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『あ、おいしい』

カリカリに焼かれたベーコンを口に運んで、無意識にこぼれた言葉に、エルヴィンとダリウスが「ん?」という顔をして一斉にわたしを見た。日本語が通じないと分かってから、言葉が通じていないのにぺらぺらと話す気力もなくて、自然と無口になっていたわたしが洩らした言葉に、エルヴィンは先を促すように頷いた。おいしい、という単語をまだ習っていないからなんて伝えたらいいか、と思ったけれど、さっき口に運んだベーコンを指さしてわたしは笑みを浮かべて頷いた。

『おいしい』

ゆっくりと言って、せめて伝わればいいなーと頷いた。
親指たてて「good!」ってやろうかと思ったけれど、指のジェスチャーは国によって意味が異なるらしいし…と思ってやめておいた。どこかの国だと卑猥な意味があったと思うし…と判断した。この、言葉も文化も分からない状況で下手なボディランゲージはやめておこう。でも、『おいしい』と笑みでエルヴィンには通じたみたい。

「おいしい、ってことかな?」
「お、おいしい…おいしい?」
「そう。おいしい」

エルヴィンの言う通りに繰り返して、エルヴィンはにこにこと頷いて、わたし達の食事の手伝いをしたきり、後ろに立ってウエイトレスさんのように待機していたフラウベルタに「おいしい」と言って彼女が少し嬉しそうな顔をしたので通じたって事で安心した。エルヴィンの家での食事は、あの小屋での食事よりもずっと質が良いと感じて、久しぶりに「おいしい」と思った。



――――おいしい、たべもの。



最後に「おいしい!」と食べた食事はなんだったろう。
友達と一緒に、駅ビルの中にあるお店で白いブラウスを買った日に食べたタラバガニのクリームパスタを食べた時だったなぁ。
駅ビルのレストランだなんてちっとも期待してなんかいなかったのに、一度冷凍されたせいか、かえって味がぎゅっと濃縮になった蟹の香りがよく絡んだソースとアルデンテになったパスタが絡んで、ちょっと醤油が掛けられていて…あれは、おいしかったなぁ…。でも肝心のカニはパサパサで、「こんなのただの飾りだね」と一口食べただけで、殻を割ってまで中身を食べようとはしなかった。せっかくオシャレをしているのに、ソースに濡れた殻を手で触って割って、身を穿り出して食べるようなことをしたくなかった。あのソースに絡めて食べたら、きっと、おいしかったに違いない。間違いない。


それに、ゼミのみんなで行った焼肉の食べ放題。
男の子たちは大盛りのライスがどこに消えていくのか分からない速さでカルビがどんどん網から消えて、わたしがミノを焼いていたら酔った誰かが「ミノは焼くのに時間がかかるから時間制限の食べ放題じゃ負け組だぞ」なんて言ったのを発端に、ホルモン派かカルビ派で随分騒いだ。あの時、ごま油に塩味の効いたクッパを美味しいと思ったのに、アルコールと肉とでお腹いっぱいになってしまい、結局半分も食べないでそのままにした。


冷蔵庫の中で腐らせた納豆。居酒屋で手をつけなかった突き出しのキャベツ。半分飲んで捨てた紙パックのミルクティ。ポケットの中で溶けたから捨てた飴。時間が経って変色したので諦めた切ったリンゴ。スイーツバイキングで一口食べて好みじゃないからとそのままにしていたら片付けられたオレンジムース。お土産にもらってすっかり忘れたまま賞味期限が切れて捨てたミミガー。鞄に入れていたら粉のようになっていたから鼻をかんだティッシュと一緒にゴミ箱に入れたチョコチップクッキー。


日常の中で、いくつも捨てていった、たべもの。 あれらはきっと、とても『おいしい』ものだった。


「おいしい」

もう一度、今覚えたばかりの「おいしい」と今度はもう少し大きな声で言って、少し味の薄いキャベツが少し浮いただけのスープのカップに口をつけた。キャベツは塩漬け保存でもされていたのか、口にいれると海藻のようにくちゅりと潰れて、あとから強烈な酸味が溢れた。スープの味が薄いわけだ。胃がキャベツの酸味に驚いてきゅっと縮んだようだったけれど、わたしは迷わずスープを飲み干した。エルヴィンも、ダリウスも、このスープの味に何の驚きも持って居ない、当たり前のような顔をして食事を続けていた。きっと、ここでは当たり前の食事。そして、あの小屋よりも、上等な食事。リヴァイやハンジと同じ食事を与えられていた。あの食事が、あの味が、あの品質が、「貴重なたべもの」だった。


