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街の音がする。


馬車の外から町の喧騒と呼んでも良いような賑やかな生活の声や音が聞こえてくる事に気づく頃には、わたしはすっかり平静を取り戻していた。この馬車がもしも音のしない、人里離れた、といわれるような場所に進んでいたらまた違っていたかもしれないけれど、少なくとも町の人たちの生活の中へと紛れ込んでいくことにこんなにもほっとしているだなんて、あの小屋での日々に思いのほか参っていた自分を知った。
ぐずぐずと鳴る鼻が恥ずかしくて、顔をすっぽりと覆ったイスラムの女性のようなローブを着ていることにほっとした。
ダリウスとリヴァイは、重苦しい空気も一瞬のことで、すぐに何かを議論するように言い合い、話あっている。
もちろん自分には何のことだか理解できなかったけれど、時折「夢子」と聞き取れたから、わたしの話をしているらしい。

なんだかとても、疲れていた。


馬車が止まり、ドアが開けられる。
思わず息を呑んでびくついたわたしの腕をリヴァイが掴んで、無意識に馬車の座席を掴んで離れないようにしていたわたしをゆっくりと馬車から下した。降りた先は、お屋敷だった。玄関先に立っている年輩の女性や、映画で見る執事のような初老の男性、そしてリヴァイと同じ兵隊のような恰好をした若者たちが、わたしを緊張したような、異様なものを見るような目で見ている。歓迎はされていない。その反応は当たり前かもしれないけれど、人からそんな風に見られた事がないから、その表情に足が止まる。でもそれは一瞬のこと。建物の外観を眺める間もなくリヴァイがわたしの腕を掴んで玄関の中へと引きずり込み、素早くドアは閉められた。


天井は高く、吹き抜けとなった玄関の正面に緩やかなカーブを描いた階段があった。
まるで物語の中に出てくるお城の階段のようで、着飾った人たちが集まるパーティーにぴったりの素敵な家だと思った。


……きっと、お金持ちの家。
あの時のように、売られたんだろうか?
それとも政治家とか、自治領主とか、貴族とか、宗教とか、どういう人が偉いのかは分からないけれど、そういう「偉い人」の判断でも仰ぎに来たんだろうか。鎖国している時の日本だと、たとえ日本人の漁師が遭難して、外国船に助けられ、国に届けられたのだとしても、外国に触れた日本人はずっと幽閉されていたと聞いたことがある。信長は黒人奴隷だった男を自分の部下にしていたみたいだけど、それは鎖国前のことだし…。こんな時代の欧米系の偉い人たちが、わたしをどう扱うんだろうか…。怖い。


腕がぶるぶる震えているのが分かったけれど、それを止めることはできなかった。
いつからこんなにも自分が臆病だったのか分からない。でも、その瞬間がなかっただけで、自分はこんなにも臆病で弱かったんだ。


――――――――おかあさん…っ!!



「夢子、よくきたね」

はっと顔を上げると、あの階段にエルヴィンが立っていた。
エルヴィン…と名前を呟くと、口まで覆われたローブに阻まれて声は届かなかったかもしれないけれど、エルヴィンは頷いた。


「さっさと降りて来い。もったいつけやがって」
「一応見られて困る書類などを整理していた。私としても急に同居人が増える訳だから準備が必要だからな」
「移送を急がせたのはそっちじゃねぇか」


リヴァイが小さな声で呟いた言葉の意味はもちろん分からなかったけれど、不満そうだって事は分かった。
―――あ、なんか、ほっと、した。
リヴァイが悪態をついて、エルヴィンがいる。エルヴィンは、リヴァイが着ているような軍服のようなものじゃなくて、私服みたいな服を着ている。なんか、わからないけど、全然、説明できないけれど、でも、大丈夫だって、思った。


「夢子、紹介しよう。こちらの女性はこの家を任せているフラウ(ドイツ語圏で既婚女性への敬称)ベルタ、そして私の税金などの役所関係や資産運用の手続きを任せているブルーノだ。君のことは先ほど話しておいた。彼らがよくしてくれるだろう。フラウベルタは主に君の身の周りの世話をする。賢く優しい女性だからよく頼ると良い」
「…あのエルヴィン団長、彼女の語学力では…」


エルヴィンが話し出した言葉をダリウスが遮って、エルヴィンは苦笑した。
そして年輩の…50代くらいの女性を差して「フラウベルタ」と言った。そしてわたしに呼ばせるように目で促したので、わたしもエルヴィンと同じように「フラウベルタ」と呼んだ。フラウベルタは少し怯えたような怪訝そうな目でじろりとわたしを一瞥してから、それから「大人」としてするように形式的に少し頭を下げた。……なんか、「ハイジ」に出てきたロッテンマイヤーさんみたい…。元は茶髪だったんだろうか、すっかり白髪交じりになった髪を後頭部できゅっと結び、その厳しそうな口元からは歯を見せて笑う様子が想像できない。


