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ローブをすっぽり被せられて、兵隊たちに囲まれて、人目を避けるようにこそこそと敷地をわずかに移動すれば、敷地内に馬車が用意されていた。
目張りをするかのように窓にはカーテンが掛けられている。わたしはダリウスの腕を握ったまま、きょろきょろと辺りを見回さずにはいられない。リヴァイとエルヴィン。大丈夫。大丈夫。きっと大丈夫。でも、やっぱり怖い。



この時代の、この土地において、日本人のわたしなんて異邦人も甚だしい。
開拓者が先住民にしたように、人間扱いなどされないのかもしれない。今までは、人間らしい扱いをされたけれど、急に移動するだなんて、何か事情が変わったんだろうか。宗教が違う?異端者、という言葉と「異端者」に対して行われた差別や迫害の歴史をふと思い出して、震える。ヨーロッパの歴史なんて詳しくないけれど、宗教戦争とかよく聞いた気がするし、同じ宗教を信じていないってことはあの時代においては大きな問題だったんじゃないだろうか。


キリスト教のことなんてよく分からないけれど、どこにでもいる日本人として、たいして宗教に思い入れなんてないから!
改宗だってなんでもするし、どんな宗教も神様も信じるから…。


魔女狩り?拷問?
そんな事ばかりが頭をよぎり、生きた心地がいない。兵隊の一人が馬車のドアを開けて、わたしに中に入るように促す。
どこへ連れていくつもり?息を呑んで、ダリウスの腕をより強くつかむ。一歩が踏み出せない。ダリウスがわたしの名前を呼んで、馬車へと乗せようと背中を押すけれど、足がすくむ。どこへ連れていかれるのか分からない。

怖い。あのまま、あの小屋にいちゃだめなの?あそこでいいよ!あそこがいいの!


…こわい!
何が起こるか分からない。こわい!



夢なら醒めて!!!家に帰りたい!!!!




馬車を前にずるずるとしゃがみこんだわたしの腕をダリウスがひっぱる。
客観的に見たら歯医者を嫌がる子供みたいだと頭のどこか、冷静な部分が考えたけれどそんな事はもうどうでもよかった。
萎えきった膝はもう立ち上がれなくて、しゃがみこんだ膝にローブ越しに食い込む砂利のじくじくとした痛みの方がずっと安心できた。あの馬車に乗ったら、どこへ連れていかれるのか分からない。また売られるのかもしれない。リヴァイやエルヴィンやダリウスやハンジのいない場所へ連れていかれるかもしれない。


「夢子」


頭上からリヴァイの声が降ってきた。
はっとして顔を上げる。怒ってる?殴られる?そう思った。でも、見上げたリヴァイの表情は、そう冷たいものではなかった。
まるで子供に言い聞かせるように、わたしの顔を覗き込んで、頭を撫でた。


「夢子、大丈夫だ。殺さない。大丈夫だ」
「だい…だ…だいじょうぶ…?」
「大丈夫、だ」


意味は分からなかったけれど、でも、リヴァイの言葉を繰り返した。
リヴァイはそれに満足したように頷いて、わたしの腕を掴んで立ち上がらせ、萎えきって、うまく動けないわたしの足を歩かせるように、一緒に馬車へと乗り込み、わたしを座らせ、自分はその隣に腰を下ろした。あとからはいってきたダリウスがわたしの向いに座る。カーテンに手を伸ばして外を見ようと思ったけれど、カーテンの上から乱暴に釘が打たれ、わずかな隙間からしか外が見えなかった。まるで、慌てて用意したみたいだ、と思い、またじわじわと不安が込み上げる。お腹が痛い。指が震える。


「予定が変わった。こいつと一緒にエルヴィンの家へ向かう。お前たちは計画通りに前後を固めてついてこい」


リヴァイが馬車の外にいる兵隊たちに向かって何かを言って、そのまま自分で乱暴にドアを閉めた。
外から錠が掛けられた音がして、わたしはびくりと立ち上がりそうになったけれど、リヴァイがそんなわたしの肩を押さえて座らせた。もう、逃げられない、と思った。馬車が動き出した。カーテンの隙間からじっと外を見ようと思ったわたしの頭を掴んで、リヴァイがぐるっと前を向かせた。見るな…って事だろうか、とリヴァイは見れば、リヴァイは腕を組んで黙ってしまった。刺激するのはよそうと思い、外を確かめたい欲望を必死で抑えて、わたしは自分の身体を抱いて、俯いた。どこかを走るたびに揺れる馬車は座席にダイレクトにその揺れが伝わって、何度もお尻が浮いた。クッション性のない座席はその度にわたし達三人を飛び上がらせたけれど、車内はじっと沈黙していた。その沈黙を破ったのはリヴァイだった。


「まるで出荷される家畜のように怯えてやがる」


ぼそっと言った言葉に、ダリウスが顔を上げて激しく抗議するように何かを言ったけれど、リヴァイは取り合わなかった。
ダリウスが目の色を変えて、リヴァイに掴みかかりそうな顔で吐き捨てるように乱暴に言葉を投げた。リヴァイの言葉でダリウスが怒った。でも、何に怒ったの?この馬車が向かっている場所が、悪い場所、だったのかな…。だめだ。全部自分のことにしか考えられない。今は、自分が一番可愛い。我が身のことしか考えられない。もういやだ。本当にもういやだ。家に帰りたい。考えないようにしているのに、どんどん21世紀の日本を考えてしまう。