あの街の頃を思い出して、懐かしさではない理由で、泣きたくなった。



農業に、食べ物の根本にかかわる勉強をしていた自分の愚かさに、泣きたくなった。
もしこの日々が神さまからわたしへの「戒め」や「罰」なら、もう十分だ。
もう十分分かったから、もう十分反省したから……


『どうか家へ帰してください』


祈るように呟いた言葉は、かすれた小さな声になってダリウスとエルヴィンの会話にかき消された。
そんな小さな声だから、神さまにも聞こえなかったのかもしれなかった。











エルヴィンの家では羊皮紙ではなく、紙があたえられた。
でもその紙はもちろんコンビニに置いてあるルーズリーフのようなつるつるとした薄い上等な真っ白な紙ではなく、どちらかといえば障子紙のように厚くて柔らかく、手漉きで作ったんじゃないだろうかという位目の粗いざらざらとした紙だった。それでもこんな時代に、といっても西暦何年なのかは分からないけれども、「紙」があることに少し驚いた。


ダリウスはあの小屋でそうしていたように、小さな黒板を持ち込み、授業を始めたけれど文字の読めないわたし相手に字を書くことはなく、もっぱら不器用なイラストを会話の捕捉に使うように書くばかりだった。わたしはダリウスが教えてくれる単語ひとつたりとも聞きもらさないよう、与えられた紙にカタカナで音を書いて意味を書いた。

大学でもこんなに必死ではなかった集中力でいくつもいくつもノートを取ると、突然ダリウスが授業を中断した。

「私 エルヴィン 行く」

勉強をしていた「わたしの部屋」としてあてがわれていた部屋は二階にあり、ダリウスは足元…一階を差してゆっくりとそう言った。理解できたことが嬉しくて「わかった」とわたしも答えたらダリウスが「良い」と簡潔に褒めて部屋を出て行った。
授業でよく使う言葉は「わかった」「わからない」「はい」「いいえ」「良い」「ダメ」だったから、ここら辺はすぐに理解できた。


中学生のとき、英語ってどうやって勉強しただろう…
全く初めて出会う言葉を、どうやって使えるようになっていったんだっけ…。
辞書があったし、教科書は「hello」から始まって、先生がみっしりと教えてくれたなぁ…。英語、話せるようになりたかった。
そういえば先生が「英語は単語力だ」と言っていたけど、確かにそうだ。今は就職のための英検やTOEICに出てくるような「事業仕分け」や「委託先」「同僚」「コンプライアンス」とか、そういう言葉は全く分からなくてもいいから、身の回りのものから覚えなくっちゃ。


机…机と椅子はさっき習った。………あ、そうだ!!








夢子を一人部屋に残していくことにダリウスは抵抗があったが、しかし授業の最中、この屋敷の屋根から隣の家へと立体起動で飛んでいった隊士たちを見つけて居ても立っても居られなくなった。さきほど朝食の席でエルヴィンは、昼前に出仕すると言っていたことを思い出し、教えた単語を忘れないようにメモを取り続ける夢子を一瞥してから、「この様子なら大丈夫だろう」と判断して、彼女に教えた単語ばかり、助詞のひとつもない言葉でエルヴィンのところへ行くと告げると、嬉しそうな顔をした夢子から「わかった」と返事が返ってきたことにまず満足した。授業中に教師がいなくなり、前の席の生徒へ紙屑を投げて遊ぶような、束の間の休憩時間を得たことを喜んでいるのではない事くらい、「人間の気持ちに鈍感なタチだ」と自覚するダリウスにだって分かった。

部屋から出た際、エルヴィンから渡されていた彼女の部屋の鍵を掛けることは、できなかった。


「エルヴィン団長」

階段を降りると丁度身支度を整えたエルヴィンが玄関からベルタ婦人に見送られ外へと出ようとするところだった。
ダリウスが夢子を置いて一人で出てきたことに僅かにエルヴィンは不愉快そうな顔をした。
「鍵は掛けただろうね?」と口調ばかりは穏やかだが咎めるような声色を微妙に含ませていた。ダリウスは曖昧に「ああ」と頷き、エルヴィンが口を開くよりも早く「調査兵団を私的に利用し、この家を、彼女を見張らせていたのですか」と詰め寄った。
エルヴィンの目がすっと細められた。取り繕った笑みも、部下を諌める厳しさもない、真っ白な顔だった。


