最終話
一人になりたい、とジャンのもとを離れて、まるで彼女の残り香でも探すように当て所なく劇場を歩き回った。
泣き叫ぶようなバレリーナたちの悲鳴も、噛み殺すようなスタッフたちの嗚咽も、あちこちに溢れかえる軍人たちの事務的な話し声も全て耳を通り過ぎた。実感がなかった。まるで現実感というものが感じられないままだった。とにかくもうあの部屋にはいたくなかった。付き人として与えられていた部屋にも軍人達が入り込み、あそこへ帰ることもできず、どこに行っても泣き顔と出会うことにうんざりして、傷ついた獣が古巣へと逃げ込むように、ジャン達が寝泊りに使っていた部屋へとたどり着いた。ノックもせずにドアノブをあけて部屋に入り、先客を見つけてなんと言って良いかわからずに、結局何もいえなかった。
大佐さんに、一体わたしが何を言えるというのか。
大佐さんの顔は泣いてはいなかった。困惑もしていなかった。
デスクの上に積み上げられた書類と向き合い、入ってきたわたしに力なく微笑んだ。
「君からメモを貰っていたのに、どうする事もできなかった」
すまない、と謝る大佐さんに返す言葉も見つからず、わたしは傍にあった簡易ベッドに腰を下ろした。
それを言うならわたしだってそうだ。一番近くにいたのに。一番あの人の傍にいたのに。みんなの腕を振り切って、舞台へ駆け出し、あの長い階段を登り、驚くエカテリーナさんの腕から短剣を奪い取ることができる距離にいたのに。ああ、わたしは魔女なのに!……人を生き返らせる力も、時間を撒き戻す力もなかった。
「私は分かっていたのかもしれない。エカテリーナが“落下の女王”をどう終らせるのか。あの時、行動しようと思えばいくらでも行動できたというのに、私はそれをしなかった。そんな事をあの女が望んでいるとは思えなかったからだ」
大佐さんの声ははっきりとしていて、その声色に悲壮感はなかった。
ただ目の前の事をしっかりと受け止め、納得している大人の声だった。なんと言っていいか分からず、でも、どこかでそう感じていた自分は、ただくしゃくしゃに顔を歪めて唇を噛み締め、途方に暮れたような気持ちで大佐さんを見つめるしかなかった。
「その少女の事など、まるで覚えていないんだ」
書類を書いていた手を止めて、大佐さんがぽつりとそう漏らした。
書類を見つめながら、でも書類じゃないもっと過去の一瞬を見つめる大佐さんの顔は疲れきっている。
「ゲリンから50マイル離れた駅は、丁度汽車の乗り換え地点だった。確かに多くの子供達の姿を見たような記憶があるが、その中にいた少女の事はどうしても思い出せない。汽車に新しく兵士をつめこみ、補給物資をたっぷり詰め込み、また私達は前線へとピストン運動で送り込まれた。駅にいた時間は一時間にも満たなかったかもしれない。その一時間で、私は一人の少女の人生を変えてしまった。私自身はもう記憶すらしていないというのに」
なんという業なんだろうか、と大佐さんは吐き出した。書類の上で握った拳がぶるぶると震えていた。
「ウィンチェスター卿は死んだ。そして議員と中将はこれから社会的制裁が下るだろう。ならばこの私の罪を、彼女はどう裁くつもりだったのか。いっそ私に毒を盛ればよかった。寝首を掻ける瞬間だっていくらでもあった。さぞ私を憎んで死んでいった事だろう」
「それは違う!!」
噛み付くように声を上げたわたしに大佐さんが驚いたような顔をしたけれど、一番驚いたのは自分だった。
だって、でも、だってそれは違う!絶対に違う!大佐さんの目は、君に何が分かるのかね、と冷ややかだったけど、わたしはもつれる舌がもどかしくて、癇癪にも似た声で叫んだ。
「それは違う!絶対に違う!エカテリーナさんは大佐さんを好きでした!!」
「夢子、君には分からない。私達の関係は決して世間に胸を張れるようなものではなかったし、エカテリーナが私に近づいたのも、君が抱く幻想のような愛とは違う、全く別のものだ」
さっきまで、いくら苦しんでも涙なんて一滴もでなかったのに、今度は漫画みたいな大きな涙がぼろっと零れ、それを皮切りに蛇口を捻ったようにぼろぼろと涙が零れ、英語が出てこなかった。日本語でそうじゃないのに…と吐き出しても大佐さんには届かない。大佐さんは、あの舞台を見た筈だ。エカテリーナさんのあの顔を見た筈だ。あれが人を憎んで死んでいく人の顔なもんか。あの歌が、あの物語が全ての答えじゃないか。英雄という肩書きに恋をしていない私を喜んだ人。ライバルの登場だと少女のようにはしゃいだ人。ウィンチェスター卿から大佐さんを守ろうとした人。どうしてそれが全部嘘だって言えるのか。
声にならない声でそう吐き出して、噛み殺せない嗚咽をこらえて大佐さんを睨むように見つめるわたしの前まで、大佐さんは歩き、跪いて目線を合わせた。優しい目は、まるで聞き分けのない子供に辛抱強く付き合うようだった。そしてまさに、大佐さんにとってわたしは聞き分けのない子供だった。
