私が17歳だった頃〈ブラッドレイ夫人の場合〉


記者さんだったらもうすでにお調べかもしれませんが、私の家は代々東部で石鹸をつくる工場を運営してきました。
東部の田舎で放牧して育てている乳牛から絞ったミルクから作る石鹸。そうそう、よくセントラルタイムズに広告も出していましたね。ちっちゃな、いかにも悪戯そうな男の子がほっぺたに泡をつけて手を洗う写真がすっかり愛されて、もうずっとあの写真の広告を使っているの。あんなに可愛い男の子だけど、あれはね、実は子供の頃のサミュエル叔父様なのよ。そうそう、あのそばかすだらけの7才の男の子が、もうすっかり髭を蓄えたお爺さんなのよ。


牧畜を持って居るものだから、チーズやハム、羊毛、フェルト生地…あと蜂蜜にも手をだしているけれど、やっぱり本業は石鹸。
今でももちろん、家の石鹸で洗濯もするし、顔も洗うのよ。うちは混ぜものは一切していないから、穏やかで優しい香りがする。一度どなただったか、外国の香水を練り込んだ高価で素敵な石鹸をくださった方がいたけれど、あの人は一度それで身体を洗ったきり他所へやってしまって、ずっとうちの石鹸を使ってくださっていたの。あの人は口には出さないけれど、そんなところがあったのよ。案外保守的だっただけかもしれないけれど、私はとても嬉しかった。


あの頃、あの人はとても忙しかったけれど、秋の収穫祭の頃には、セリムを連れて私の生家のあるイーストレイクへ紅葉を見に行ったわ。
広大な湖に、まるで鮮やかな絵具を塗った指をとんとんと叩いて山々に色付けしたように赤や緑や黄色や…沢山の色が混ざりって、本当に綺麗な山が湖に鏡のように映り込む、あの人はキャンピングチェアーに座ってほんの少しのブランデーを舐めるように飲みながら読書をなさって、私は隣でセリムの為の冬の手袋を編むの。セリムはずっと、小さな魚を釣ったり、護衛の方々を巻き込んで落ち葉を集めたり、持ち込んだ図鑑を広げて植物の名前を探したり…。本当に、いつまでもいつまでも、湖と紅葉した山々を眺めていられた。
秋の頃は楽しい思い出がいっぱいだった。ブラッドレイ家の穏やかな日々。私の宝物。


あの頃、私が願っていた事は、あの人が早く軍を退いて、あの秋の頃のような穏やかな時間をずっと過ごすこと。
そうして二人で一緒に年老いて、今度はセリムの子供に、おじいちゃんはね、昔はすごい人だったのよ、と暖炉で昔話をして、ちっちゃなその子にその話は何度も聞いたって怒られるの。あの人は何も言わずに、心起きなく本を読む。私はずっと、傍にいる。


たった、それだけ。




あの人と出会った頃のお話?
さっきもお話した通り、うちは石鹸農家で、名家ではなかったわ。
それに田舎の大きな家にそうあるように、兄弟も沢山いたの。本当なら私もイーストレイクの小さな学校を出たら花嫁学校にでも行ったのだろうけれど、兄弟の中でも私は好奇心が強い子で、どうしても都会へ出て勉強をしてみたかったの。そこでお父様に頼み込んで、セントラルにある聖アントニウス女子カレッジへ入学し、寄宿舎へ入りました。


なんと言ったらいいのかしら、女の子ばかり集めた寄宿舎の、なんて騒々しい日々!毎日がお祭りみたいだったわ。
ふふ、そうよ、私にも娘時代はあったのよ。でもね、都会育ちの名家の女の子みたいにアイロンでくるんと素敵に髪をカールさせたり、恰好良い垢抜けたショートカットにしたり、赤い口紅をきりっと塗る事なんてできなくて、いつもポニーテールを三つ編みにして、母がくれた赤いシルクのリボンを巻いて、お姉さまのおさがりのブーツを履いて、やっぱり田舎の女の子という感じだったわ。でも、都会のキラキラとした女の子たちの中に入ると、まるで自分も素敵な女の子になったみたいで、毎日が本当に、とても楽しかったわ。
バスケットをしたり、天体のことを勉強したり、神さまのことを学んだり、夕食のプディングを取り合ったり、級長選挙をしたり、チャリティコンサートのための練習をしたり……なんでも、本当になんでも、楽しかった。



寄宿舎で相部屋だった女の子に、ジュディ・チェリーニがいたわ。
そう、あのチェリーニ家のご令嬢よ。代々上院議員を排出された本物の名家のお嬢様。ジュディはツンとした綺麗な鼻を持った横顔がカメオのように美しい女の子で、いつもダークブロンドの髪をサラサラに梳いて、頭にリボンを結んでいた。ちょっと気取ったところがあるけれど、お金持ちの家に生まれて、愛されて育った女の子にそうあるように、とても素直で純粋な子だったわ。私たちはお互いがまるで違う育ちをしていたけれど、でもお互いがとても大好きだったの。今もずっと親交は続いている。


