27


────女王が落下した。
やがて王の王国は朽ちた。女王の憎しみのためではなく、女王の愛のために。




わたしは溢れる涙を止めることはできなかった。
観客席から爆発するような拍手が鳴り響き、人々は女王の名を最高の敬意を持って叫び、わたし達は舞台袖で隣に立つ人と抱き合い、声もなく泣きながら、打ち震えた。髪の毛が逆立つほどぞくぞくとした感覚で、胸が熱くなってたまらなかった。幕が下ろされても、狂気の拍手は鳴り止まず、肌をビィンと震わせるほどだった。もう言葉はなにもでなかった。しかし私達の胸を震わせる無言の恐れにも似たほどの喜びを打ち破ったのは、グレッグの震える声だった。



「おい、短剣なんて予定になかったぞ」


グレッグがそう呟いた。
振り返るとその顔は青ざめ、何かを思いついたかと思えば人ごみを掻き分け、押しのけるようにして走り出した。グレッグに突き飛ばされたコーラスガールの悲鳴は誰の耳にも届かず、手に持っていた小道具も、繋いでいた誰かの手も、抱き合っていたその人さえも突き飛ばすようにして、人々はグレッグに続くように走り出した。巨大なセットの裏は“奈落の底”だった。底へと続く狭い階段を押し合いながら転げ落ちるように駆け下りる。途中で階段を踏み外しそうになったり、ぶつかってくる人の波に転がり落ちそうになるのを震えながら耐え、われ先へと奈落の底へ飛び込む。底には落下を受け止める巨大なマットがしかれていた。埃くさい奈落の底で、先に辿り着いた人々は恐ろしいほど静かに沈黙していた。立ち尽くすグレッグと、黙りこくったスタッフ達を押しのけてマットの前へと進み出た。




マットの上でエカテリーナさんが眠っていた。
いや、眠るように穏やかな微笑みを浮かべ、マットの上で大の字になって倒れている。
マットには黒い血溜りが、海のように広がっていた。



女王の帰りを待つ観客席からは、いつまでも、いつまでも、鳴り止まない拍手が雷鳴のように響いていた。








『エカテリーナ、スポンサーと無理心中か!!』
『アメストリスの黒幕、影の大総統、愛人に暗殺される』
『アメストリスの女王はイシュヴァール人との混血!!女王が見たイシュヴァール戦の真実!!』


『私はこの記事を書く手が震えるのを止める事はできない。オペラの女王、エカテリーナのセンセーショナルな死を前に私は記者としての言葉が何も思いつかない。アメストリスに黄金のオペラ史を築き上げた女王の死に哀悼の意を表したい。そう書き始める事さえ許されない。エカテリーナが殺人犯であるからだ。スポンサーとして公私共に付き従っていたウィンチェスター卿を毒殺したのだ。それも自身の恩人であるウィンチェスター卿の計画を逆手に取った計画だった。彼と某議員との喧嘩別れは我々の記憶にもある事だろう。そして先の内乱の折には、軍上層部のとある将校が彼の手を噛み付いた、という事も。


軍と議会の懇親パーティーで催される『落下の女王』の場を持って、ウィンチェスター卿はこの二人に復讐を計画していた。資産家でもあり、マフィアのボスであり、アメストリスの黒幕とも称される彼にとって、復讐とは些細なゲームかもしれない。だが今回は違った。自身の愛人であるエカテリーナをその舞台へと巻き込む事とした。愛人から毒を盛らせようと計画していた。エカテリーナから差し出されるグラスは、例えそれが毒であっても口をつけてしまう美酒となる。美しい女によって、彼の計画には彼特有の芸術的要素を加えるつもりだったに違いない。


しかし、愛人の手に渡った毒は、彼自身の身体を食い破った。エカテリーナが殺したのは、某議員でも軍人でもなく、ウィンチェスター卿であり、そして最後には自分の魂さえも殺した。エカテリーナは、死ぬその瞬間まで、女王であった。<エカテリーナの手記は3面に続く>』







