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「こんにちは。わたし 夢子。わたし 水 飲む。わたし 森 走る。ありがとう」

「ありがとう」
「ありがとう」
「ありがとう」



翌日、エルヴィンを伴って現れたダリウス相手に昨日覚えたばかりの言葉を繰り返す夢子に、ダリウスはまずは満足といった顔で頷いていたが、エルヴィンは内心で(まるで九官鳥のようだ)と感じていた。
与えられた言葉を、覚えさせられたフレーズだけを、延々と繰り返す愛玩の鳥。
元々は壁内に生息する自然種ではなく、人類が壁外に生きていた頃にどこかの大陸から持ち込まれ、金持ち連中の道楽として飼われていたものがそのまま壁内でもブルジョワの玩具となっている鳥だ。いつか、どこかの屋敷で行われたスポンサー集めのパーティーの場で見たときは非常に驚いたものだが、今はなぜか、一生懸命に同じ言葉を繰り返す夢子を眺めながら、確かに驚きを感じながらもどこか冷やかな気持ちでいることを自覚した。


―――――こんなペースでやっていて、いつ、彼女の持って居る技術を聞きだすような複雑な語学力が得られるというのだ。


分かっている。そう容易いことではないと。気長に待つべきことだと。しかし、エルヴィンには、言葉を覚える、言葉を教えるための教育にかかる時間を悠長に待つような学者特融の気長さは生来持ち合わせていなかった。


「どうです?一夜でよく覚えたでしょう。まだ発音に問題はありますが、これから単語や文法をどんどん教えていきますよ。それに助詞も憶えなくてはね。意思疎通をスムーズに図るための単語は3万語必要と言われていて赤子に教えるよりは手間が」
「ダリウス教授、我々には時間がない」


よく躾けた芸当が上手く披露できた事に浮かれたように早口に話したダリウスの言葉を遮ったエルヴィンの声色は、ダリウスのものとは全く違い、冷え切っていた。自分の話した言葉が正しいのかと不安げな顔をしていた夢子も、エルヴィンの言葉が分からないなりにその声色の冷たさを感じてさっと表情を凍らせた。


「ダリウス教授、夢子には一日でも早く、自然に会話する力をつけさせて頂きたい」
「でしょうね。なら私からも一つお願いがあります」
「……なんだ?」
「彼女を外に出してほしい。もちろん、町へとは言いませんよ。まだ刺激が強すぎるからね。しかし室内に存在する物には限りがあり、単語を仕込むには足りないものばかりです。空を見なければ空という単語は覚えられないし、触らせてみなければ教えられない感情もある。私は絵心がないのでね。黒板に書くのも限度がありますから」


ダリウスの言い分はエルヴィンにもよく分かった。
言葉が通じない以上、言葉を覚えさせるには目で見て、五感で体感して覚えさせるしかなかった。
いくら口頭で「土」を伝えても、そもそも言葉が通じない。それよりは、実際にその手に「土」を握らせればそれで事足りる。
しかしエルヴィンは思案した。夢子を軟禁しているこの小屋が、調査兵団の中でも限られた人間だけが往来する宿直室だったとしても、外部の人間が出入りをすることは多々ある。あきらかに容貌が自分たちと違う娘をうろうろさせては、注目を浴びる。
それでは意味がない。
壁外を思わせる「異分子」は徹底的に隠さなくてはならない。



「外出は許可しよう。ただし、今日より夢子を私の屋敷に移送する。そこでの自由を保障しよう」



君の部屋も用意するから、今住んでいる下宿を引き払うと良いと付け加えたエルヴィンに、ダリウスは素直に感謝の言葉を述べた。
いずれにせよ、こんな場所に長期間、人間を一人監禁しておける筈はなかった。トイレはあるが、水回りが圧倒的に欠けている。まだその語彙力がないせいか不満を訴えては来ないが、水浴びなどもさせてやらなければ、情報を得る前にこんな若い娘なんか簡単に壊れてしまう。夢子の筋肉の付き方や歩き方、立ち居振る舞いは町を歩く小娘らとなんら変わりはなく、特別な訓練を受けた形跡などまるでなかった。強靭な精神力など期待はできそうになかったし、そんな不必要なものを持つが故に自らの秘密を守ろうと反抗する様子がない事が幸いだった。今のところ夢子は従順だし、言葉さえ与えれば持って居る情報を話すように思われた。なにより従順であることを前提に事は進んでいる。


「移送の手筈を整える。ダリウス教授は、彼女に移動するという事を伝えてくれ。…くれぐれも、抵抗はするな、と」


機嫌よく返事をしたダリウスは、表情ひとつ変えずに部屋を出てったエルヴィンを見送ってから、はたと気がついたように夢子を振り返った。状況がまるで分かっていない夢子は、いまだに不安そうな顔をしてダリウスを見つめるばかりだった。