「子供の君には分からないことだ」
「もう子供じゃない!わたし、子供じゃない!!」
目の前の大佐さんに、奪うようにキスをした。
体温が低く、乾いた唇だった。瞬きをするような一瞬だけ、重ねた唇だった。無意識に大佐さんの頬に添えた両手から伝わる体温が低くて、自分ばかり熱い気がした。指先でざらざらとした厚い皮膚や少しちくちくとした産毛を感じた。男の人の肌だった。わたしとは違うもので出来た肉体を持つ人の肌だった。わたしの知らない事をいくらも知っている大人の肌。
たった一瞬、唇と唇が重なりあっただけなのに、わたしはもっと泣き出したくなるくらい、この人を愛おしいと想った。
声もなく呼吸をするような一瞬を見詰め合ったわたしを、大佐さんが乱暴にかき抱いた。身体が痛いほど、強くわたしを抱き締めた大佐さんの体温が泣きたくなるくらい熱くて、わたしは大佐さんを抱き締めた。大佐さんが「だから君は子供なんだ」と苦しそうに吐き出す声を聞きながら、もう何も考えられなくなって泣き出していた。
エカテリーナさんは、この人を、魂をかけて愛していた。
どうして、この子を可愛いと思わずにいられるんだろうか。
腕の中で夢子がすっかり眠っていた。泣くだけ泣いたら寝てしまうんだから、まだ十分子供じゃないかと思ったが、口には出さずに、泣き疲れた熱い体温の夢子をもっと強く抱き締めた。ハボックが散々寝心地が悪いと文句を言った簡易ベッドが軋んだ音を立て、抱えた膝の間にすっぽり収まった夢子の小さな身体に毛布を巻きつけ、更に強く抱き締め、その髪に鼻先を埋める。女の匂いはしなかった。まだ、少女の匂いがした。
無防備に摺り寄せる小さな身体を抱きしめながら、苦しくて堪らなかった。
こんなに一身に自分を信じるちいさな生き物を、どうして憎いと思えるのだろうか。自分にその資格はないというのに、希望を見出してしまう。この子に降り注ぐ雨露を払いのける存在になりたいと思った。
――――救われたような気持ちだった。そうだ、そうだな、あの女は私を憎むだけではなかった。
エカテリーナがイシュヴァールの生き残りだという事ばかりが胸を苛んだ。そして本質を見落としていた。エカテリーナが伝えたかった事の意味を履き違えた。エカテリーナが憧れたのは、女王ではなく、夢子のような平凡な少女。私が彼女から奪った素朴で幸福な人生。なぜあの時、エカテリーナが懇願したように舞台を最初から最後まで見守ってやらなかったのか。落下の女王は、まさにエカテリーナの人生。エカテリーナの魂を込めた、最後の舞台だったというのに。…しかし、どこかで彼女が「仕方のない人」と肩をすくめて笑っているような気がした。
自分の命を愛さない人間が、あんな顔をして微笑むことができるだろうか。
舞台上のエカテリーナと目が合ったとき、本当は悟ってしまった。彼女がどんな結末を用意していたか。エカテリーナが微笑んだとき、何故かこれで良いんだ、と感じた。彼女がひどく幸福で、満足していると感じた。だからだろうか、涙なんて零れなかった。エカテリーナは100年生きる道も、母親になる人生も選ばなかった。
あの女は、エカテリーナという人生を生きる事を選んだ。
エカテリーナ、私は、また誰かを、愛しても良いのだろうか。
しかしもう躊躇いはなかった。もう決めてしまったから。今度はきちんと、ちゃんと始めよう。
いつの間にか大人になった夢子。これから大人になっていく夢子。大人でも、子供でもない一瞬の時間の中でもがく女の子。何歳であっても、どんな姿であっても、夢子は、夢子なのだから。そして私は苦しむだろう。キレイになっていく彼女に別の男がよってこないか不安になることだろう。許されることのない自分の人生を思って、もがく事だろう。
それでも、その身に降り注ぐ火の粉を払う存在でいよう。
あなたに女の子を連れてくるよう注文したのは、実はちょっとした賭けだった。
平凡な女の子、あなたが選ぶ女の子を見てみたかった。そしてあなたはまさに私が求めていた通りの女の子を連れてきてくれた。自分に金の鉱脈が眠っている事にも気づかず、沢山の愛に囲まれている事を知らず、一億センズよりも高価なものを持っている女の子。笑ったり、怒ったり、戸惑ったり、自分の気持ちをいくらも自由に出せる女の子。
なんとなく予感していた。きっと、その女の子はあなたの特別になるだろうって。
そして夢子があなたを英雄として愛していないことが、私は何より嬉しかった。
英雄ではない、国家錬金術師ではない、ロイ・マスタングという一人の男を愛していることが心の底から嬉しかった。
あなたが与えてくれた人生。
あなたを生きる糧とした人生。
英雄となったあなたは、さぞ女の子にモテたことでしょうね。