「私的?ダリウス教授、彼女を監視することはもはや我々の仕事だ。道楽で女を囲って護衛をさせているのとは訳が違う。我々の仕事は人類が壁外で生きる為の手掛かりを探すもの。不審者の捜査ではない。彼女がただの不審者であればその辺で酔い潰れて転がっていようと、地下街へ逃げようと、野垂れ死にしようと好きにすればいい。だが、彼女は不審者ではない」


ダリウスへの痛烈な皮肉だった。
路上生活者さながらの様子で、歓楽街の路地裏で油と生ごみにまみれて異臭を放っていた時の姿ではなく、髭をあたり、薄くなった髪を紳士風に整え、清潔なシャツを身に着けた今のダリウスは過去、その青年期に貴族相手の専属教師としてその教養を糧にしていた頃の理性と知性が見えていた。目元に刻まれた細かな皺に埋もれ始めた灰色の瞳が僅かにたじろいだ。


「私は、夢子が持って居た文明の力の意味を、根こそぎ知るまで彼女を自由にするつもりはない」


きっぱりと言い捨てたエルヴィンは、もうこれ以上ダリウスと話す必要はないとばかりに彼に背を向け、外へと歩き出した。重いブーツが鈍く空気の抜ける音を立てながら玄関の僅かな階段を一瞬の迷いもなく降りていく。午後の陽ざしを浴びて、屋敷の外は呆れるほど平和で、揃いの煉瓦でつくられた屋根から屋根の間を縫うように鳥が数羽飛んでいった。
エルヴィンが一歩足を止めて、肩ごしに振り返った。


「ダリウス教授、監視しているのは夢子だけではないという事を覚えておいてもらおう」


その言葉が持って居た複数の意味に言葉を失ったダリウスを残してエルヴィンは歩き出し、男たちの会話を耳に入れながら表情ひとつ変えずに立っていたベルタ婦人が慣れた手つきで扉を閉めた。樫木で作られた大きく重い扉は、ダリウスの肩をびくりと震わせるほど大きな音を立てて閉まった。







ドアを開けると、夢子が熱心に何かを作っている最中だった。
まさかサボっていたわけじゃあるまいし、と思いながらも僅かに脱力したままの身体では咎める気力もなく、その手元を覗き込んで、ダリウスは目を瞬いた。夢子は少し得意そうな顔をして、小さな長方形にちぎられ、彼女の言葉で何かが書かれた紙を見せて笑った。


「単語 わかる」


よく見ると部屋中の家具に、その小さなメモは置いてあった。
カーテンのタッセルに絡めるように、机の上に一枚、椅子の上にも一枚、窓にも一枚挟まれ、黒板にも一枚、ペンにも、インクにも、チョークにも、枕にも、ベッドにも、シーツにも、カーペットにも…部屋のありとあらゆる場所に、小さなメモが置かれている。席を立った夢子は嬉しそうにベッドに書かれた紙を拾い上げて「ベッド」と答え、窓の木枠に差し込んだ髪を指さして「窓」と答えた。さきほど、ダリウスが教えた、この部屋の中にあるもの全ての単語だ。


「ダリウス 教える 単語 わかる なる」


夢子の目に強い光がともっていることにダリウスは気がついた。
あの小屋で見たこの子は、もっと弱かった。もっと瀕死の動物のようだった。
馬車に乗せられる際、足元にしゃがみ込んで抵抗した女の子じゃなかった。


「ダリウス わたし 知る 学ぶ」
「ダリウス わたし 話す」
「ダリウス」


夢子はここ数日で習った単語を使って自分の意思を伝えようとしていた。その黒い瞳にきらきらとした小さな炎が輝いていた。
――――かつて、人類が壁外にいた頃の秘密を知ろうと奔走していた青年の頃の自分のように。


「夢子 私 教える。すべて 教える」


夢子は、うん、と嬉しそうに頷いて机に座り、ペンを握った。
まるで授業の続きをせかすようにダリウスの椅子を叩く。かつて教えていた貴族の子弟からは見たことのない、意欲。
壁の外の秘密を知ろうと、学問をしていた。有害図書に指定されていた禁書を読みたいがために、それらを管理していた貴族に取り入って、どうしようもなく傲慢な馬鹿息子相手に家庭教師をした。人類が壁外にいた頃の歴史や文化や神々を、ダリウスは愛していた。―――例えそのために拷問を受け、性の喜びも、子供を授かる愛おしさの得られぬ身体になったとしても。


エルヴィン団長にただ利用されてたまるものか。
私は私のやり方で、この子に教養をつけて、秘密を知る。壁外の秘密を、文化を、神々を!!


「さあ、授業を始めましょう」



復讐のための授業を