春の山〈蟲師/ギンコ〉BLでも夢でもない
春が近づくと、山歩きは難儀した。
気温の変化のせいで、さほど標高が高い山でなくとも霧が生まれる。
朝方などは目の前が真っ白に濡れる。雲の中に立っているのだ。生まれた霧は薄く広がる雲となって薄曇りの中にかすかに明るいぼやけた空に溶けていき、空と空気との境界が曖昧になる。山は一晩で一回り大きくなる。大陸の華のような、強く甘い匂いが山中に満ちている。香気だ。それはギンコのような蟲師ばかりが覚える匂いではなく、山の木々や微生物、昆虫が目覚める時の生命の匂い。濡れた霧をたっぷりと含んだ湿った木が、わずかにその木の皮を捲らせ、真新しく白い木肌を見せた時の、青臭い匂い。名前を持つほどでもない小さな苔が芽吹き、冬の間にたっぷりと腐った腐葉土を盛り上げ、土の中に含まれたあたたかなガスを空気中に解き放った匂い。それらの匂いが雨のような雲を生む霧の中に溶けて、ジャスミンのように濃密な蜜の香りをさせた。その香気に当てられた蟲たちが蟲煙草の力にその細胞をほどけるように溶かすのもかまわず、狂ったようにギンコに纏わりついた。原始的な生命が強い力を持つこの時期の山は、厄介だった。
比較的おだやかな丸みを帯びた小さな山が連なる土地をいくらか歩けば、やがて集落が見えてきた。
山肌をいくらか切り開いた村に、どれも西に門を向けた家々が並び、その間を畑が並んでいた。もう収穫は終わった時期なのか、畑にはわずかばかりの青菜が見えているばかりだった。ギンコは軒先に痩せた大根がいくつも干された家の土間に向かっていくらか声を掛ければ、すぐに中から老女が出てきて聞き慣れぬ声に胡散臭げな顔をしていたが、ギンコの維新後に着られるようになった、ここらの村から見ればいくらも都会風のシャツに僅かに身なりの良さのようなものを覚えて汗に濡れた前髪を撫でつけながら「へい」と小さく返事をした。
「ここらで一泊したいんだが、どこかに泊めてくれるような家はないだろうか」
「ここらは皆親戚だ。この畦道を上った所におれらの本家の家がある。垣根のある家だからすぐわかろうて」
山を歩いた汗なのか、それとも肌に纏わりついた霧なのか分からないが、ギンコは宿の算段が付くと途端に肌に張り付くシャツの冷たさを不愉快に思った。早く身体を拭きたいとも思ったが、まずは話を仕入れておこうというように老女に言葉を続ける。
「それは助かる。で、ここの土地の話も聞きたい」
「あんた駐在さんか?」
「いや、蟲師だ」
老女は皺に埋もれて細く伸びた目を更に細めるようにして笑い、「そら珍しい」とすっかり歯が衰え、萎えた歯茎ばかりの口を開けて笑った。「昔は出入りの蟲師がおったもんだが、ここいらはみかけん。良い仕事ができるじゃろうてな」と言ってからひとしきり昔村に出入りしていた蟲師の話をするのをギンコは辛抱強く相槌を打ってやりながら聞き、すっかり気をよくした老女から「話ならなんぼでも本家で聞くように」と念押しをされ、畦道を上った。
足元で艶々とした緑色をした小さなアマガエル達が慌てたように飛び跳ねてギンコに道を譲るのを、それを踏みつぶさないように慎重に歩きながら、ぬかるんだ畦道をいくらも登らないうちに、カキツバタの垣根を持った庄屋のように立派な家にたどり着いた。ここらの山の家にしては随分と立派だった。昔はどこぞの名家だったのかもしれないな、とギンコは内心で感心しながら、その門扉を叩けばすぐに田舎の小作人らしい小柄な中年男がひょっこりと顔を出した。黒々とした小さな丸い目はその年の男としては不思議なほど濡れている。どこかぽかんとした顔には旅人をいぶかしむような世間体はないようだったが、さきほどの老女に紹介されて来た、と老女の名を告げればすぐに承知したらしい男が頷いて、「まぁ、足でも洗ってくれ」と土間へと通してくれた事に安堵する。今更野宿は勘弁したいところだったし、そろそろ商売もしたかった。
「一応旦那さまに了承してもらってくっから、ここらでまっとくれ」
「ああ、感謝する」
男はひょこひょこと右足を庇うように歩きながら、土間の奥へと消えていった。
男がいなくなると、すっかり家の中からは人の気配が消えたように静まり返った。
広い家なのに、随分と静かだな…
先ほどのアマガエル達が雨の予感に気持ちを高ぶらせるように鳴き声を上げる声ばかりがよく響く。
山へ出かけているとも思えないし、随分と静まり返っている。それに、僅かに何か…かすかに動くように浮遊する蟲の気配も感じた。空と地表との境界が曖昧で、香気が健やかに放出される土地によくあることだった。人間の領域と自然の領域が溶け合って、人間の生活のすぐそばに蟲が溶ける。だが、そう悪質なものでもないようだとは思った。ごく、自然なもの。その影響力の大きさは全く次元が違うものだとしても、生き物である以上切り離すこともできずに共有するものだった。
