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ジャンにドラゴンの解説をしていると、下からボリス夫人の声が響いた。
「夢子さん、ハボックさん、そろそろ夕食の時間よ」って。それはまるで自分の家で、自分のお母さんがわたしを呼ぶように平和で親愛の篭った声で、わたしとジャンは思わず顔を見合わせて笑った。
この家は子供を育てるにはもってこいの家。
本当なら、魔法薬を作る鍋じゃなくて、ポップコーンを作ったりマシュマロを焼くのに相応しい暖炉や、ぽかぽかとした陽気をいっぱいに吸い込む広々としたキッチン、庭には季節の花やハーブや楓や松やツガの木でいっぱいで夏休みの観察日記には何一つ不自由しないし、雨が降ったら屋根裏部屋で秘密の話を沢山したいし、長年大切に手入れをされてきた階段の手すりは、すっかりつやつやと丸みを帯びれマホガニー色に変わり、中庭に続くポーチに椅子とテーブルを出せば立派なピクニックになるし、犬を連れて走り回るのに相応しい田園や、そして家の中はいつでも砂糖や蜂蜜の匂いがごくわずかに、とても好ましい分だけ薫っている。それはきっとボリス家が町へ降ろしているフィディリス印の蜂蜜やジャムを作っているせい。
「難しい話は終わり。すぐにご飯にしよ!」
ボリス夫人の作る夕食が、ホグワーツの食事よりもおいしかった事をマッハで思い出したわたしは、広げていた魔法生物の本を閉じてまたひょいっと杖を振ると本はそのまま元あった場所に乱暴に戻る。きっとマクゴナガル先生が見たら「ミス山田!そんな行儀の悪い術の使い方は止めなさい」と怒ったことだろうけれど、ここはフィディリス。残念ながら先生はいないんだもの。
「さぁ、はやくはやく!」
わたしは「はいはい」とあくまで大人を装うジャンの背中を押して、ドアを閉めて、そして部屋が元通りのボリス家の客間として見えるように術をかけ、杖をポケットにしまって食堂へと急いだ。
「それでもうすぐ月食なんですってね」
ボリス夫人が熱々のシチューの鍋をテーブルに置き、わたしがみんなにサラダをとりわけ、ベッキーがみんなのグラスに蜂蜜ジュースを、そして大佐さんとジャンとトムのお父さんには食前酒を注ぎ、ジャンと大佐さんがおじさんと一緒に葉巻の話で盛り上がっているとき、何が「それで」なのかは分からないけれど突然そうボリス夫人が言い出した。
「そういえばそんな事が新聞に書いてありましたね」
「…大佐、仕事サボって新聞読んでたんじゃないっすよね」
「まさか。ハボック少尉は変わった事を言うやつだな」
ははは、と爽やかな笑い声を上げる大佐さんを、わたしとジャンは白い目で一瞥する。
リザさんがいない、しかも中央のようにばたばたとした事件の起こらない田舎にあって、随分と羽を伸ばしているらしい事はすぐに分かった。絶対にこの人、休憩室かどっかに置いてある新聞を読んでたんだわ。きっとコーヒー片手にね。
「月食になると、どうかなるの?っていうか月食って?」とはトムの質問。
「なんだかよく分からないけれど、月に影ができるのよ」と投げやりに答えるベッキーはさっさと自分の低位置に座り、食事が始まるのを待つ。けれどそんな投げやりな答えに納得していないのか、トムはまだ何か言いたそうにしている。
「月食は地球が月と太陽の間に入り込んで、地球の影が月に掛かることよ」
「流石セントラル大学の学生だね」
とにこにこと言う大佐さんは、もちろんわたしがセントラル大学の学生じゃない事を知っているんだから、きっとこれはちょっとしたジョークか嫌味だろう。でもセントラル大学の学生じゃなくても、ホグワーツ魔法魔術学校の学生だったので、天文学は必須教科として一年生の頃から習っているからきっとこの中じゃ誰よりも詳しいだろう。
「ふーん、宇宙かぁ。なんだか僕には縁遠いもののように感じます」
「そんな事もないぜ?ちょっと前までは大真面目に軍の入隊する時、金星が目視できるかどうかなんて視力検査もあったらしい。ね、大佐?」
「おいハボック、それはもう半世紀は昔の事だで…」
「ねぇトム、この星は本当に丸いの?丸いってどうして分かるのよ?」
「ぼ、僕にそんな難しいことを聞かないでよ」
大佐さんの話をぶったぎってトムに話しかけたベッキーにトムは困り果てたように言って、ボリス夫人の「さぁさ、熱いうちに食事にしましょう」という言葉で宇宙の話は流れていった。そういえば、この時代の人はまだ誰も宇宙に行った事がなくて、地球が青くて丸いという事を確かな事だと信じていない人もいて、この世界の人たちが宇宙に行くような時代になるにはまだ百年は先なんじゃないだろうか、その頃にはこの世界はどうなっているんだろうか、と考えるとなんだか不思議な気持ちになった。カルチャーショックというか、本当にわたしはこの世界で異邦人なんだ、とふと実感する。
けれどあの山に住んでいるドラゴンならば、あと百年先なんてちょっとうたたねするような、明日明後日の事だと考えるとますます不思議。そうして百年前も、二百年前も、ドラゴンは人間が何をしていようと変わらずあの山で眠っていたんだ。
夕食後、お風呂に入って、頭にバスタオルを巻いた格好で部屋へ戻ろうと階段を登れば、上から降りてきた大佐さんと鉢合わせをした。大佐さんはわたしのくつろぎきった格好を見て溜息を漏らす。
「夢子、いくらなんでも無防備すぎんかね?」
「あら、無防備だと何か困ることでも?」
大佐さんはますます溜息を漏らして「大人をからかうんじゃない」と頭を押さえ、わたしは歯を見せてひひっと笑う。
大体わたしは山村留学中のセントラル大学の学生だもん。無防備な田舎娘で結構!