「夢子、ブルーノ。ブルーノ、だ」
初老の男性は、フラウベルタよりもやや好意的に微笑みをつけてくれて、ほっとする。
マッチ棒のようにひょりと背が高くて、あのエルヴィンよりも少し高い。映画にでてくる執事のような服装をしている。


「リヴァイ、B班と交代し、警備を頼む」
名前を呼ばれたリヴァイは舌打ちひとつ残して家を出て行き、「あっ」と何かを言いたかったのに、言えなかったわたしは、一歩踏み出した姿勢のまま取り残された。リヴァイが行ってしまった。そんなわたしの肩に手を置いて、エルヴィンが微笑んだ。


「家の中を案内しよう」










すっかり夜になっていた。
夢子は気がついていないようだったが、エルヴィンの家の屋根にはリヴァイ班の人間が三人、屋根に張り付いている。
ここまで従順を突き通している夢子の姿勢からは、今のところ想像できなかったが、万が一、兵団の敷地外に出た際に逃走を図ろうとした場合に備えての事だった。


独り身とはいえ、「団長」という立場のある人間が市井の安アパートに住むことは何かと危険だった。
「家」という資産は、エルヴィンが自ら求めたものではなかった故に、今回のように役立つという機会が来たとあれば、その資産を利用することに迷いなどなかった。夢子の部屋には格子がついていた。別にそれは彼女を監禁するためにわざわざつけた訳ではなかった。表通りに面した玄関。通りに隠した場所には小さいが庭があり、その先は路地裏になっていた。夢子の部屋からは庭が見え、また路地裏にも面している。このご時世、エルヴィンのような立派な造りの家は何かと用心が必要だった。ゆえに路地裏に面した部屋には全て洒落たデザインになってはいるが、しっかりとした鉄格子がついていることが一般的だった。窓は内側へ向けての開閉式になっており、空気の入れ替えなどの不自由はしないだろうが、窓の外へ出ることは不可能であり、近年では火事の際に逃げ遅れる要因のひとつにもなるとして批判を受けて最新の家庭にはそのような鉄格子はなかったが、エルヴィンの家は大げさな見た目ほどの資産ではなく古い建築なので、昔の様式そのままとなっていた。



夢子は、その部屋で、死んだように眠っていた。
来客用の部屋として、持て余していた部屋に夢子は戸惑っていた。
まるで拾ってきた野良猫が、突然与えられた家に居場所を求めて、一番居心地の良い場所を探すようにぐるぐると部屋を歩き回って、エルヴィンからどういう事か聞きたがっているのに、聞きだせない語学力にもどかしさを覚えるような顔をしていた。
水回りの場所を教え、使い方を教え、ダリウスと混乱した表情の夢子を夕食の席に引きずり出して、不満そうな顔をしたベルタが給仕をし、食事は済んだ。たっぷり湯を沸かした風呂へ夢子を放り込んで、あとはベルタに任せた。小屋では身体を拭かせていたとはいえ、いささか気になってはいたことだった。すっかり汚れを落として、さっぱりとした夢子からは、「土の臭い」がしない、とエルヴィンは思った。「血」も知らなければ「労働」さえ知らない。



「働く事」と「労働」は少し、違う。
下層階級の人間の悲惨さはエルヴィンにはよく分かっている。女子供であっても、どんなに痩せていても、病んでいても、政府からの税を納めるために、必死で働く。収められなければ、より悲惨だ。無防備な、その肉体のまま、壁外へと追い出される。それを見てきている連中は、死んでも働く。生きるために、死ぬ。満足な農耕具さえ与えられず、その手で固く黒い土を掘り返した指はすっかり爪が落ち、太く厚い獣のような爪が生えてくる。すっかり陽に焼けた肌は痛み、髪は変色し、縮れていた。


まるで資金集めのパーティーで見かける、ぬくぬくと育てられた資産家の子供のような顔をしている。甘っちょろい顔だ。
風呂上りの清潔な夢子から、エルヴィンは妙な印象だけを覚えた。生命の危機に晒されたことのない顔


(彼女が例えこの国の人類だとして、一体どのようにして生活を保っていたんだ?珍しい物好きの貴族の愛人でもしていたか?)


