のように表情を輝かせて、一歩ずつ破滅への階段を登っていく。


激しく、狂気のように、恍惚と、女王は歌い続ける。



『私の魂はあなたを愛した。例えあなたがどんなお姿になっても、あなたの魂を愛したのです』


エカテリーナさんの人生をかけた舞台が、いよいよ終る。
ゆっくりと王宮の天辺へと続くエカテリーナさんの足取りは威厳に満ちていた。
隣でアランがじっと食い入るように、その一挙動一挙動の、たとえ一瞬でも見逃すまいとするかのようにエカテリーナさんを見つめている。奥ではグレッグが、今まで見た事もないほど真剣な顔をしている。いやグレッグだけじゃない。この場の誰ひとりとして、陽気な顔をしている人はいなかった。エカテリーナさんの喜びに満ちた声ばかりが、わたし達の心臓を握り締め、支配し、呼吸する術を奪った。


────ああ、舞台が終わる!!!










もはや生存の希望はなかった。
乱暴にカーテンを捲った先にいたのは、まるで王の座る玉座のような豪奢な椅子にしがみつき、目を見開いてうな垂れるウィンチェスター卿の肉体。このアメストリスを影から支配した男の死体。ゆっくりとバルコニーから舞台を見下ろせば、舞台はいよいよクライマックスへと突入していた。


エカテリーナの声。私の名前を呼んだ、エカテリーナの声。
あの声の中に、一体どれほどの心を秘めていたというのか。客席中が息を呑んで、食い入るように女王を見つめている。全身で鳥肌を立てて、エカテリーナの人生の全てを込めた舞台を見守る。もう戻れない場所まで来てしまった。少女よりも、あまりに遠い世界にエカテリーナは踏み込み、そしてそれを感受した。彼女に与えられた人生の業も、罪も、願いも、エカテリーナは全て飲み込んでいこうとする。隣で護衛たちがボスの暗殺に声を荒げ、部屋を飛び出していく慌しささえ、エカテリーナの歌声の前では無と同じことだった。


エカテリーナが一歩ずつ、その階段を上り詰めるにつれて、胸の底から形容しがたい感情が込み上げてくることを抑えられなかった。胃液が込み上げるように、口の中が酸っぱく感じられた。食い入るように舞台を、エカテリーナだけを見つめる。


その時、エカテリーナと目が合った。
その目がにっこりと満足したように歪んだ。頷き返した私に、エカテリーナが微笑む。まるでいつも通り、人ごみの中から見つけた私に、私たちだけが理解できる秘密の言葉を送った時のような、悪戯っぽい瞳だった。エカテリーナからの無言のメッセージに私はただ頷くことしかできなかった。エカテリーナは、既に決断していた。女王は短剣を取り出し、その胸へと突き刺した。




『貴方もまた、地獄の業火に焼かれる日が来るのでしょう。私の憎しみのためではない。私の愛のために』



────そして、女王は幸福へと落下した。