「じゃあおやすみなさーい」
「ああ、待ちたまえ。明日何か用事は?」
「えっ、ま、まさか…!」
「……デートの誘いではないから安心したまえ」
それはそれでどうなの?と思わないではないけれど、ますます頭を抱えそうな大佐さんに免じて大人しく黙っておく。
確かにこれ以上、常日頃上司からの圧力やサービス残業で忙しい大人をからかっちゃ可哀想だ。
「今日軍部へ掛け合って、村人総出の避難訓練をする事が決まった。そこで明日、山の下見をしておきたいんだが、村や軍の者では“アレ”が出たときに不都合だろうから君に山を案内してもらいたいんだが構わないかな?」
お礼に後で町でアイスでもパフェでもご馳走するよ、と言って微笑んだ大佐さんに、まぁ一人で調査するのも二人になるのも変わらないことか、と二つ返事でOKする。万が一出たとしても、大佐さんならわたしよりもよっぽど上手く自分の身は自分で守れるだろうしね。むしろわたしが守ってもらわなくっちゃいけない側かもしれない。
「わかりました。じゃあ二人分の匂い消し用意しときますね」
「匂い消し?」
「うん。だって人間の匂いをぷんぷんさせながら巣穴の近くに行くなんて嫌じゃないですか」
「……ぜひ強力なやつを用意しておいてくれ」
言い出したことを早くも後悔していそうな大佐さんに、匂い消しの材料がなんなのかは言わないでおこうと思った。
それがせめてもの親切だわ…。
朝っぱらから大佐と夢子は山へ入っていった。
表向きは、村民総出の避難訓練の下見らしいが、その目的がドラゴンの巣穴の位置を確認するって事は分かりきっているので調査に参加せずにすんだ事を心底ほっとする。スカーの時も思ったが、あんなチートな奴らの相手をたかが士官学校を出ただけの少尉の俺には無理な話だ、ほんと無理。まじで勘弁してほしい。
よって、今日も俺は一等兵らの訓練隊長となった。今日は体術の訓練だ。
これには一等兵だけでなく二等兵も参加し、そして訓練監督は俺のほかこの村の手の空いている将校らも参加する事となった。一等兵たちにとっちゃ良い迷惑だろうが、田舎にあって暇な将校らはもはやプロレス感覚なんだから可哀想なもんだ。
「おい、あんまいじめてやんなよ…ただでさえあいつら士気低いんだから全員自主除隊しそうだ」
昨日ロッカールームで顔見知りとなったマットに小声で言えば、マットもそれは重々承知していたのか苦笑で頷く。「確かに、田舎の次男坊にゃきついわな」と。分かってるんならお手柔らかにしてやれよ、とも思うがもしまた内戦や国境での小競り合いにこいつらが借り出されでもしたら困るのはこいつらだという事を思い出すと、可愛いあまり指導に力が入る。そうするとどんどん嫌われるんだから上官ってのも可哀想なもんだ。
部下が憎いならきつい指導なんてしない。ただにこにこと笑って、好きにさせておけば良い。
そうすりゃ技術を学べなかった部下は現場で死んでいくんだから…。
「おい、そこ!力技でなんとかしようとすんな!関節狙え関節!実践で相手がお前よりデカい野朗だったどうすんだ!!」
と言っているそばから体当たりと力技で、木で出来たナイフを持った敵に見立てた相手に向かって覆いかぶさる二等兵を見つけて怒鳴りつけてやれば「一番熱いのお前じゃん」というマットの苦笑が聞こえたがさくっと無視して、二等兵の腕を引っ張り上げて立たせて見れば、それはトムだった。
トムはよっぽど力んだのか、そばかすが散った少年のような幼さの残る顔を真っ赤にして、はぁはぁと荒い息を吐いている。
「トム、力でねじ伏せようとしたって無駄だ。相手が前から迫ってきたんなら、正面から向かったって絶対に勝てない。ましてや相手は刃物を持っていて、お前は素手だ。まずは武器を奪うか、相手の後ろを狙う事を考えろ」
そこで見てろよ、と言ってトムによく分かるよう相手にゆっくり向かってこさせて、こちらもゆっくりそれに対応する。
トムの体型から考えるにいきなり武器を奪うことは無理だろうから、まずは背後を取る。そして首根っこを押さえ込んで、全体重を掛けて相手に尻餅をつかせた体型から相手に馬乗りになって、肩口の関節を押さえたまま武器を奪い、そのまま体を倒して足を絡めて腕十文字固め。プロレス技でも、実践で使えるもんはなんでも使えば良い。場合によっちゃコショウでも辞書でもなんでも武器にするんだしな。
マットにとっても俺にとってもなんら特別でもなければ、スローモーションでの実技だったのに、振り返ってトムを見ればトムは目をまんまるにして、「すごい」となぜだか半ば途方に暮れたように呟いていた。