壁の中へと追い込まれた人間は、貧富の差など関係なく、だれもが皆、死と直面して生きている。
しかし、夢子からは、そんなことはまるで「他人事」のような顔をして生きていた匂いがする。この、違和感。


夢子を見降ろして黙りこくっていたエルヴィンに、心配そうな顔をしていた夢子にエルヴィンは取り繕った笑みを浮かべて、さっさと夢子を部屋へと追いやった。彼女に会話力があればいくらか会話をしたかったところだが、無駄なことに裂く時間はなかったし、それはダリウスの仕事だった。だが、今夜に限ってはその必要はなさそうだった。風呂に入れられたことで緊張の糸がとけたのか、夢子はすっかり疲れ切っていて、すぐに眠りそうな顔をしていた。部屋へ入った夢子は、覚えたばかりのスムーズとは言い難い発音で「おやすみなさい」と言って頭を下げていった。従順なうちに、手懐ける必要があった。


「一杯付き合わないか」


夢子の隣に与えた客室で膨大な荷を解いていたダリウスを誘えば、ダリウスはふたつ返事で飛びついてきた。
そういえば彼はアル中だったな…と思い出して、戸棚から出しかけたウィスキーを仕舞い込んで、代わりに珍しい茶葉を用意した。ダリウスはあからさまにがっかりした顔をしていたが、それに気づかぬふりをして「寝る前のお茶は習慣でね」とさも普段通りの事だというように、ポットに火を掛けた。呼べばベルタがやってきただろうが、この会話にベルタを混ぜたくはなかったし、これ以上あの伝統と変化のない事を愛する保守的な女性を苛立たせたくはなかった。


「君の望み通り、小屋から出し、こうして自宅まで提供した。今の私に出来うる事は全てしたつもりだ」
「ええ、感謝します、エルヴィン団長」
そのことはダリウスとしても本音らしく、満足そうに頷いた。
「君のことだ。外へも連れ出したい、と言いだすだろうが、今がその時期でない事はよく分かるだろう。我々は彼女の情緒教育をしたい訳ではない。彼女が自分の来た場所、目的、その文明、組織、それらを説明する語学力さえあれば良い。ただそれだけだ」
うっすらと笑みさえ浮かべながらダリウスにカップを差し出したエルヴィンの表情に、燭台にともされた火が影を作っていた。
ダリウスはエルヴィンからカップを受け取りながら、目線を落とし、頷いた。




「今日、ここに来る道中で、リヴァイさんとよく話をしましたよ。私は学者だ。学者の気はこの肉体が持つ時間よりもはるかに長く、自分の死後もその先も、また別の学者の知恵が真実を明かしてくれることを知っている。私が過去の誰か別の学者が得た知識を受け継いだように、長い、長い気の持ち主だ。しかし、あなた達兵士は違う。いつも一分一秒を争い、一秒先の世界を見ている。我々とは違う生き方の人種だ。しかし、私が学者の生き方を続けるのならいつか、……夢子を、殺すのでしょうね」




ダリウスの視線はカップに注がれていたが、そのカップにゆらゆらと浮かんでいるものは、未来だった。
「憲兵団の拷問の話は何度か聞きました。…私自身、経験をしている。あなた方も、彼らのような拷問の手腕ぐらいは持っているのでしょう。タイムリミットがどれだけ与えられているのかは分からないが、それが切れる時、団長、あなたは実力行使として、夢子の肉体に無理矢理答えを聞きだそうとするでしょうね」
「リヴァイが言っていたかね?私がそういう男だと」
ダリウスは、肯定も否定もしない薄い笑みを浮かべて答えなかった。
エルヴィンが歓楽街に転がっていた油や泥や腐った酒にまみれていた頃のダリウスが持っていた、剣呑さの理由をエルヴィンは垣間見えた気がした。





夢子の部屋の扉をそっと開けた。
客用ベッドで眠る夢子は、ドアを開けた物音にも、一歩部屋の中に入り、その枕元に立ったエルヴィンにも気がつかずに眠っている。その頬にいくつもの涙が跡となって月夜に光っているのを見てとったが、エルヴィンの心は何一つ動かされなかった。
全人類と、一人の娘。天秤に掛けるものが何であるべきかは、よく分かっていた。



「そうだな。私は、何の迷いもなく、君を殺すだろう」


呟いた言葉は彼女には全く届いていないようだった。狸寝入りだったとしたら、この言葉の意味に何かを示してもよさそうだったが、そんなことはまるで伝わっていない様子で、彼女はぐっすりと、青白い顔で眠り込んでいた。


「私は、そういう男だ」


そう、エルヴィンは、そういう男だった。そうあるべきだと信念を抱いていた。