男が盥に用意してくれた水で足を洗っていれば、やがてひょこひょこと歩く男が壮年の男を連れてきた。
農民というよりも、神職についている人間のようだ、とギンコは思った。その顔はどこか都会的で、若い頃はさぞ優男だったんだろうと連想させるような細見の神経質そうな顔をしていた。
「雨季にて粗食しかないが、ゆっくりしていきなさい。その代わり外界の話でも聞かせてやってください」
「いくらでも。それより蟲師を生業としていましてね。いくらか診ることはできる」
打ち身の薬くらいは出せるさ、と続けたギンコの言葉に小男と主は顔を見合わせた。
「ではこの者を診てやってほしい。雨が近づくと膝が動かんという。だが、まずは部屋に通そう」
ギンコのような若者が山を歩く理由を考えていたらしい主も、「蟲師」という事で合点がついたらしくようやくいくらか警戒を解いて薄く微笑んだ。山の中の村には暗黙の掟があり、旅人がその戸口を求めれば泊めねばならなかった。だが社会という大きく曖昧な水をたっぷりと湛えた盥が、維新後、ゆっくりと動き出し、それまで穏やかに水面を保っていた水がどぶんどぶんと揺れ溢れる影響は、この山奥の村にさえ届いていた。近頃は旅人も心安くはできなかった。
確かに主が言ったように馳走はなかった。
それでも客人にいくらかのもてなしをしようとしてくれたらしく、採れたての分葱やコシアブラなどの山菜を天ぷらにし、山奥には貴重な塩が惜しげもなく降られたものは、平素山の中で保存食を齧るばかりのギンコの舌をたっぷりと喜ばせた。せっせと主とギンコの二人分の食事の世話をする小男は、ギンコから外界の新鮮な話を聞きたがっている様子だったが、主の手前自ら口を開く事もなく、ただ好奇に満ちたぎょろぎょろとした子供のような大きな目でギンコの一挙一動を眺め、ギンコが話し始めてくれるのを待っているようだったが、口数が多いわけでもないギンコもきっかけもなく話始めることもしないまま、静かに食事は終了した。
「ほぉ、見事なものだ。昔、癇癪の蟲を取るのを見た事はあるが、これはそういうものなのかね」
静かな食後、さっそく小男の膝に居ついた蟲をお灸のようなもので炙り出してやれば、さっきまでの事が嘘のように男の膝はすんなりと曲り、主と男との目を丸くさせた。山歩きをするせいで、山に居付く蟲を利き足に絡め、集めていたらしかった。おそらく、この男の性質が動物のように純粋であるせいらしい。ともすれば少し知恵が遅れているとも町で言われるような、動物のような純粋さ。その性質が自然界によく溶け合い、同じ波長となって蟲を読んだのだろう、とギンコは読んだ。
男の膝に、蟲煙草とよく似た成分を練り合わせた灸にまろやかな火をともせば、彼らには見えていなかったが、男の膝に絡んでいた線虫のような蟲の塊はすぐにほどけて消え、それらの後始末をしながらギンコは「そうだな」と曖昧に頷いた。民間療法のようなもので、癇癪持ちの子供の手のひらに蟲師が特別な水を練り込めば、手のひらから白い線虫のようなものが抜け出し、ひょいっと子供の癇癪が治るというもので、今でも町の方でも根強く信じられていた。
「まぁ、あれはただのまじないみたいなもんでもあるさ。水に薄く糊を混ぜておけば、白い粉が出る。それを疳の虫だと思いこませるらしい。いくらかその手の方法があるらしいが、町のやり方は詳しくないんでね」
「そういうものかね。まぁ思い込みでもなんでも、それで良くなるというのなら…」
主は嬉しそうに膝を曲げては伸ばし、ぴょこぴょこと飛び跳ねる男をちらりと見やってから、眉を下げた。
ようやく打ち解けたらしい主が「里では…」と話を振ったことをきっかけに、ギンコもするすると余所での話を聞かせてやった。主も男もそれらの話にいちいち面白おかしく笑ったり顔を見合わせたり、山の民特融の素朴な純粋さでなんでも喜んでギンコの話を聞くうちに穏やかに夜が明けていった。
一泊したのち、小男から膝の礼だとたっぷり土産を持たされ、ギンコは村を後にした。
霧が晴れていくにつれて、青磁色の空をうっすらと開いていくように晴れ間が差していく。霧に濡れた草が大きな水の粒を光らせて、ギンコの頬へと落ちた。ふと振り返ると、不思議と村の気配が消えていた。ただ、ぼんやりとした蜃気楼のような霧がもやもやと薄く広がっているのを認めるばかりだった。
下山した村の軒先で味噌売りの男から話を聞いた。そんな場所に村はないという。
僅かに重たい土産の詰まった駕籠を下して覗いてみると、中には山菜や木の実ばかりが詰まっていた。
味噌売りの男と顔を見合わせてから、苦い顔をするギンコに男はひっひと笑った。
「狐狸も蟲師に助けられたか」
山は春を迎えようとしていた。