「抵抗はするなって、どうジェスチャーで伝えれば良いんですかね…」















エルヴィンがどこかへ行ってしまってから、ダリウスはあれやこれやとわたしに何かを話したけれど、ちっとも分からない。
授業じゃなくて、何かを伝えようとしているんだってことは分かったけれど、何を伝えたいのか、どうしたいのかはよく分からなくて、エルヴィンが言った言葉が関係しているのかと思ったけれどそれを知る術はなかった。もどかしくて堪らない。大人しく、ダリウスが言う事を少しでも理解できるように話を聞くけれど、昨日覚えた「わたし」という一人称以外は理解することができなかった。


「さぁ!その娘をこちらへ!」


突如部屋にあわただしく入ってきた兵隊たちの姿にわたしは思わず小さく悲鳴を上げて、椅子から立ち上がった。
兵隊たちの方でもわたしを見て少なからず驚いた顔をして、口々に何かを話していた。この、日本人の顔が珍しいから?
兵隊たちの中の一人が何かを大きな声で言って、わたしを取り囲んだ。その手に縄が見えた瞬間、ダリウスが大きな声で何かを言ったけれど、理解できる筈なんかなくて、突然現れてわたしに向かって腕を伸ばした男に、ふっとハイドニクの事を思い出して、男の顔と、あの、地下街での男の顔がだぶって見えて、わたしは声を上げてしゃがみ込んだ。


『いや!やめて!!なんなの!?なにするの!!?』


声を上げて椅子にしがみ付いても男たちは簡単にわたしを椅子から引きはがして、頭からすっぽりとローブのようなものを掛けた。その間も声を上げて、手あたり次第、触れるものを掴んで抵抗しても、大きな男の手が強引に腕を掴んで、その力の強さは骨まで届くようで、ダリウスが何かを言っているけれどそんな声は男たちの声でかき消された。


いやだ!こわい!なに!?急にどうしたの!?わたしが上手に喋れなかったから!?
どうするの!!わたしをどうするの!!?ここに居られないの!?こわい!!やめて!!―――――どこにも行きたくない!!


たすけて!!!



「おい、お前ら何聞いてたんだ?」


わたしの身体を床に抑えつけた男たちの動きがぱっと止まった。
両腕を抑え込まれて、イスラムの女性のような黒い全身を覆うローブに顔まで覆われて、うまく息ができないのに、頭を床に押し付けられて、頬が床板のワックスも塗られていない荒れた板で激しく擦れて、ひどく傷んだ。身体は情けないほど力が入らなくて、ぶるぶると震えているのが分かった。怖い。怖い。怖い!どこへ連れていかれるの!?やっぱり殺されるの!?


「これは…これは、乱暴がすぎます!リヴァイ兵長ッ!!」


ダリウスの怒ったような声の中に聞き慣れた名前を拾って、頭を抑えつけられたままのわたしは目線だけをぱっと上げた。
リヴァイだった。
リヴァイだ…リヴァイ!知っている顔だ!この人は知っている人!看病してくれた人!兵隊たちは知らない!でもこの人は知っている!助けて!リヴァイ助けて!「助けて」という言葉を知らないわたしは、代わりに何度も何度もその名前を呼んだけれど、叫んだつもりの声はローブのせいだけじゃなくて、嗚咽になってうまく声にならなかった。眉を寄せてわたしを睨んだリヴァイが何かを言えば、男たちがわたしの身体から退いた。でもわたしはまだ立ち上がることができなくて、抱き起してくれたダリウスの肩にしがみ付いて震えた。


「相手は言葉の通じない動物と一緒だと言った筈だ。無理に縛れば抵抗する。お前ら巨人よりも、人種が違う人間が怖いのか」


リヴァイの言葉はもちろん分からなかったけれど、兵隊たちはその言葉を受けて黙り込んだ。
リヴァイの立場がどんなものなのかは分からないけれど、でもこの人は指揮する立場にある人なのかもしれないと思ったけれど、わたしはダリウスがわたしを守るように肩を抱いてくれた事に安堵しながらも、まだ恐怖は残っていた。


どこへ行くの?
ここに居られないの?
これからわたしをどうするの?―――状況は、悪くなるの!?



「夢子、お前をエルヴィンの家に移送する。大人しくできると誓え」


リヴァイがわたしと目線を合わせるように膝を折って、何かをゆっくりと話した。その言葉の中に「エルヴィン」という言葉を拾って、わたしがその名前を理解できたことを伝えようと「エルヴィン」と呟き返したら、リヴァイは「そうだ。エルヴィンだ」とまたエルヴィンの名前を言った。エルヴィン…。あの人なら、きっと、大丈夫だ。ダリウスを紹介してくれた人だ。


「大人しくできるか?」


またリヴァイが何かを言った。言葉は分からなかったけれど、何かを聞いていることはなんとなく分かって、そしてそれを言ったのが他でもない、わたしをずっと看病してくれたリヴァイだったことに安堵して、わたしは頷いた。エルヴィンと、リヴァイ。大丈夫。この人たちは、大丈夫。もう一度頷いたとき、目に溜まっていた涙がぼろっとこぼれて、擦りむいた頬を伝ってわずかに痛んだ。リヴァイは頷いて、まるでお手ができた犬にでもするように乱暴にわたしの頭を撫でて立ち上がった。

「出発だ」