一瞬のうちにエカテリーナの死は新聞各社を駆け巡った。
たった数時間前の出来事が、すでに号外として町中に配られていた。
それはエカテリーナが自ら手記を新聞各社に送っていたからだった。この事件の経緯、方法、目的、証拠。それら全て、舞台が終る頃合に届くよう時間指定で配達がされていた。そこには自らの出自、半生、ウィンチェスター卿との関係。そしてハインケル議員とフォッカー中将について、彼女がその広いコネクションを利用して調べえるだけ調べた汚職の数々。内乱が起こるよりも早くハインケル市長が家族を連れてゲリンを離脱する事ができたのは、彼が軍部とのコネクションによりいち早く内乱の情報を察知していたからだった。イシュヴァールとの共存をうたい、出世への足がかりをつけた筈だったが、内乱終結後はすっかり民族優位主義に染まっている。そしてハインケル議員は、ゲリン市長であった頃の土地勘や住民票を軍へと横流しし、イシュヴァール人の住む家や、家族構成、勤め先など全てを教える報酬として中央議会への出馬の際、軍から多額の援助を受けていた。平和共存を叫んだ彼は自分の町に住んだイシュヴァール民族を売り、血に汚れた議席を得ていた。


フォッカー中将は、ウィンチェスター卿からの援助を受け、軍部に報告にない軍靴やレーション(戦闘食料)、小銃を導入し、しかし他社と談合取引をした汚職。話題に飢える新聞社がこれほどのニュースをほうっておく筈もなく、エカテリーナのニュースは新聞の一面を飾り、どのページにも関連ニュースで溢れかえった。実際のところ、政治でも、ゴシップでも、経済でも、芸術でも、これほどの面々と関わっていない業界はなく、新聞中が『落下の女王』を書きたくっていた。“被害者”であるハインケル議員とフォッカー中将の名は伏せられてはいたが、読む人間が読めば二人の名前を思い出す事は容易かった。もはや出世も、名誉も、家族からの信頼も、彼らの手から永遠に遠ざかった。例え議会と軍部がもみ消したとしても、彼らは社会的に抹殺されたも同然だった。それが、エカテリーナの下した審判だった。



エカテリーナは、その死を持って、復讐を果たしたのだった。










エカテリーナさんの部屋には軍人たちが幾人も入り込み、勝手に何もかもダンボールに詰め込んで持ち出していった。
エカテリーナさんは、人を殺した。だから彼女のプライバシーや、秘密、愛したものは全て曝け出され、暴かれ、いろんな人間の手を渡って全てほじくり返されていく。エカテリーナさんが丁寧に手入れをして使っていた靴も、あの波打つ美しい髪を梳いたブラシも、はちみつ入りのホットミルクをおいしそうに飲んだマグカップも、全て乱暴に梱包されて運び出され、部屋はがらんどうになっていく。いつでもエカテリーナさんがこの部屋に戻り、あの鏡台の前に座り、「夢子」と名前を呼んでくれそうだった彼女の名残は無慈悲に取り壊されるかのように奪われ、主を失い、残された血と肉すらすっかり解体されていく部屋に浮かび上がってくる寒々としたただの部屋としての空間ばかりが残った。


その様子を黙って、腕を組んでみているわたしの肩をジャンが抱いた。
ジャンの掌からは無言の同情と悲しみが伝わり、一人じゃ立っていられない程に疲弊しきったわたしはジャンの胸に無遠慮にもたれ掛りながら、淡々と進んでいく作業を見守った。



ウィンチェスター卿は、毒殺だった。
あの香水の瓶に入っていたのは、香水ではなく、毒だった。
ウィンチェスター卿の胃の中からは、ブランデーと一緒に毒が検出された。死体の傍にあったブランデーのボトルからは、致死量の毒が検出された。多分、ウィンチェスター卿は死ぬ直前まで、エカテリーナさんが自分の憎い相手に手を下すと信じていた。そして“落下の女王”を見物しながら、勝利の美酒を味わおうとしたに違いなかった。


毒が入っていた、香水の瓶。
あの時、わたしが香水瓶に手を触れようとした時、エカテリーナさんはひどく怒った。
一度だって見た事ないくらいに怒って、瓶を金庫にしまった。それはわたしを心配してくれたから。わたしが無邪気に毒の詰まった瓶をあけ、この手首に一滴垂らすところだったから。だから、わたしを抱き締めてくれたんだ。わたしが無事だったから。わたしを好きでいてくれたから。友人のように、娘のように、母のように。



泣きたい気持ちが込み上げてくるのに、どうしても涙は出てこなかった。
泣き喚いてしまえば楽になれるって分かっているのに、くしゃくしゃと顔が歪むばかりで、やりきれない気持ちばかりが込み上げて、どうしようもなくて、むしゃくしゃして、身を引き裂かれるようで、たまらなかった。神経ばかりがはりつめて、ひどくイライラとした。


「梱包が完了したので、ここにサインを」


無愛想に、ごく事務的に差し出された書類に、わたしはサインをした。




付き人としてのわたしの仕事が終った瞬間だった。