そのジュディに声を掛けられて、私は彼女の家のパーティーへ行ったの。
ジュディのお父様が何かのお仕事で成功されたお祝いとか、そんな大人のパーティーだったわ。17歳の私たちの身の回りには毎日沢山の事が起こっていたから、それが何のパーティーだったかはすっかり忘れてしまったけれど、寄宿舎では見たことがないような立派な紳士や、素敵なナイトドレスを着た美しいご婦人方が沢山いらしていて、ジュディの家のポーチにはセントラルであの頃とても人気があった高級車がたくさんの列を作って、着飾った人たちをどんどん降ろしていって、シャンデリアは夢のように煌めき、ピカピカに磨き上げられた銀食器の上には素敵なボンボンやアイスクリームや七面鳥が並べられ、音楽隊の奏でる流行りの曲に合わせて若い恋人も、ご夫婦も、みんな抱き合って踊っていたわ。

ああ…、まるでトーキー映画のワンシーンのように美しい夜だった…。


けれどもジュディのお父様がご挨拶を始めるために、ジュディを呼び寄せてしまって、私は取り残されてしまった。
ジュディは「すぐに戻るわ」と言ったけれど、私の知らない人たちの輪の中へ入ってしまってずっと戻ってこなかったの。田舎者の私は都会の上流階級のパーティーがすっかり怖くなってしまって、母が選んで送ってくれた淡い水色をしたレースがたっぷりついたドレスも、ジュディや他の女性たちが着ているすっきりとしたシルクのドレスに比べて垢抜けないような気がして、なんだか自分がとても場違いな気がして、でも張り切って選んでくれたお母様に悪いような気もして、だけど誰の目にも留まらない場所へと逃げたくなって、バルコニーへと隠れようとした。


そうしたら突然、私の胸にカクテルグラスを押し付けた男の人がいた。
まだ中身が入ったままのグラスが胸にぶつかって、真っ赤な葡萄酒がドレスにぱっと広がった。
でも男の人は、私を一瞥もせず、謝りもしないで言ったわ。「君、早くこれを片付けてくれ」と。
気がついたら私はその男の人にビンタしていたの。



――――それが、あの人…25歳のキング・ブラッドレイだった。



女中さんもみんな着飾っていたから、あの人、招待客の私と使用人を間違えたんだわって、すぐに気がついたわ。
でも注目は浴びているし、そうしている間にも夏物の生地の薄いドレスは真っ赤になって肌着まで冷たくなるし、私はもう後には引けなくて…ううん、失礼な男性相手に引くつもりもなくて、「あなた、いくらなんでも失礼じゃありませんか?紳士ならハンカチのひとつも差し出して手助けをしてくださるものではないの?」とかなんとか吠えてしまったのね。よくよく見ると、その人は軍の礼服を着て、眼帯をつけて、サーベルをぶら下げている。普通に出会ったのなら、ただの田舎娘の私は少し臆してしまったでしょうけれど、ご挨拶をする前にビンタしてしまったのだからもう怖くはないわ。私たちを取り囲む人の向こうでジュディが目を丸くしていたのだって覚えているほど。



「大変、失礼なことをした。申し訳ない」



そう言ってあの人は持って居た空のグラスを誰かに押し付けて、深々と頭を下げた。
まるで上級大将にでもするような、90度の最敬礼だった。
でも、謝られてしまうと今度はなんだか辛くなってしまって、私はしくしくと泣いてしまったわ。
お母様になんて言おうかと考えていたの。するとあの人は顔を上げて、「失礼」と言うと私の手を掴んで、人ごみをかき分けて、廊下へ出たんだわ。あの人がさっきまで話していた軍服の男の人達が彼の名前を呼んだのも無視して、私の手だけを握っていた。礼服の白い手袋越しにもよく分かる、熱い手のひら。初めて触れた男の人の手。大きな手にすっぽりと収まった私の手がとても小さく感じられて、もう涙はすっかり引っ込んでいた。廊下を歩いて、あの人は女性用化粧室に飛び込んだ。幸い誰もいなかったけれど、あの人が迷わず女性用に入ったのよ。良かったわ、未来の大総統閣下になる若者の不祥事にならなくて。


そしてあの人は跪いて、濡らした自分のハンカチで、私のドレスに広がった葡萄酒を、何度も何度も何度も、細かく叩いて吸い取ろうとしてくれたけれど、そうすればするだけ汚れは広がってしまって、石鹸屋の娘だった私はドレスがすっかりダメになったと分かったわ。でも「もういいのよ」が言えなくてずっと黙ったままでいて、あの人もずっと黙って辛抱強く私のドレスを元通りにしようとしてくれた。
怒っているのかしらと思った。でも、そうじゃなかった。




顔を上げたあの人の額にはうっすら汗が滲んで、眉を下げてすっかり参ってしまったという顔をしていた。

その時、本当に不思議だけれど、私はこの方とずっと生きていくんだわ、と思った。