わたしが消えても、楽しみにしていたドラマは放送され続けるし、コンビニは24時間開いているし、授業は続けられるし、毎日毎日新しい話題が増えていく。わたしを待ってはくれない。探してはくれない。日本の警察は、政府は、こんな場所にいるわたしを見つけることなんてできない!誰も助けてくれない!女子大生が大学に行かなくなるなんて、若い女一人消えるなんて、都会じゃ珍しくもないし、ニュースで流れても他人事だ。


わたしは、その「他人事」になってしまった。
わたしの感じることも、身に起こっていることも、全部、全部「他人事」なんだ。
悲惨なニュースに顔色ひとつ変えなかった、今までのわたしがそうだったように。



「言葉が通じない今、こいつは動物と同じだ。言葉が通じなくとも何かを言ってやり、撫でてやれば安心する。馬と同じだ。理解できなければ理解できるまで蹴飛ばすだけだ。言語学者の先生は、一日でも早くこいつに会話する術を叩きこんでやれ。それがこいつの為でもある。助けてひとつ言えない奴は、淘汰されるのを待つだけの家畜と同じだ」


ダリウスが唇を噛んで、わたしをじっと見つめた。
その顔色は真剣で、張り詰めていて、リヴァイが言った言葉がやっぱり自分に関係していて、そして悪い意味だったのだと思った。
自分を抱きしめる手に力を込めようとしたけれど、生きた心地のしない身体はゆるゆると脱力して、胃がきゅうきゅうと締まり、喉からすっぱい不愉快なものが込み上げ、指先が震えて力にならなかった。何か言おうと思ったけれど「どうしたの」という単語を教えてもらっていないから「どうしたの」と一言尋ねることだってできなかった。何も言えなかった。言うべき言葉を持っていなかった。


突然、リヴァイがわたしの頭に手を置いた。
そしてダリウスに向かって顔を上げさせた。
ダリウスと視線がかち合い、思わず目を逸らす。



「――見ろ、この青い顔を。
これからあの掘立小屋より環境が良くなるとも分からないまま、ひたすら我が身を神に祈っているだろうザマを。
あれほど言い聞かせても、何も通じちゃいない。今からあそこよりずっと良い暮らしができると教えられても分かっちゃいない。ただ言葉が通じないからだ。家畜と何が違う?乳を出さねぇ牝牛はソーセージだ。利益がない女に三食食わせるつもりはない。エルヴィンはそういう男だ。お前の好奇心を満たす為のお遊びじゃない、こいつに掛ける教育に命を掛けろ
それが出来ないのなら憐れむな。怒るな。お前にその資格はない」


ゆっくりと何かを諭すように、でも淡々とした声色で話したリヴァイの言葉が終わると、ダリウスはまるで脱力したように座席に深く沈み込んで、右手で顔を覆い、ぼそぼそっと何かを呟いた。ダリウスの額に脂汗が滲んだのを見て、リヴァイの言葉が何か重く差し迫った言葉だったのだろうと感じて、ますますわたしは震えた。馬車の中には重苦しい沈黙がのしかかって息すら出来なかった。



「夢子、大丈夫だ」



はっとしてリヴァイを見れば、リヴァイはまっすぐに、とても落ち着いた目をしてわたしを見た。優しい目だった。…「大丈夫」…?馬車に乗る前に言われた単語。

「夢子、大丈夫だ」


……あっ

だいじょうぶ…それは、心配するなって意味だと思った。違う。思ったんじゃない。分かった。わかったんだ!そうだったんだ!!


まるでWaterと叫んだヘレンケラーのように身体に電流が走った。初めて水に触れた衝撃。理解した喜び。そうだ、大丈夫だ…大丈夫ってことなんだ!そうだったんだ!途端にどうしようもなく安心して、大丈夫だって、悪いようにはならないって、リヴァイはずっとそう言っていたんだと分かった!リヴァイはずっとそう言っていた。でも、わたしが理解しようとしなかった。おびえるばかりで、考えることをしなかった。リヴァイはずっと、伝えてくれていたのに。あぁ…伝えてくれていたんだ…そうだったんだ…そうだったんだ…


う、と洩らした口から震える嗚咽が込み上げ、必死でそれを飲み込んだ。生きている、と思った。生きられるんだ、と分かった。



「リヴァイ、ありがとう」



朝、エルヴィンに披露した覚えた単語の暗誦じゃない、心の底からの、本当の「ありがとう」だった。
リヴァイがわたしの頭に手を置いた。心臓が熱くなって、指先にまで血が通ったのを感じた。もうだめだった。
背中を丸めて、自分の身体を抱いて、嗚咽をかみ殺したけれど、リヴァイの手が背中に置かれているのをローブ越しに感じた瞬間、決壊して、子供みたいに身体全部を使って、泣いた。