あなたに愛されるような、垢抜けた存在になりたかった。あなたに近寄ってくるほかの女なんてみんな地味に見えるような、素晴らしい女になりたかった。私は大人にならなくてはならなかった。私は女にならなくてはならなかった。けれど、私はこの「女王」という肩書きを何よりも誇りに思っている。これは私が生き抜いた証。私が運命に勝ち続けた証拠。平凡で素朴な少女に憧れる自分と、万人には決して行き渡らない名誉と栄光をうんと浴びる自分の誇りに、私は打ち震えている。ここまで来られたのは、あなたがいたから。あなたを憎んだから。
パーティー会場であなたを見つけた時、本当は少し足が震えたのよ。
そして私を大人の女にしたのは、ウィンチェスター卿。
ウィンチェスター卿には心から感謝している。
あの炭鉱町の粗末なストリップ小屋で私を見つけてくれたことを。わたしにこんな楽しい世界を教えてくれたことを。あの人がいたから、私は今の成功を勝ち取れた。あの惨めな生活から抜け出す事ができた。そして、私は再びあなたに会えた。あの人は私に苦痛ばかりを見せたわけじゃない。私にエカテリーナという人生を与えてくれた。――――そして、あなたを。
あの人は連れて行くわ。あの人もまた、私に恋をし、私が愛した一人だもの。
ああ、これでもう満足。
人生は100歳まで生きることや、母親になることばかりがゴールじゃない。私は、私の人生の中、絶頂の中で生きることがゴールなの。すっかり満足。憎しみも、狂うような恋からも、この肉体からも開放されて、私はようやく自由になれる。
ロイ、あのね、私の本当の名前は――――――……
「もう身体は売らない。身体を売らなきゃ舞台に上がれないようなら、それが僕の限界って事だから」
ひとつ分しかないわたしの着替えの詰まったボストンバックを持てくれた大佐さんと劇場を後にしようとすれば、「挨拶もないのかよ」、と見送りに来てくれたのはアランだった。泣きはらした目をしていたけれど、その表情はどこかすっきりとしていて、彼がすでに未来へと歩き出していることを悟らずにはいられなかった。そしていつもの生意気で、顔に似合わず蓮っ葉なもの言いでそう笑ったアランに、わたしも「その方がずっと良いよ」と笑ってみせた。
「あの電話が鳴って、フォッカーが立ち去ったとき、頭の中にグレッグの顔が浮かんだんだ。ああ、会いたいって。恥じない身体で。でも、あいつが恋しているのはエカテリーナさんだけだからなぁ。強力なライバルだよ。でも、だから、あの人に恥じない生き方をしようと思う」
少年の顔で手をさし伸ばしてきたアランの手を、しっかりと握り返した。
見送りに来てくれたアランは、泣きはらした顔をしていたけれど、でもその瞳から輝きが奪われることはなかった。アランもまた、“落下の女王”を理解していたからだろうと思った。アランの大きな手。きっとすくすく背も高く伸びると予感した。これからきっと、すぐに少年の身体を脱ぎ捨てて大人になっていくアラン。名残惜しい気持ちでそっと手を離した。じゃあ元気で、とアランからの言葉はそれだけだった。二度と会うことはないだろう、と互いに予感した言葉だった。
劇場を見上げると、昨日の出来事が嘘のように、豪奢なドーム型の屋根いっぱいに陽の光を浴びていた。
人々の苦しみも、執念も、愛さえも包み隠して、また夜になれば夢のような世界を、永遠に続く仮想現実を回り続けていく。あの舞台の上では、どんな世界だって叶えられる。魔法に掛けられる世界。人々の血肉に支えられた、夢の世界。アランはあの、夢の世界に生きる人。エカテリーナという女性が愛した世界。
わたしは大佐さんの手をぎゅっと握り締めた。大佐さんが優しく、でも強い力で握り返してくれる。
わたしには、まだまだ知らないことでいっぱいだった。この世界に存在する万物は美しい秘密を隠し持ち、その秘密をひとつひとつ見つけていく中で人は大人になるのだと思った。そして愛しい人にもたくさんの秘密が隠されている。そのひとつひとつを手探りで、ゆっくりと知っていくうちに、ゆっくりと受け入れていくうちに、わたしはこの人をもっと強く愛するようになるだろうと知った。昨日まで知らなかったことなのに、今朝になって、大佐さんが隣で眠っているのを見つけて、わたしはいっぺんにいろんな事を知った。
大佐さん、わたし、とっても怖い。今までは全然平気だったんです。一人で眠ることなんて怖くなかった。
わたしはこの身体ひとつ分の用心さえしていれば、それでよかったんだもの。でも今は、あなたがいつかどこかで怪我をしないか、あなたの前に素敵な女性が現れたりしやしないか、あなたに愛想つかされたりしないか、不安でいっぱいなんです。それなのに、びっくりするほど胸がいっぱいなんです。
じりじりとちいさな炎に燻られ、焦げていくように、わたしの心は確かに燃えているんです。
貴方もまた、地獄の業火に焼かれる日が来るのでしょう。憎しみのためではない。愛のために。